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獣行の果てに  作者: アザとー
獣は来たり
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2

「幸助、船を浜に上げてくれ」

 淳之介の声に、幸助は船から飛び降りた。踏み砕かれた波が飛沫となって淳之介の顔に飛んだが、彼はそんなことは気にしない様子で、幸助と一緒に小舟を砂浜の上に押し上げた。

「さあ、花嫁さん、これでもう海は怖くないだろう」

 淳之介は飛び切り満面の笑顔で手を差し伸べてくれたのだけど、その笑顔のどこかに陰りが隠れているような気がして、私は小さな声で囁いた。

「あの、私、別に逃げたりしませんから」

「そうかい? 今から僕の両親に会ったら、きっとすぐにでも帰りたいと思うだろうよ」

「あの、お義母さんは私のこと……」

「ああ、そんな不安そうな顔をしなくても、母は嫁いびりをするような人間じゃないし、むしろ君がこの島に来ることを心待ちにしていたからね、きっとかわいがってくれるだろうさ」

「じゃあ、逃げたくなるって……」

「それはね、あの父と母の姿が、僕たちの未来を暗示しているからさ。あの姿を見たら、きっと君は自分の未来を呪い、運命を呪い、人生を呪うだろう。だから……」

 淳之介はさみし気に瞳を伏せた。

「君はきっと、僕を愛してはくれないだろう」

 両肩をがっくりと力なく落とし、首は深くうなだれた姿は、まるで怒られて家から追い出された少年のように儚い。

 自分よりもずいぶんと年のいった大人の男にこんなことを思うのは失礼かもしれないが、私が最初に感じたのは庇護欲であった。

(ああ、このまま私がいなければ、この人は海に帰ってしまうに違いない)

 そんな妄想までわいてくる。

 何しろ、淳之介は色白で線が細い。その細身の体躯を潮で濡らし、頼りなく浜に立ち尽くしているのだから、海から打ち上げられた波の花の化身であるような、そんな風情がある。彼の背後にある海が何かの気まぐれを起こして大波をよこし、その足元をさらったりしたら、泡のように弾けていなくなってしまうのではないだろうか。

 自分の妄想が恐ろしくなった私は、船の高さを借りて彼の頭を抱えて胸元に寄せた。

「大丈夫です。私はきっと逃げ出したりしない。あなたのことも、きっと好きになりますから、だから……」

 最後の一言は、もはや懇願。喉を震わせ、彼の耳に直接流し込むように聞かせる。

「だから、いなくなったりしないで」

 この小舟で海を渡れば父母のいる東京へ戻ることもできる。だが、それは距離的な話であって心の距離はすでに遠く、こんな小舟などでは渡り切れない大海を隔てた外国にでも連れてこられたような心地なのだ。

 もはや私にはこの夫よりほかに頼るものなどない。だから、彼が消えてしまうのではないかという妄想が、怖くて怖くて仕方ない。

 折よく『獣』の咆哮がまた一つ。

「お願い、私のそばにいて」

 身を震わせて彼に縋りつく。

 未熟果のような私の胸元に鼻先を擦りつけられた淳之介は、一瞬だけ、本当に昏い目つきをした。肉欲に飢えた、まさに獣のような目つきであった。

 だが私は男の欲望に疎い小娘だったのだから、ぎゅうと締め付けるほど強く背中に回された彼の腕を愛情の発露なのだと勘違いしてしまったのだ。

「久子」

 私の名を呼ぶ彼の声は、ねっとりと嘗め回すように口の中で練った吐息をたっぷりと含んで湿っていた。耳朶の奥深くまでもぐりこみ、鼓膜の表面に張り付くほど湿った、オトコの声だ。

「ああ、久子」

 うめくような声とともに、彼が洋服越しに私の左の乳房を甘く噛んだ。

「早く家に行こう、ここじゃだめだ」

「なにが?」

「ああ、所詮は僕も獣か……一刻も早く君を妻にしてしまいたくて仕方ない」

「妻に……結納ですか?」

「そんな形式上の婚姻なんかどうでもいい、もっと実用的な、子を成す間柄として、つながってしまいたい」

 彼はさらに低く声を落として、とても赤面せずには聞けないような一言を放った。

「つまり、今すぐ君を抱きたい」

 私はどう答えていいのかもわからず、ただ胸元に熱く吹き付けられる彼の呼吸の数など確かめているだけだった。

 これにじれたか淳之介は私を抱き上げる。

「だけど、ここじゃだめだ。幸助が見ている」

 彼の肩越しに見やれば、件の男はぽかんと口を開けてこちらを見ている。目の前で起こっていることが蜜事につながるいやらしいものだと理解できぬほどに中身が子供なのだろうか。

 私はその男のまっすぐな視線が恥ずかしくて、淳之介の肩先に顔を伏せた。

「家へ……淳之介様の家へ連れて行ってくださいな」

「ああ、そして今日からは、あそこが君の家でもあるのだ」

 ザクザクと砂を踏んで、彼は歩き出した。

 今になって思えば、おかしな話ではある。彼はこの少し前まで、確かに自自分の正体を私に知らせることをためらっていた。両親の姿を見せたくないというのも、それが私にこれから降りかかるであろう凄惨な未来を確かに予兆させるからに他ならない。

