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これが私と、淳之介の母である美代との出会いである。
この艶麗な義母は性根が優しくて、私が淳之介の妻でいる間に、世間のいうような嫁いびりというのをされたことがない。
むしろ年の離れた女友達であるかのように親しく可愛がってもらったのだが、それも今になって思い起こせばの話、この時の私は、明らかな男女の営みの痕跡を息子に見せつける彼女のだらしなさを不快に思った。
彼女は乱れきった襦袢を正すことさえせず、白くて細い腕を『獣』の首元に絡めて薄っすらと笑いを浮かべながら息子を見る。
「早かったんだねえ、もっとゆっくり帰って来ればいいのに」
淳之介は汚ならしいものでも見るような顔で母親を見下ろし、「はん」と嘲笑を吐いた。
「お楽しみのところ、邪魔して悪かったな」
「違うよぉ、どっか途中の草むらで済ましてきちゃえばよかったのにさぁ」
「済ます?」
「アレをさ。まさか、結納やら挙式が済むまで我慢する気じゃないでしょう?」
淳之介はこの言葉にたいそう憤慨したらしく、ドンと足をふみ鳴らした。
「どこでもここでも平気で欲情するような、その獣と一緒にしないでくれ!」
彼の怒りを受けてなお、母親は何もきにすることなく、『獣』の鼻面に自分の唇を寄せてその唇を吸った。大きく割れた獣の口元が軽く開くと、びっしりと生えた牙がちかりと光って見えた。
淳之介が怒り心頭というふうに、今度は二つほど足を踏み鳴らす。
「だらしない! それが嫁を歓迎する姑の態度か!」
「あら、これ以上の歓迎はないでしょ。どうせ今から同じことをするんでしょうし、やり方を見せてあげてるんじゃないの」
「母さん! 久子をあんたと一緒にしないでくれ!」
「ふ、おもしろいことを言うのね」
義母は獣の鼻先を押し返して立ち上がった。格子になった窓から差し込む光に照らされた彼女の肌はますます白く、その白さに添えたような襦袢の緋色と、赤い唇が艶かしかった。
彼女は明らかな怒りを表情に浮かべているのだが、私はこの理由がわからずに立ち尽くすばかりだ。その間に彼女は襦袢の前を引き合わせて、白い肌をしまった。
「面白いことを言うね、淳之介」
あざといぐらいに大きな声音は、どう聞いても相手を嘲り、挑発するそれだ。
「あんたは自分が自分の運命に逆らうことができると、本気で思っているのかい?」
「僕は逆らえないだろうさ、いずれそこにいる父のように獣になる。そんなことはとっくの昔に覚悟した」
「ならば……」
「だけど、久子は違う! きっと母さんみたいにふしだらな獣との肉業に溺れたりしない!」
「ふん、どうだか。その子がいくらいいとこのお嬢さんでも、着物一枚剥いだらただの女さ」
「違う、違う違う!」
「違わないよ。遠からずあんたはそのことを知るだろうさ」
私は震えながらこのやりとりを見守っていたのだが、これに気づいた義母は心底優しげなふんわりとした微笑みをこちらに向けてくれた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫よ、よくきてくれたわね」
ペタペタと床板を裸足で歩く音、ふわりと香る情交の残り香、それからひらりと美しく翻る緋色の襦袢……彼女は私に歩み寄り、ひどく親しげな表情で頭を撫でてくれた。
その手つきが本当に優しいものだったから、私はすっかり安心してしまって肩の力を抜いた。
「おやおや、随分と緊張していたんだねえ、もう大丈夫、おいで」
彼女に手を引かれて一歩を踏み出そうとすれば、淳之介の叱責がとぶ。
「母さん、余計なことをしないでくれ!」
彼女は私に向けたものとは打って変わった厳しい表情で自分の息子を睨み付け、唇を尖らせた。
「だってあんた、この子に詳しいことを説明してあげてないでしょ。むしろ、自分からは何も説明したくない、できれば自分の運命さえ知られたくないと思ってるんじゃないかい?」
「教える必要はないだろう」
「そんな訳があるもんか、この子は自分がどこへきてしまったのか、自分の夫となる男が何者なのか、知る権利がある」
「知ってどうなる。この島へ来た以上は泣こうが喚こうが家へは返してやれない」
「だから、体だけで言うことをきかせようっていうのかい、獣より浅ましいね」
「僕はまだ……獣じゃない」
「だったら人間らしく、この子のことも一人前の人間として扱ってあげるべきじゃないのかい? これは私の論じゃなくて、あんたの部屋にあった、なんだか難しい本に書いてあったことだよ」
「それは……」
淳之介はさらに反論を試みようとしていたが、義母はそれを許さなかった。淳之介に対しては追い払うように手を振り、私の手をさらに強く引き寄せる。
「さあ、おいで、まずは『獣』に挨拶しないとね」
彼女に導かれて、私はその『獣』の背中を撫でた。
