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「この子には、僕の運命を継がせてしまうことになる。迷信の中の存在としての運命を。それはとても罪深いことだと知っている。知っていても、僕は……」
彼がそこで言葉を飲んだのは、あまりに深い愛情を示すには人の言葉など無意味だと知っていたからかもしれない。目の端にうっすらと涙を浮かべて、彼は私の身体を手放した。
「少し眠らせてくれないか、今日はひどく精神がつかれているんだ」
彼の膝から立ち上がりながら、私の瞳にもうっすらと涙が浮かび始めていた。
誰にののしられても、化け物の嫁だとさげすまれてもかまわない、私はどうしても、この優しい男を手放したくはないのだ。
だから私は、淳之介に内緒で船を用意して兄に会いに出かけた。
千葉の突端にある町は、小湊鉄道で都会と繋がってはいても、その喧噪の欠片すら流れてはこないほど田舎の、実に閑散とした街である。海水浴の季節ならばもう少しはにぎわうのかもしれないが、今季節は駅前唯一の土産物屋も空いておらず、宿は少ない。
だから兄の宿泊先はすぐに知れた。それは長期の湯治客を泊めるような隠れ宿で、体裁やノーブルを先に立たせる兄にはふさわしくないような気もした。
もっともそんな違和感は、宿のおかみに呼ばれて出てきた兄の風貌を見たとたんに、すっかり消し飛んでしまったが。
あれほど身なりに気を遣う男だったというのに、兄は顎の下につまめるほど伸ばしっぱなしにした無精ひげを蓄えて、シャツなどもいつから着替えていないのか、首のところに垢がたまっている。何よりも目つきがギラギラとして、何かの狂気を奥底に沈めて昏く恐ろしい。
そんな兄の変貌を見ただけでも私はすっかり怯えてしまって、もと来た道を駆け戻って淳之介の腕の中に逃げ込んでしまいたいと思ったりもした。しかし、その腕を広げて待つ彼を守るためには、ここで退くわけにはいかないのだ。
自分が宿泊している部屋へ私を通した兄は上機嫌で、宿の者を呼びつけようとする。
「せっかく可愛い妹君が来てくれたんだ、ちょっと酒など用意してもらおうか」
「いいえ、いりません」
「そうかそうか、腹に子が居るんだったな。じゃあ、お茶にしてもらうか」
「何もいりません。今日は話をしに来ただけです。どうぞ座ってください」
私の態度が頑ななのを見て、兄はおおよその話というものを理解したのだろう。チンピラのように喉を絞った凄みのあるガラガラ声で唸った。
「ふん、夫を裏切れません、か。良妻で結構だな」
「夫を裏切るだの、裏切らないだの、良くわからない話ですわ。それよりも私はあなたの妹として、非常識なあなたのふるまいを叱りに来たんです」
これは精一杯のウソだ。本当は兄の腹などすでに知れている。兄は私の口から、淳之介が人間ではないという話を聞き出したいのに違いない。
その証拠に、兄はいやらしく私の身体を嘗め回すように見て、下卑た形に唇を歪める。
「やっぱり、あれか? 人間じゃない男と致す背徳感というのは、そんなにいいのか?」
「何の話をしようというのですか」
「決まってるだろ、お前が旦那とどんな夜を過ごしているかだよ。どうせ相手は人間じゃないんだ、俺たちでは思いつかないようないやらしいことをして、その子を仕込んだんだろう」
「そんなことは、いまの話に関係ないことです」
「ほうほう、あくまでもとぼけようという腹か。いいだろう、君の言い分を話してみたまえよ」
兄は腕を組んで、砂壁にもたれかかった。その視線の先、小さな床の間に飾り物のように置かれたピカピカの猟銃を気にしながらも、私はぐっと顔をあげた。
「兄さんはここしばらく島の人たちに迷信を吹き込んで歩いているそうですね。きちんと学を修めた方がなさるようなことじゃないでしょう」
「へえ、迷信ねえ、どんな?」
「なんでも、あの島に恐ろしい化け物がいるのだということを。子供じゃあるまいし、そんなお化けの類を、まさか本気で信じてはおられないでしょうね」
兄はこともなげに答えた。
「信じているよ」
「仮に兄様がお化けの類を信じているのだとしても結構ですが、あの島にはそんなものはいません。素朴で正直な人たちが素朴に暮らしている、それだけですもの」
「いやいや、それがね、素朴とばかり言えないこっちの浜の人たちはね、あの島に行くと戻ってこれないという話を頑なに信じているんだよ。もしもこれが本当なら、迷信か迷信でないか以前に、事件だ。駐在に届けなきゃいけないだろう。だからぼかあ捜査をはじめたのさ」
「お兄さんは刑事さんじゃないのに、そんなのおかしいわ」
「おかしくなんかない、あの島には君がいるんだから、妹を心配する兄としては当然の配慮だろう?」
「そんな心配は不要です。もしも何か事件があるなら、私がきちんと駐在さんに届け出ます」
「無理だろう、君はとっくの昔に獣のような淫蕩に堕ちているんだから」
一瞬、淳之介の正体が看破されたのかと身をすくめたがそうではない、兄は体を交わす行為をさげすんで比喩的にその言葉を使っているにすぎないのだ。
「男にだらしなく脚を広げては腰を振って淫らをねだるような、はしたない淫売に堕ちた君は、自分の男がどんな罪を犯そうとそれを許し、守ろうとするだろうね。女ってのは馬鹿だから、それが愛というものの本質なんだと勘違いしているところがある」
「お言葉ですが、ごく普通の夫婦事があるだけですよ」
