3
私はそっと扉を閉じて神殿を降りた。向こうから義母が、どこへ出かけていたのか花の一輪をぶらぶらと弄びながら、鳥居をくぐって入ってくるところだった。
彼女はすぐに私に気付き、気が抜けるほどのんきな声で「おや」と手を振る。
「こんなところで何をしているんだい」
「お義母さまを探していました」
「やだねえ、大げさな。ちょっと花を摘みに行っていただけだよ」
彼女は手の中で花をくるりと回してみせた。それは視界に焼き付くほど明るい黄色をした菜の花だった。
「幸助もね、花はわざわざ山に摘みに行っていたのさ。だから、手間のかかった分だけ心のこもった、大事な花だったんだよ」
義母の声はいつもより沈んで聞こえる。彼女もやはり寂しいのだろうか。
私は彼女が差し出す菜花に指先を伸ばし、花びらの隅にそっと触れた。柔らかい花弁は抵抗もなくぐにゃりと揺れて、幸助の立ち姿を思わせる。
義母は唐突に、空元気かと思うくらいに明るい声を出した。
「実はこれね、盗んできたんだよ」
「ええっ、盗んでって……」
「花泥棒に罪は無しっていうじゃあないか」
いたずらが成功した時の子供のように屈託なく笑って、義母はその花を私の手の中に押し付けた。
「幸助は、久子ちゃんに花を受け取ってもらえてうれしかったと思うよ」
「そうでしょうか」
「あの子のことだ、どうせ毎日、花を届けに来たんだろう。うれしかったり楽しかったりした行動を繰り返すのがあの子の性質でね」
「でも、結局は幸助さんをこの家から追い出すことになってしまって……」
「別にいいじゃあないか、私はせいせいしたよ」
義母があまりにあっけらかんと言うものだから、私は驚いて彼女の顔を見る。その言葉に裏などはないらしく、彼女は菜の花のように明るい笑顔を浮かべていた。
「ああ、せいせいするって言っても、世間でいうような厄介払いができたみたいな意味じゃないんだよ。なんというか子育てがひと段落したみたいな、肩の荷が下りたみたいな、そういう心持かねえ」
「そうなんですか」
私は毒気を抜かれて立ち尽くす。
義母はさらにコロコロと声を立てて笑い転げ、神殿の階段に並んで座るようにと私を促した。
「さてと、どこから話したらいいかねえ、とりあえず、久子ちゃんが気に病むことはないよ、ってところからかしら」
「別に気に病んでいるわけじゃありません、ただ、お義母さまたちはさみしくないのかな、と」
「寂しいこともあるよ、でも、せいせいしているのも本当で、そういう複雑な気持ちだねえ」
「複雑ですか」
「あと、久子ちゃんが私の心配をしてくれたことがすごくうれしい。でもね、ちょっと勘違いしているようね」
彼女が私の手から菜の花をひょいと取り上げる。
「私がこれを取ってきたのはね、あの獣のためさ。どう、この花は、幸助によく似ていると思わないかい」
「ええ、本当に、似ている……」
「幸助が連れ子だっていう話は?」
「サトさんに聞きました」
「あの子の父親はね、私ですら誰なのかよくわかっていないんだよ。私は赤線の安宿の女でね、一晩に数えきれないくらいの客を取らされた。あのままなら女として使い物にならなくなるまで叩き売られて、死んでいただろうね。でも、ある日、私はあの人に出会ってしまったんだよ」
「あの人?」
「淳之介の父親さ。彼はたまたま都会に遊行に来ていてね、本当なら女遊びなんてとんでもないくらいの初心だったのに、友達に見栄を張ってうちの宿に来たんだよ」
「それがお二人の出会いなんですね」
「後で聞いたんだが、獣の男は自分の嫁になる女と無意識に引き合うように運命づけられているんだそうな。もっともこれは、あの人の創作かもしれないけどね。ともかく、あの人は安宿から私を拾い上げて、妻にしてくれた」
「どんな人だったんですか?」
「そうだねえ、淳之介によく似ていたよ。目鼻立ちのはっきりした美青年で……海よりもおおらかな心根の人だった」
義母は、その美青年の面影を確かめるように菜花を胸に押抱いて、「ほう」とため息を吐き出した。
「なによりも、連れ子で吃音もちの幸助を馬鹿にしたりせず、とてもとても大事に育ててくれた……だから、もしも幸助がいなくなって寂しがっている人がいるとしたら、それはあの人だろうねえ」
「だから獣に花を?」
義母は再び花を弄ぶ。しなやかな指の動きで、くるくる、くるくると花茎を回す。
「あの獣には花を……幸助を愛する気持ちなんてこれっぽっちも残っちゃいないよ。それでもあの獣のどこかにあの人の記憶があって、花を見て幸助を思い出してくれたらなんて願ってしまう。つまりね、私はあの獣に寂しがってほしいんだよ」
「獣は……寂しがるでしょうか」
「さあねえ、実際のところは獣が寂しいかどうかなんてどうでもよくて、私は人間だから、自分の気持ちを慰めるためにこんなことをしているだけ。久子ちゃんと一緒だよ」
「私が、何を?」
「私と獣に寂しがってほしかった、幸助を思い出して深い悲しみに暮れているのだと解釈したがった、でもそう願ったのは久子ちゃんの方であって、それは私の気持ちじゃない。だって私は、こんなにせいせいとしているんだもの」
義母は花をつまんで立ち上がった。
「私は獣じゃない、自分の気持ちは自分で決める。私は、せいせいとしているんだ」
妙に強い声調子は、義母が自分自身にその言葉を聞かせようとしているみたいに聞こえた。実際のところ、義母は私の方を向いてはいないのだから……彼女はあの言葉を誰に聞かせたかったのだろうか。
私はただ首を垂れて、神殿へ入ってゆく彼女を見送っていた。その背中がやはり寂しそうで、儚げであることを、ひどく気にしながら……
◇
穏やかな日がいつまでも続くとは限らない。海に凪いだ日とシケの日があるように――
私たちは子のできぬまま、二年の月日をともに過ごした。私も19になり、女性らしい肉のついたまろい体は淳之介の好みのままにこなされて、夜ごとの蜜事を楽しむ余裕さえ出来上がっていた。
淳之介は37になり、残された時間は少なかったが、呪いが自分の代で終わるならそれでもいいという彼の言葉に従って、私は子を作ることを焦ったりはしなかった。
正直を言うと、焦らなかったのではなく、彼が獣になるのだという実感がなかっただけかもしれない。何しろ淳之介は相変わらず優しくて、私を相手に冗談を言ったり、時に気を使って岩礁までの船旅に連れ出してくれたり、その人間性は少しも失われていなかったのだから。
私はこんな日がずっと続くのではないかと夢想することさえあった。そんなはずはないのに、ここまま淳之介は獣に変わることなく穏やかに年老いてゆくのではないかと……
その年の秋、淳之介は体調を崩した。丸1日を床に臥せって水さえ飲まず、うつうつと眠って過ごした。おそらくは風邪だろうと誰もが思っていた。




