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ぼつぼつとガラスに雨の当たる音がする。海際のこの島では、湿気をたっぷりと含んだ雲が大粒の雨を降らせることも珍しくない。
妊娠も二月目に入ろうとしている私は、重たい色の空を見上げて陰鬱とした気分で畳に寝ころんでいた。
獣面が、上からにゅっと私の顔をのぞき込む。
「加減が悪いのか?」
「いいえ、なんだか気分がすぐれないだけです。雨のせいかしら」
朝から妙に胸騒ぎがするが、その理由に思い当たらぬ私は、それを妊娠中によくある精神の不安定だと思っていた。
だが、厄災は家のすぐそばまでやってきていたのだ。
玄関のチャイムが鳴り、サトさんが大きな返事をしながら玄関口に降りる音がした。
「あらあら、遠いところを良くお越しくださって」
家中に響く声は、合図だ。淳之介が獣面になって以来、白鬼家では来客の度にこうして淳之介の隠れる隙を作る。
しかし今日の客は遠路よりの来訪、まさか家長である淳之介が挨拶に出ないわけにはいかないだろう。私はこんな時のために作っておいた頭巾を淳之介にかぶせ、大きく張り出した口元を隠してやった。
「奥の座敷にお茶を用意しますんで、どうぞ座ってくださいな」
サトさんの声を合図に、二人、身を寄せ合って座敷に向かう。
座敷のふすまを開けると、そこには私の兄が足を投げ出して座っていた。
「やあ、房総の方まで鳥撃ちに来たのでね、ついでに寄らせてもらったよ」
淳之介は兄の前に座り、居住まいを正して深く頭を下げる。
「これは、遠いところをわざわざのお越し……」
「やだなあ、鳥撃ちのついでだって言っただろ、たいしたことじゃないよ。それより、君の方はどうしたんだい?」
兄の不振は、もちろん淳之介の頭巾姿に向けられたものだ。私はずいと膝を進めて答える。
「実は誤ってけがをしてしまいまして、風に当てると治りが悪いというので、こうして頭巾なぞ作ってみたのです」
兄は心底馬鹿にしたように鼻を鳴らして笑う。
「いかにも田舎療法だな、そんなまじないみたいな療法じゃなくて、ちゃんと大きい病院で診てもらった方がいい、なんなら紹介してやろう」
「いいえ、これでいいんです。けがもだいぶ治りかけておりますし」
「それなら結構。ところで、新しい猟銃を買ったんだが……」
兄は結局、猟銃の自慢がしたくてここへ寄っただけなのだ。前回の淳之介の親身な相槌が相当に気に入ったものとみえる。
「女は猟銃の話なんか聞いてもわからんだろう、お前は向こうへ行っていなさい」
兄に片手で人払いのしぐさをされたが、私はそこを動こうとはしなかった。淳之介を一人で兄の前に置いておくのはあまりにも不安だ。
「いいえ、私もここにいます。いるだけなら、お邪魔になることはないでしょう?」
「そうかい、物好きだねえ。まあいいや、それより……」
兄がひくひくと鼻を動かす。
「この家は、何か獣を飼っているのかい? それもでかいやつ」
「いいえ、何も飼ってはおりませんが」
「そうかい、この前来た時も思ったんだが、獣の匂いがするんだよ。今日は特に匂う」
兄は来たばかりだというのに、私はもう一刻も早くこの兄をこの家から追い出してしまいたくてたまらなかった。
「兄さん、せっかく天気がいいんだから、表で話しませんか」
「いやだよ。外は寒いじゃないか」
「では、サトさんの家はどうでしょう」
「そんな、毎回毎回お邪魔しては申し訳ないよ。今日はここでいい。なに、すぐに帰るさ」
私は腹の中で歯噛みする。
「兄さん、じゃあせめて、猟銃をこちらへ、ここは神域ですよ」
「大丈夫大丈夫、弾は入っていないから」
兄は手元のケースを引き寄せて、ピカピカした猟銃を取り出した。
淳之介が頭巾の口元を押さえる。
「火薬のにおいだ」
「そうだろうとも。何しろ今朝がた、鳥を撃ったばかりなんだ。ああ、鳥はお女中さんに渡しておいたから、あとで食べるといい」
「に、肉……」
淳之介がぎらりと両眼を見開いたが、兄はそんなことには気づきもしない。ご自慢の猟銃を撫でまわして得意げに語る。
「これはヨーロッパから取り寄せた最新式の銃でね、本当はちっぽけな鳥なんかじゃなく、もっと大きな動物だって撃ち殺せるんだがね、今日はまあ、鳥撃ちの会だったのだから仕方ない」
「うう」
淳之介が唸る声を返事と思ったのか、兄の声が跳ね上がる。
