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獣行の果てに  作者: アザとー
風雲
26/29

 私は兄を説得することをあきらめ、淳之介の方を一刻も早くこの部屋から出してしまおうと考えた。

「淳之介様、そろそろ部屋へ戻りませんと、お怪我にさわります」

「ああ、うむ」

 彼が立ち上がるのを手伝う私の背中へ、兄がひどく残酷な言葉を投げた。

「そういえばお前、子供ができたんだってな」

 そういわれては、たとえ一言でも言葉を返さぬわけにはいかない。私は立ち止まり、短く答える。

「ええ」

「それは『人』の子なのか?」

「どういうことですか」

「いや、なあに、向かいの浜で面白い話を聞いてね。なんでもこの島には、人を食う化け物がいるそうだ」

「お兄様みたいに学問のできる立派な人が、そんなおとぎ話みたいな迷信を信じるのですか」

「わかってないね、久子、おとぎ話とは時に真実を含んでいるものだ」

「ともかく、淳之介様はお疲れです。どうか今日のところはご勘弁ください」

 私は兄から顔をそむけ、淳之介を支えて部屋を出ようとした。しかし、ああ、やはり身内ゆえの甘えというものか、私はこの兄を警戒しきってはいなかったのだ。

 背後でかちりと撃鉄を下げる音がした。振り向けば、兄が構えた銃口はまっすぐに淳之介の脊椎のあたりをにらみつけている。

「久子、何か兄さんに隠し事をしていやしないかい?」

「別にしていません」

「ふうん、まあ、今日のところはそれでいいか。でも久子、お前は小さいころから、兄さんにウソをつき通せたことなんかないだろう、それをよく考えて決めなさい」

「決めるって、何をですか」

「せっかく授かった子供まで失いたくはないだろう?」

 高笑いとともに銃を引き収める兄が憎い。私に獣のような力があれば、即時にとびかかって五体をバラバラに引き裂いてしまいたいと思う程度には憎い。

しかし私は獣ではない。銃を持った兄に対して、あまりにも無力だ。

 悔しさで唇を噛みながら部屋を出る私の背後で、兄の甲高い笑い声が、いつまでも響いていた。



 どうやら兄は向かいの浜にある温泉宿に長逗留を決めたらしい。釣り船などを借りて白鬼島へ来ては、『獣』のことを聞いて回っているのだという。

 それを真っ先に知らせてくれたのはサトさんだった。

「若奥様のお兄さん、昨日は西の畑のあたりをうろうろしていたそうですよ」

 夕食の支度を並べながら、サトさんは思い出したように話を始めた。

「畑仕事をする年寄りたちに駄菓子など与えて、いろいろと話を聞いて回っているらしいんですけどねぇ」

 島の西側は山にさえぎられて潮風も強くは吹き付けない。やや広く平地が広がっている場所でもあり、漁に出られなくなった年寄りや女子供がここを耕して、いくらかの野菜をこしらえているのだ。

 そこへ甘いものなど持って現れた男がどれほど好意的に受け入れられただろうかと不安にもなったのだが、サトさんの話から察するに、兄のこの奸計は失敗に終わったらしい。

「何しろこの島の人間は、他から来た人に慣れていないでしょう。おまけにこれ見よがしに旨いものなんかぶら下げてたら、そりゃあ詐欺師かなんかじゃないのかって、警戒もしますよ」

 どうやら誰も、兄にまっとうな話を聞かせようとは思わなかったらしい。

「そもそもが、お兄さんが聞きたがった話っていうのも、ねえ、この島の人間ならあまり他所へは聞かせたがらないことですし……」

 義母が右の眉をわずかに釣り上げる。

「まさか、聞いて回っているのは……」

「はい、向かいの浜で聞いた、この島に住む化け物の話だそうですよ」

「ふん、化け物ねえ。まあ、いかにもあれでは化け物の所業だけどね」

「奥様がそんなことを言っちゃあいけませんよ。獣はこの島では神様じゃないですか、神様を売ろうなんて不敬な人間はこの島にはいませんよ」

「私が怒っているのは向かいの浜の連中の言い草にだよ。うちの大事な人をつかまえて化け物呼ばわりとか、失礼極まりないね」

 それでも見た目は白毛獣面、しかも人を食らう獣の性質を知っていれば、義母の言葉ですら危うい言い訳にしか聞こえない。あれは外から見た時に、どうしても化け物に分類されるような類のものであろう。

 だが、ここまで淳之介とともに暮らしてきた私は知っている。今は知性も言葉もなく、ただ唸り声をあげて神殿にうずくまるだけの獣が、かつては情けや思考を備えた人間であったことを。それに寄り添い、ともに悩みも、苦しみも、時には痛みさえ分かち合い、絶え間なく交わす愛の中で夫婦であるという幸せを築き上げたからこそ、義母にとってあれは獣の姿をしてはいても、いまだに『夫』なのである。

