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私は思い余って、彼の横面に平手を張った。乾いた音があたりに響いて、彼の力が緩んだ。
「久子……」
ゆっくりと私から手を放す彼の瞳はすっかり正気に戻っていて、それでも悲しみに潤んでいるのが切ない。彼は身を震わせて、私の身体を優しく抱きなおした。
「ごめん、久子……君がそんなふしだらな理由だけで僕を欲しがっているわけじゃないというのは、良く心得ているんだ」
「淳之介様、ふしだらな理由です。あなたにただ触れられたいと、それだけです」
「そんな悪ぶらなくていい。君は僕が消えた後、一人になりたくないんだろう。僕だって同じだ、君を一人にしたくはない……正直、子供でもいればと考えなくもない」
「ならば、どうか抱いてください」
「ダメだ、僕はもう、変わってしまった。以前のように優しく抱いてやることはできないだろう」
「ならば、乱暴で構いません。獣のようにで構いません。私はとっくに獣の妻として覚悟してしまっているのだから、淳之介様が望むならば、何をされてもかまわないのです」
「それでは僕が嫌なんだよ、久子。せめて僕に人間の心があるうちは、君のことを、ただ大事にしてやりたい。だけど僕の中にある獣性は、君の身体を引き裂くほど愛してしまいたいと願っている。だから……君に触れるのが怖いんだ」
私は、自分がひどく残酷なことを彼にねだっているのだと気づいた。確かに生殖の本能を交わし、理性を焼く淫靡な行為は獣的だ。時には快楽の果てに飛ばされて自制すら失くし、獣のような喘ぎ声で啼きかわす、人間性とは最もほど遠い行為だ。獣になることを恐れている彼に、自ら獣道に堕ちることを誘うようなものだ。
それでも私の想いは妄執へと変わりかけているところであり、そのくらいではいささかも揺らがぬものであった。
女は、男よりも生殖への渇望が強い生き物である。淳之介が言ったように一人になりたくないという願いもあるが、それよりももっと強く、目の前にいる男の弱さも、嘆きも、そのすべてを自分の胎のうちに納めてしまいたいと疼くこれは、本能である。
私は彼の身体を抱き返して、その耳にささやいた。
「淳之介様、私はあなたと一緒に獣に堕ちたい。せめて一時でもいい、私を獣にしてください」
実際のところ、彼の理性は獣に傾きかけているのだ。その証拠に先ほどから、腿の間に彼の淫欲の塊を感じる。
「愛しています、淳之介様」
彼が大きく私を組み伏せ、一つ、咆哮をあげた。こうして私は、この日から、獣に抱かれるようになった。夜となく昼となく……それは理性ある男相手では考えられぬほどに淫蕩な生活であった。
淳之介は四六時中私の身体をまさぐり、全身のどこまでもを嘗め回し、幾度でも飽きることなく私を犯し続けた。
それでも時々は――例えば私が眠っているときなどに、理知に満ちた優しいまなざしで私の寝顔を見守ってくれていたことを、私は知っている。
引き裂かれそうなほど激しい獣の情交の後、まどろみの中で見る彼のこの表情を、私はやっぱり愛していた。
ほどなくして、私の月のものが止まった。この報告を聞かせた時の彼の表情を、今も覚えている。乱暴な行為で私を組み敷く必要のなくなった安堵と、待望の子ができたという喜びと、そして受け継がれるであろう呪いを案じた、とても複雑な表情だった。
この頃には彼の髪はすっかり獣の体毛である白色に変わり、美しかった顔も鼻梁が大きく張り出して獣に近い面相になりつつあったが、私はそんな夫の姿も美しいと思っていた。
何よりも美しいのは、衣服を脱いだ素肌だ。柔らかくて白い産毛が全身を覆い、これが障子越しの光にきらめいているときなど、まるで全身に光をまとっているのかと思うほどであった。
子ができて、父性が目覚めたのか、それとも獣になる過程が一度落ち着いたからなのかはわからないが、淳之介はすっかり理性を取り戻し、私たちは生まれてくる子のために買い集める絵本の話などを良くしていた。
大事そうに私の腹を撫でる獣面の男は、純粋無垢の証であるような真っ白い頭を振りながらため息をこぼす。
「男の子だろうか、女の子だろうか」
「もう少し大きくなったら、おなかの形で分かるそうですよ。男の子のほうがとがっているんですって」
「それはただの迷信だぞ」
「男の子でも、女の子でもいいじゃありませんか、丈夫ならば」
「そうだな、丈夫なら、それ以上望むことはないな」
いつかこの子も呪いをうけつぎ、獣に変わる日が来るだろう。私たちはお互いにそう思ってはいても、決してそれを口には出さなかった。まっとうな、ごく普通の夫婦のようにふるまったのである。
幸せの形など千差万別、それを感じる人の心こそが唯一の基準なのだから、私たちは自分が『幸せである』と信じようとしていた。
私が産着を縫う手元をのぞきながら、彼が言う。
「そうだ、君のご両親にも知らせを出さなくっちゃな」
「幸助さんにも」
「もちろんだ。あれは子供好きだから、きっと喜ぶだろう」
たとえ彼が獣の姿をしていようとも、そこには間違いなく、人間としての幸せがあった。
そんなこともあってか、白鬼家によどんでいた暗い空気はすっかり払われて、夕食のときなどは明るい笑い声が聞こえるようにもなった。
きっとこの子は幸せに生まれてくるのだと、誰もが信じて疑わなかった……
――あの時までは……




