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翌日、まるで何事もなかったかのように起きてきた淳之介は、開口一番に空腹を訴えた。
「良かった、やっぱり風邪だったんですね」
サトさんは笑って、朝食に新鮮な魚の煮つけや、野菜の煮たものをたんまりと並べてくれた。
その朝食の席でのことである。
「う~む」
少し唸って、淳之介が箸を止める。まだ野菜の煮たものをほんの一口、食べただけだというのに。
「腹は減っているんだがなあ」
湯気を立てる白米をよそった茶碗にさえ手を伸ばさず、淳之介は難しい顔で唸るばかりだ。
私は彼の額に手を当ててみる。
「熱は無いようですが、やっぱり本調子じゃないんじゃないですか」
「そうなのかもしれないなあ」
ふと彼は、台所に向かって声をかけた。
「サト、おい、サト」
「なんですか、坊ちゃん」
「なにか、肉はないのか?」
これはひどく珍しいことである。淳之介はどちらかといえば魚を好むはずだ。
それでも病み上がりのこと、口の具合がいつもとは違うのだろうと私は思った。サトもきっと、同じことを思ったのだろう。
「朝から肉なんて、豪勢ですねえ」
いくぶん笑って答える。
「ちょうど昨日、向かいの浜で買ってきたのがありますよ、焼いてみましょうか」
「ああ、頼む。できるだけさっと炙ってくれ」
「はいはい」
私はそんな彼を少しだけいぶかしんで、そっと袖を引いた。
「大丈夫なんですか?」
「何がだい?」
「だって、昨日はあんなにお加減が悪そうだったのに、いきなりお肉なんて……」
「いやあ、どうしても肉が食べたい口なんだよ」
「ならば、よいですけれど」
その日はそれっきり、ほかに変わったことなど何もなかった。
ただ、この日から淳之介はたびたび肉をねだるようになり、白鬼家の食卓には肉料理が並ぶことが多くなった。
サトさんは肉の料理になれておらず、薄く切った豚肉を七輪で炙るくらいのものしか作らない。だから、私が代わりに台所に立つことも多かった。
分厚く切った牛の肉をフライパンで焼きつけていれば、このにおいを嗅ぎつけた淳之介が台所に迷い込んでくる。
「やあ、これは豪華だ」
味見をねだる彼を優しくしかりつける。
「ダメですよ、もうすぐお食事にしますから、座って待っていてください」
そんな時、彼はおどけて大げさに首をすくめるのが常であった。
「はいはい、うちの女房ドノは怖いなあ」
めまいがしそうなほど甘い、幸せな時間……場所は純和風建築の、土間があるような古びた台所ではあったが、私はそんな時、自分が雑誌のグラビアに出てくるおしゃれなキッチンに立った若奥様であるかのような錯覚を覚えた。雑誌のモデルのように少し気取ったキスを彼とかわしてじゃれあう、ただ幸せなだけの時間……だから気づかなかった、淳之介の身体に緩やかに変化が起こっていることなど。
次に私が気付いたのは、淳之介が本を読まなくなったということだった。
彼はひどく勤勉な性質で、ちょっとした隙があればいつも手元になにがしかの書物を開いているような人だったのに、この頃では本など手に取ろうともせず、柱にもたれてぼんやりと遠くを眺めていることが多くなった。
私はこれを気遣って声をかける。
「淳之介様、眠いなら横になったほうが良いですよ」
「いや、眠いわけじゃない。むしろ目は冴えているんだ」
「ならば、なにか読み物など持ってきましょうか?」
「いらない。こうしていたほうが、思索がはかどる」
「思索ですか。難しいことを考えてらっしゃるんですね」
「何も難しいことじゃない。僕は今まで人間の知識をたんまりと詰め込んできたけれど、これが獣になる身には、いかに無意味だったかを反省しているだけだよ」
私は思わず淳之介に駆け寄って、その体を両手で揺すった。
「そんなことおっしゃらないでください!」
「どうして? 獣に学問など不要だろ?」
「淳之介さま!」
大声で呼べば、彼は夢の途中で呼び戻されたみたいに顔をしかめて、不機嫌のまま私を見る。
「あまり大きな声を出さないでくれないか。頭が痛いんだ」