「そうだろう、そうだろう、君だってちっぽけな鳥なんかじゃ満足しないだろう。次はイノシシでも撃ちに行って、ぜひとも大物を仕留めてきてあげよう」
「イノシシは、食べたことが……ない」
「そうかい、獣臭いからと嫌う人も多いがね、ぼかあ好きだなあ。牡丹鍋なんかにして野菜をしこたま入れれば、臭みはさほど気にならないよ」
「食べたい……」
「そうだ、この山にはいないのかい? 良ければ今から撃ってきてあげよう」
「ここには、いない」
「じゃあ、この辺にはどんな獣がいるんだい?」
「たぬき、イタチ、あと、小さいうさぎ……」
「そうじゃない、もっと大きなものがいるだろう、この獣臭の根源が……」
私は兄の目論見に気付いて震える。兄は猟銃の自慢に来たのでも、鳥撃ちのついでに寄ったのでもない。獲物を求めてここへ来たのだ。
いつから……きっと私の結婚の挨拶の時、すでに狙いを定めていたのだろう。
鼻の慣れてしまった私にはわからぬが、この家は獣の匂いに満たされているらしい。それは獣の存在を兄に知らしめたと、そういうことなのだろう。
もはや一刻の猶予もなかった。兄が何かを悟る前にこの家から追い出さなくては、恐ろしいことが起こるに違いない。
「兄さん、淳之介様はお加減が悪いんです。帰ってください」
私は兄の腕をつかんで引き立たせようとした。彼は猟銃を手にしているが、そんなものはちっとも怖くなかった。
私の頭の中には、もしもここで義父が咆哮などあげたらどうしようかと、そればっかりだったのだ。義父は神殿にいるとはいえ、あの咆哮は島中に響くほどに大きい。兄がこれを聞き逃すはずがない。
それに、いま、兄と対峙している淳之介は獣面だ。何かの加減であの頭巾が落ちるようなことがあれば、兄はその銃口を真っ先に彼に向けるだろう。
「早く、早く、この家から出ていってください!」
「おいおい、危ないよ、こっちは銃を持っているんだぞ」
全くの偶然であったと信じたい。私たちはもみ合っていたのだから、何かのはずみに決まっている。その証拠に兄はきちんとした構えを取ったわけではなく、銃を持った片手を軽く上げただけだ。
だが、その銃はまっすぐに、私に向けられていた。私の眉間をにらみつける銃口は深く、底の見えぬ闇が細くわだかまっている。兄が気まぐれに引き金を引けば、ここから飛び出した銃弾は私の眉間を砕き、生命のすべてを奪うのだろう。恐ろしさに身動きすらままならず、呼吸が止まる。
淳之介はそんな私をかばおうと腰を浮かせ、私の名を呼んだ。
「久子!」
兄は唇を薄く裂いて、今度は淳之介の鼻先に不穏な銃口を向ける。
「やだなあ、弾は入っていないって言っただろう」
いたずらにひかれた引き金は、しかし、かちりと音を立てただけであった。
「だいたいが、こんな狭い部屋の中で散弾銃を撃ったりはしないよ。そんなこと、常識で考えたってわかるだろうに」
銃身の曇りを自分の袖で丁寧にぬぐいながら、兄は饒舌だ。
「ああ、失敬失敬、君たちは銃については無知だったね、散弾銃というのは、こう、四方八方に向けて破裂するものでね、頑健な体を持つ大きな獣を撃つには、ちょうど具合がいいんだよ」
私も、そして淳之介も身動きさえせず、ただ無言だった。
「そう、例えば……」
兄がぬぐっていた銃をふっと構え、その銃口を再び淳之介に向ける。
「身の丈は五尺半。これに人よりも固い筋肉がついていたら、散弾銃が一番いい」
私の声は、きっと悲鳴のようにも聞こえただろう。そのぐらいに必死で、もう後も先もないほどに私は取り乱し切っていた。
「兄さん、ここから出ていって、今すぐ!」
それでも兄の表情からいやらしい薄笑いが消えることはなく、彼はのろのろとしたしぐさで銃口を下げただけだった。
「おお、怖い。うちの妹ドノは随分とハスッパな口を聞くようになったもんだ」
「はすっぱなんかじゃありません、人のうちに上がり込んで、人に銃口を向けるとか、兄さんの常識はどうなっているんですか!」
「ふうん、人……ねえ?」
兄が淳之介を見る視線は、私にもわかるほどの疑いを含んでいた。そのままじろじろと、彼の頭の先から足の先までをなめるように見回すものだから、私はすっかり怯えてしまう。
もしも兄が「頭巾を取れ」なんて言い出したら……取れば淳之介は獣面、兄にとっては人ならざる化け物だということでこれを撃つ正当な理由ができてしまう。拒めば、これもまた、兄の疑念を深めることになるだろう。