獣の背中に生えている毛は存外に柔らかく、指の間をふわふわとくすぐる感覚は日向に寝そべった猫を思わせる。淳之介の『父』だというのだから年かさの男性のはずだが、あまりに人とはかけ離れた姿をしているせいなのか、本物の動物を撫でているような心地であった。
それにしても、人ならざりし姿をした獣が、まるきり普通の人間の容姿を持つ淳之介の父親だとはどういうことなのだろうと、彼の方に振り向く。しかし淳之介は私の方からすっかりと顔をそらしてしまって、その表情を窺い知ることはできなかった。
それでも肩がわずかに震えていたのは、あれはおびえだったのだろうか。
思えばここに来るまでの彼の行動には不可解なところが多い。私がこの島に来ることを待ちわびてはいたものの、いざ私の顔を見たとたんに何かの逡巡が生まれた、そんな印象を受けるものであった。
だから、この夫に何かを尋ねても無駄であろうと、私は姑の顔を見る。
「あの、この獣がおとうさまだというのは?」
「それは間違いないさね、これがあそこに突っ立っている淳之介の実の父親だよ」
義母は鼻先から軽くため息を吐き捨てた。これが明らかに何かを嘲る笑息に聞こえたのは、おそらく自分の運命と、これから私がたどる運命とを重ねていたのかもしれない。
「もっとも、この人だって昔っからこうだったわけじゃない。私がこの家に嫁に来た40年前には、島中の娘が色目を向けるような美男子だったんだよ」
「『人間の』美男子ですか?」
「もちろん、人間の美男子だったよ。それに誠実で、とても優しい人だった」
「いつから獣に?」
「ちょうど40になった年の正月、この島にも珍しく雪が降った日だったね」
義母が獣の頭を撫でてやる。その手のひらに狂おしいほど激しく耳の裏を擦りつけて甘える獣の姿には、知性のかけらも感じられない。
これはまるっきり畜生の心根しか持っていないに違いない。その時の私は、そう思った。
言葉など一つも知らず、ただ喉の奥でグルグルと甘えるようなうめき声をあげる、ただの獣。いくら毛でおおわれているとはいえ、着物のいちまいもつけない裸であることさえ恥じることはなく、義母の手のひらのぬくもりを求めて腹を投げ出すように床に身を投じた姿などは、まるきり飼い主の愛情を求める動物のしぐさに他ならない。
「呪いなんだってさ」
義母がぽつりと話し出した。
「この家の跡継ぎである男子にかけられた呪い。この家の代々の当主は、40になったと同時に獣になるんだよ」
それはつまり……
「そう、淳之介ももうすぐ獣になる。これは逃れられない運命さね」
いまいちど振り返るが、彼は相変わらず私から顔をそむけたままであった。
義母は続ける。
「獣の嫁の第一の仕事はね、夫が完全な獣になってしまう前に子供を産むこと、これが第一さ」
嫁に出された以上、子供を産む道具として扱われる覚悟も多少はしてきた。そういったお嫁さんは近所にもいたのだし、古い家へ嫁ぐとなればなおさらだ。だが、まさか、人ではないものの子供を産まされるとは考えたこともなかった。
私はひどくおびえてしまって、身を固くして淳之介を見た。彼は、今度は私をまっすぐに見つめていた。
このとき……ああ、この時だ、私が一生を淳之介に捧げ、寄り添って行こうと決めたのは。
淳之介は唇をきゅっと噛みしめ、目ばかりをぎらつかせていた。最も人を食らう獣のような血なまぐさい表情ではなく、本当にただ、不安な気持ちを飲み込み切れずに私のささいな動きさえ見逃さないようにと目を見張っているだけだ。
彼は優しい男だ。それでも私に子供を産ませることがこの家に生まれた男子の第一の勤めであり、それに逆らうことなどできるはずがない。
だから、ここで私が拒絶の言葉を吐けば……彼はおよそ人の思い及ばぬ無体なやり方で私を抱くことになる。それが耐え難かったのだろう。
「今ならまだ……僕が人間である今ならまだ、この結婚を解消できる」
後で知ったのだが、この言葉は全くのウソだった。獣とその嫁の絆というのはそんなに簡単なものではないのだから。
それに、いくら小娘とはいえ、彼の声音が震えていることにすら気づかぬほど薄情ではない。その不安がじんわりとしみ込んでしまったかのように、私の胸の奥がきゅうっと苦しくなった。
ふと横を見れば、『獣』は義母に腹を撫でられて喜悦の唸り声を上げている。それを見ていると、なんだか……とても悲しい気持ちになる。
そう、この獣はひどく悲しい存在だ。これが四足の完全なる動物であれば、人間である私には思いさえ及ばぬものだとあきらめて、こんな悲しい気持ちになることもないだろう。
だが、この獣は類人猿のように背骨が前のめりではあっても二足を持ち、前足ではなくちゃんと両腕を持っている。元が人間だったのだと想像するにたやすいフォルムをしているのだ。
人間だったころは、きっと辛いこともあっただろう、哀しいことも、うれしいことも、およそ人間らしい感情を持って過ごしてきたであろうに、そのすべてを失って喜怒哀楽のない獣に堕ちなくてはならないというのは、あまりにも悲しい……いや、悲しいのは獣に堕ちた夫に寄り添わなくてはならない妻の方か。