 だが砂浜を歩きだした彼の足取りには迷いの一つもなかった。

 私の無知と無邪気からくる愛くるしさに当てられて情欲の高まりに逆らえなかっただけだとうぬぼれることは簡単だ。

 だが、そんな薄っぺらい感情ではなくて、彼はこの時に私を一生手放さない決心をしたのかもしれない。

 それほどまでに彼の足取りは力強いものであった。

 私はただ、淳之介の体臭が甘く香る彼の胸元にしがみつくようにして運ばれるより他にない。細身で華奢に見えるというのに、触れれば硬い弾力を持つ筋肉が分厚くついた彼の胸元は心地よい。

 ずっとこの腕の中で揺すられていたいとも思ったのだけれど、浜を抜けてすぐは大きな山だ。特に海際は大岩がごろごろとあちこちに突き立つ崖になっている。そびえたつように垂直に切り立った岩壁に張り付くように組まれた石段が山の上のほうまで続いていた。

 見上げれば山の中腹、低く茂った雑木の間に赤い鳥居が見える。

「あれが……」

 私のつぶやきが不安げに聞こえたのだろうか、淳之介は私の耳たぶに触れるほど唇を寄せて、そっと声を吹き込んでくれた。

「あれが、僕たちの家だよ」

「神社なんですか?」

「そんな大層なものじゃないよ。あれが神社の形をしているのは昔、哀しい呪いを残して死んだある男を慰めるためで、民間伝承的な祠みたいなものだ、かたっ苦しく考えなくていいよ」

「でも、島の人たちがお参りに来たりするんでしょう?」

「この島の人間は、あれが内地でいう神社とは異なるものだと知っているさ。気楽なお参りになんか来る者はいない。何しろ、あそこに祀られているのは神なんかじゃない……」

 ゴウと低くうめくような方向が山の上から……確かに鳥居の奥から聞こえた。

 淳之介は憎いものをねめつけるような厳しい目つきを山の上に向けて、吐き捨てるように言った。

「獣……あれがあの祠の主だ」

「主って……獣はお義父様なんですよね、じゃあ神主さんってこと?」

「そうじゃない。獣は、祠に祀られているもの、そのものなんだ」

 私の体を抱えなおして、彼は石段に足をかけた。

「見ればわかるだろうさ、行こう」

 華奢だから虚弱だとは限らない。淳之介は私を抱えているというのに軽い足取りで石段を上る。彼の体はしなやかな筋肉の動きさえ鮮やかで、私は自分の体重がまるきりなくなってしまったのではないかと錯覚を起こすほどだった。

 石段を登り切った先には赤い鳥居がしっかりとたっていて、そこから先は石畳が整然と敷き詰められている。その右手には立派な構えの古い家屋があって、ここが日常の生活を送る母屋であるのだとすぐにわかった。

「さあ、こっちだ」

 しかし、私を石畳の上におろした淳之介が向かったのは石畳のさらに奥にある本殿であった。

 彼は先ほど散々に『祠だ』と揶揄していたがとんでもない、きちんと丹塗りの柱が建てられ、飾りを施した破風が嵌められた立派な社だ。こじんまりとした境内はきれいに手入れされていて、よく父に連れられてお参りに行った高輪の神社を思わせた。

 その境内に唸り声が響いている。

「獣……ですか?」

「ああ、そうだ」

 淳之介が社の扉を開くと、『獣』は入り口に背中を向けて座っていた。

 なんとも奇妙な獣だ。きちんと肩があり、背中を立てて座っている様子はとても人間臭い。背格好もちょうど、人間の男のそれに似ている。

 しかし衣服の類は一切身に着けておらず、前身は白くて長い毛がびっしりと覆っていて地肌を隠している。

「父さん」

 淳之介の声に振り向いた顔を見て、私はこれが『獣』であるのだということをはっきりと悟った。

 鼻づらが大きく前に張り出している。目は本来白目である部分が動物のような濃い金色に光っていて、その中に赤い瞳が浮かんでいた。

 ひどく恐ろしい顔つきだ。おまけにグルル、ゴルルと呼吸のたびに唸る声が聞こえる。

 私は驚いて身を引いたのだけれど、ちょうど後ろから入り口をのぞき込んでいた幸助が、立ちふさがるように私を押しとどめた。

「に、逃げちゃいけない」

 淳之介がこれを一喝する。

「幸助! お前こそ、この祠に入ってはいけない!」

 この哀れな男はひっくり返りそうなほど後ろにのけぞって、ぶるぶると震えながら淳之介を拝んだ。

「は、入ってない。こ、ここにいるだけ」

「本当に、決して入ってくるんじゃないぞ」

「わ、わかった」

「わかったら向こうに行っていろ、お前が見るようなもんじゃない」

「う、わ、わかった」

 幸助は素直に立ち去るそぶりを見せたのだけれど、去り際に私に向けてこう言った。

「お、奥様は、食われない、に、逃げなければ、食われない」

「幸助!」

「は、はい、今すぐに、い、今すぐに!」

 幸助が慌てて社の扉を閉じる。重い板戸にさえぎられて、社の中は急に暗くなったから、『獣』の金色の目ばかりがますます鮮やかに輝いているように見えた。

 淳之介が凛とした声を上げる。

「母さん、そこにいるんだろ、母さん」

 獣の腹の下から、緋色の襦袢を乱し切った女性が身を起こした。

 年のころはすでに初老の入り口を跨いだといういうところだろうか、白髪がだいぶ目立つ長い髪を振り乱し、口元には深いほうれい線が刻まれているが、顔立ちは目鼻がはっきりとしていて美しい。何よりも年を感じさせないほど色っぽいのだ。

 彼女の襦袢ははだけて、両の乳房がむき出しになっていた。むっちりとねばりつくような白い肌がまぶしい。私はひどく気恥ずかしい気分になって、慌てて彼女から目をそらした。


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