「だから、夫婦だって男と女、普通だなんて思ってるのは本人たちばかりさ。肌を擦り合わせる行為の本質は、獣のそれと少しも変わらない。当人たちがどれほど高潔を気取っていても、それはただの獣行さ」
「兄さん、もういいです。兄さんが私の話をまっとうに聞いてくれないことはよくわかりました」
私は立ち上がり、部屋を出ようとした。その背中を、兄も冷たい声が刺す。
「ねえ、久子、せめて子供を失いたくはないだろうと、聞いたよな?」
振り向いてみれば、兄の両眼がぎろりと上目遣いにこちらをにらんでいた。それは獲物の血を求める狩人のまなざしだった。
私はその視線を振り払うように兄に背中を向け、足早にその部屋を出た。
逃げるように船に乗って白鬼島の浜へ帰りつけば、淳之介は浜風の中に白い毛を遊ばせて立っていた。
「おかえり」
聡い淳之介のことである、本当は私が兄のところへ行っていたことも、およそどのような会話が交わされたのかもわかっていたのかもしれない。だが、淳之介はそれについて何も尋ねようとはしなかった。
そんな彼の優しさがほんの少し悲しくて、私は白いシャツの胸元めがけて飛び込んでしまう。涙はあとからあとからあふれて、とどめおくことなどできなかった。
波の音は私の泣き声をかき消して打ち寄せる。波打ち際に寄せた波は私が落とした涙をぬぐおうとするように大きく広がってはわずかな泡となって砂中に消えてゆく。
私の涙も、それを胸元で受け止めて優しい夫のぬくもりも、すべてが儚い。
しばらくして、淳之介が私の肩をそっと引きはがした。
「大丈夫か、久子」
涙はまだ少し残っていたが、こらえきれぬほどの悲しい気持ちは鳴りを潜めている。だから私は頬をぬぐってうなづいた。
「そうか、じゃあ、体の方は、きつくはないか?」
彼の指先が私の腹をなぞり、気遣ってくれる。
「そっちはぜんぜん。むしろ調子がいいくらいよ」
精一杯に微笑んで見せれば、彼が深く安堵のため息を吐いた。
「そうか、じゃあちょっとだけ、二人だけで出かけようか」
彼が、たったいま私が乗ってきた小舟を引き寄せるから、私はいつかの岩礁へ行くのだと予感した。実際に、この島の周りで私たちが本当の二人きりになれる場所など、あそこより他にないのだから。
彼の船頭でたどり着いた岩礁は、この前よりもずいぶんと狭くて頼りない。
「大潮ででもなければ、こんなもんさ」
彼は膝までを海水に濡らしながら、私を抱えて船から降ろしてくれた。
「ごらん、久子、海だ」
海など、淳之介と過ごしたこの数年間でいくらでも見たというのに、この日の海は特別だった。
特別、何もない海。沖に浮かぶ船の一艘もなく、はるか遠くにかすんで消える水平線まで続く静かな凪……
狭い岩礁の上で身を寄せ合う二人は、この広大な海に比べてなんとちっぽけで、そして頼りないのだろう。私は震えながら彼に体を寄せる。
「寒いのかい、久子」
「少しだけ」
「帰るかい?」
「いいえ、もうしばらくだけ、このまま……」
私の肩を強く抱きよせて、淳之介は囁く。
「久子、この海の向こうには、こんな小さな島からは考えられないほど広い世界があるんだ」
「地理の授業で習いました。いろんな国があって、それぞれに風土が違うんだって」
「その中には、人の住まないところが、いくらでもあるんだよ。木々が生い茂っていて、動物しか住めないようなジャングルや、永遠に溶けない氷に覆われた大地や、人の住んでいない小さな島だって、いくらでもある。僕は、もうすぐ人ではなくなるけれども、だからこそ逆に、君と子供の二人くらいなら守って生きていけるから……」
「素敵な夢ですね」
なぜこの時、彼の話をもっと真剣に取り合うことをしなかったのだろうか。
「淳之介様と二人なら、どこでも暮らして行ける、私もそんな夢を見ることがありますわ」
「そうか、夢か」
彼は寂しそうにうなだれて、首を振る。
「久子、僕はね、君を実家に帰らせようかと考えている最中なんだ」
こちらの話の方が、私にとっては残酷な『現実』だ。
「そんなこと!」
「もちろん、獣の嫁を帰らせるなんて前例はないから、何が起きるかわからない。義父を見ていればわかるように、獣はとても独占欲が強いのだから、嫁を求めて海くらい渡ってしまうかもしれない。それでも、君がその子供を産むまでは、少なくとも平穏に過ごせると思うんだ」
潮風に白い毛を吹き流された寂しい顔を見て、私は彼が死を覚悟してしまったのだと悟った。ここで私に語った理由などは方便で、彼は自分の死に姿を私に見せぬようにしたいだけなのだと。
「いやです、実家には帰りません」
きっぱりと答えれば、うろたえたように彼が体を揺する。
「すぐに結論を出さなくてもいいだろう、もっと考えてから……」
「いやです。私はこの島で、ずっとあなたの隣にいると自分で決めたのですから」
きっとこれから毎日のように、彼は私に実家へ帰るように説得を始めるつもりだろうと思った。だが、そのどれにも折れるつもりなど無い。
私はこの時、自分が子供まで身ごもった大人であると勘違いしていたのだ。自分で最良の道を選び、その意志を貫ける一人前の大人なのだと。
「わかったよ、久子、今日は帰ろう」
彼が私をそっと抱き上げた。その腕の中で、私は何も起こらぬ、このまま永遠に続く平穏を意味もなく願っていた。
その無意味な祈りこそが、自分が少女から脱し切れていない証なのだと気づきもしないで……