そんなことが幾度もあった。
私は彼のために向かいの浜から医者を呼ぼうとしたのだけれど、そのたびに彼自身によって止められた。
「そんなに大層なことじゃない」
「でも、前はこんなことはなかったじゃないですか」
「人は年を取れば気難しくもなる、そういった加齢によるものだろう」
「そうですか……」
「あまり気に病むな、小じわができるぞ」
こういう時ばかりはずるいぐらいに以前のままの調子で、彼は私の頬などをぐにぐにと揉む。小さな不安は心の隅に引っかかったままであったが、私はそうした彼の笑顔を信じて日々を過ごしていた。
ただ、夜は以前と変わらずに優しく、そして愛情のすべてを注ぎ込むように抱いてくれることが救いであった。
そんな彼に決定的な変化があったのは、三度目の冬が訪れようという初冬の頃だった。
夜中の寒さは音さえ立てずにしんとしみ込んでくる。私は布団の隙間から流れ込む冬の冷気に肌を刺されて目を覚ました。隣に眠っているはずの夫の肌を求めて敷布の中をまさぐるが、頼りない木綿布の手触りと冷たい風があるばかりで彼はいない。
「淳之介様?」
ふっと身を起こした私は、急に視界の中に飛び込んできた大きな月の明かりに驚いて息をのんだ。障子が大きくあけ放たれている。
ぞわぞわと胸のあたりがさざめく。
彼がここから庭へ降りたのだということは容易に想像がついた。寝巻を引き寄せて、震える指でこれを掻き合わせる。
「淳之介様」
庭に向かって呼びかけても、もちろん、返事はない。
私は軒に置いてあった草履をつっかけて、表へ出た。満月近い月はすでに西の空へ傾きながらも青白い光を投げて、草陰を黒々と地面の上に描く。
私は怯えながらも歩を進める。
どこからだろうか、ひどく水っぽいものを啜りあげる不快な音が聞こえて、私は身をすくめた。
「淳之介様、どこ?」
私の声に答えたのは、低く唸る獣の声。
最初のうちは、義父が神殿を抜け出したのだと思った。もしもそうならば大変なことであると。
義母にこれを知らせなくてはと思うが、膝が震えて思うように歩けない。腰にも力が入らず、私はぺたりと地面に座り込む。その間にもぺちゃぺちゃと、気味の悪い音が辺りに響き続けていた。
幾度も幾度も、心の内で夫の名を呼ぶ。まるで念仏のように、両手を合わせ、目を閉じて、ただ彼の名を念じる。それでも音は止む気配など無い。
獣が再び唸った。
「ひ!」
上がりかけた悲鳴は凍り付く呼吸に阻まれてのどもとで止まる。獣が唸っている声だけが聞こえる……
私は、その唸り声が2つであることに気付いて愕然とする。
一つは、まるで嘆くように低くて、地面を這うような唸り。
もう一つは、慈悲の一切を感じない、とどろく雷鳴に似た大きな唸り。
私はこの正体を確かめようと、震える身体をやっとの思いで引き立たせた。
月明かりは、歩くに困らない程度には明るい。だが夜の闇は月の明かりよりも暗く、頼りない光では辺りを昼のように明らかにはしてくれない。
植え込みは大きな影となって、今にもとびかかってきそうなしぐさで大きく枝を広げている。これの前を、目を閉じて一気に通り過ぎる。
神殿はあと数歩のところだ。悲しげな唸り声は、確かにその中から聞こえてくる。
もう一つの声は……植え込みの中だ。たった今通り過ぎたばかりの、真っ暗な闇の中から聞こえてくるのだ。
それは動物が食餌の時にあげる荒い鼻息まじりの声そのものであった。
「淳之介様?」
恐る恐る声をかければ、唸り声が一時止まる。それに勇気を得て、私は植え込みの陰へと駆け込んだ。
ああ、勇気とは時に褒められないようなことをしでかす。月明かりをさえぎるように立ちはだかる人影を見上げて、私は自分の蛮行を呪ったものだ。
そこには月明かりを浴びて、淳之介がたっていた。いや、もはやその時は、淳之介ではなかったのかもしれない。
彼は両手の間に、毛むくじゃらの何かの獣肉を抱え込んで、それをむさぼり食らっている最中であった。
強く、獣の香りがした。
「淳之介様!」
夢中で飛びついて彼の手から獣肉を叩き落とせば、唸り声の間に聞きなれた声が混じる。