 それ以上でも、ましてや、それ以下でもない。

「あの人のことなんか、何にも知りやしないくせに!」

 吐き出すような義母の言葉が、彼女の愛の深さを物語っていた。

 淳之介はそんな母をいくらかなだめ、サトさんには島中の者に兄に獣の話を決して聞かせ無いようにと触れ回るために使いを頼んだ。

 それでも私は不安を消し去ることができず、食事の後で淳之介に問う。

「そんな頼りないことで大丈夫なんでしょうか」

 淳之介は思考の鈍い日だったらしく、柱にもたれてうとうとしかけていたのだが、私の声に薄目を開けた。

「なにが?」

「だって、そんな口約束だけで……もしも誰かが兄にお金でもつかまされたら、簡単に獣のことを話してしまうかもしれないじゃあないですか」

「人の口に戸は立てられぬと言ってね……」

 私の不安な表情を見て取った彼は、自分の膝を叩いて促す。だから私は素直に彼の膝の中に座り、少し冷えた体を彼に預けた。獣になってから、彼の体温は以前よりも少し高くなった。鼻を寄せれば犬に似た獣の体臭も感じるというのに、依然と全く変わらぬ体の形が私を安心させてくれる。

 安堵のため息を漏らす私を見下ろして、彼の瞳が優しく笑っている。

「人の口に戸は立てられぬと言ってね、ここで白鬼家がいくばくかの金を払って島民みんなに口止めをして歩いても、君のお兄さんがもっと大金を出せば簡単に裏切るものはいるだろう。恐怖によって口を封じても同じこと、恐怖から逃れようと君のお兄さんに取りすがるものはきっといる。だからね、余計なことはしないで流れに任せるのが一番いいと、僕は思うんだよ」

「それで淳之介様が危険な目にあうのは、私はいやです」

「そんな心配をしなくても、島の者は他所の者に獣のことを話したがらないよ、今までもそうだったんだからね」

 淳之介がなだめるように私の髪を撫でる。その手の甲にも、すでに節ごとにふわふわと白い獣の産毛が生えているのだが、その優しさは依然と少しも変わらず人間じみている。

「獣の罪は、この島の人間の罪でもあるよ。島の者同士の小さないさかいであれば、わざわざ獣に裁きを仰がずとも解決することは多い。でも、島の外から来たものが罪を犯せば、それはどんなに些細なことであっても、島という閉鎖空間のバランスを崩しかねないと判断されて獣の前に引き出される。そしてね、たとえ獣のさばきを逃れても、一度獣の前に引き出されたものはこの島を出ることなく島の者によって打ち殺されるんだ」

「なぜ、無罪の人間を?」

「一人を帰せば、この島で獣さばきという残虐なしきたりがあることを他所に知らせることになる。そのさばきによって身内を殺されたことを知った者は、この島のすべてを憎み、ここを忌むだろうからね、それだけは避けなくてはならぬ。そうして積み重ねられた罪だけが、島の者たちの口をふさぐ唯一の手立てであるのだよ」

「そんなの、口約束みたいに頼りないものじゃありませんか」

「ああ、頼りない。でも、だからこそ、その程度でいいと僕は考えているよ」

「良くありませんよ!」

「いいんだよ。たとえば久子、君は街育ちだったね。きちんと文化が整備された街中では、神様はそんなに人の生活に干渉して、実権を握っていたかい?」

「いいえ、それは……」

 確かに神社に詣で、寺社に参詣することはあっても、神という絶対的な力を持った超人がそこに存在するわけではないことを私たちは心得ている。

「同じように、妖怪だったり、お化けだったり、そういった有象無象の類も信じられぬ迷信として扱われているだろう。僕は、そういう存在なんだよ」

「迷信であると、人に蔑まれて消えるおつもりですか」

「自ら消えたいわけじゃない。僕だって、君と……そしてこの子のために、この世にとどまりたいという思いはある」

 毛むくじゃらの手が、私の腹をなぞった。それは今まで私に触れたどの手つきよりも慈悲深い、父親の手つきだった。

「もしもこの島の者たちがそういった迷信を乗り越えて前に進もうというのなら、これも時代の流れだ、甘んじて受け入れるしかないんだろう」

 彼の手は私のへそのあたりで止まる。我が子がそこを内側から蹴りつけるのではないかと、それを待っている様子であった。

 きっと、そこに間違いなく自分の命を継ぐ愛しい存在があることを、確かめたかったのだろう。


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