「ひ……さ……こ……」
「そうです、久子です、淳之介様、どうかしっかりして!」
恐ろしいとは思わなかった。そんな感情など忘れるほどに必死だったのだ。
私は淳之介の身体に取りすがり、彼を強く引いた。彼の人格を取り戻さねばと、ただそれだけの想いであった。
彼は、私に揺すられて正気付いたか、体をぶるぶると震わせて嗚咽を漏らす。
「あ……あああ……」
「淳之介様、いったいいつから!」
「ひ、ひと……ひと……つき……」
呼吸がうまく回らないのだろうか、彼の声は言葉にならないほどに途切れて苦しい。
「淳之介様、ゆっくり、ゆっくり」
私が声調子を柔らかく落とすと、彼は血にまみれた両手を伸ばして私の髪を撫でた。
「い……やだ。獣に……なりたくない」
「大丈夫ですよ、ゆっくり」
「ひ、さこ、ぼくを、すて……ないで」
「捨てたりするものですか」
彼が大きく息を吸い込み、次に、獣の咆哮にも負けないほど大きな慟哭を月に向かって吐き出す。
「久子、僕は!」
彼は悲しい獣のようだった。月に向かって顔をあげ、大きく遠吠えする獣だった。人であるはずの心は引き裂かれて、きっと血を流しているに違いない。
それでも私は彼に寄り添うことしかできない。たとえ彼がこのまま獣に変わったとしても、たとえ自分の妻さえ見失って喰らいついてきたとしても、私は彼を許すだろう。
私はこの獣の妻である。
哀れな獣の頭を胸元に引き寄せて、私は優しい声で囁いてやった。
「大丈夫、何も心配しなくて、大丈夫」
月明かりの下、血を吐くような嗚咽が、長く、細く、いつまでも漂っていた。その日以来、淳之介はあまり言葉を話さなくなった。
時折ぽつり、ぽつりと語ってくれる言葉をつなぎ合わせれば、もう一月ほども前から、ときどきは夜中に抜け出して山でとらえた動物などを喰らっていたのだという。獣性を抑えられないのだとも言った。肉を食らっている間は無我夢中で、あとで我にかえっては涙を流すのだとも。
私は彼が不憫で仕方なかったが、運命ばかりは変えようがない。ただ寄り添っていることしかできないことが悔しくもあった。
それにしても不思議なのは40を待たずして淳之介の身体に変化が現れたことではあるが、これは個人差なのだと義母が教えてくれた。彼の祖父など、30の半ばにはすでに全身に獣の白い毛が生えていたのだという。
「私もあの人が人間だったころに話を聞いただけだから、本当かどうかは知らないんだけどねえ、姿は獣でも、40になるまでは人間の心を保っていたそうよ」
こんなにむごいことがあるだろうか。淳之介は誰よりも獣になることを恐れていたというのに、人の心を持ったままで獣の姿に堕ちなくてはならないなんて。
淳之介はすっかりふさぎ込み、白鬼家の家中には重たく暗い空気が居座った。
ある日のこと、私は柱にもたれてぼんやりとしている彼に身を摺り寄せて、夫婦事を誘った。この頃の彼はすでに体にもいくつかの兆候が表れており、私と肌を合わせることを恐れていたのだ。
彼の希望で寝室も別にしており、私は夜ごとにうずく肉欲をこらえて眠れぬ夜を過ごしていた。
だから、誘いの言葉は大胆に。
「淳之介様、私はあなたの子供が欲しいです」
彼は生気のない目で私を見やって、鼻先で小さく笑う。
「獣の子をか」
「はい、獣の子でも構いません」
「言っただろう、呪いが僕らの代で終わるなら、それを望むと」
「わかっています。わかっていても、それでも……」
不意に彼の手が私の唇をふさいだ。もう片方の手は不埒にも太ももに這う。
「体が寂しいか、ならば慰めてやる、それでしまいにしてくれ」
私は抗い、彼の手をはねのけようとした。だが、女の力で男に勝てるわけがない。
両の目からぼろぼろと涙を流して見上げれば、彼は今までに見たこともないほど冷たく笑っていた。私の腿の間深くに彼の手が差し入れられる。
「どうして泣く、獣に抱かれたいんだろう。ならば獣になってやるよ」
そうじゃない、そうじゃないと首を振るが、彼に押さえつけられていてはそれさえもままならない。




