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こうして幸助がこの島を出ていったのは年を越えて一月の、小雪がちらつく日だった。
「この島で雪が降るなんて、珍しいな」
港に幸助を見送りに来ていた私たちは、空を見上げる。
当の幸助はいつもの手漕ぎの小舟ではなくてポンポン船に乗せてもらえるのがうれしいらしく、桟橋の上で雪を相手に踊っている最中であった。
「まあ、積もることはなさそうだが、船は出せるのか?」
淳之介が聞くと、ポンポン船の船主は空を見上げて答えた。
「まあ、この程度の雪なら、問題ないはずでさ」
「そうか」
彼がちょっと悔しそうに空をにらみつけたのは、幸助を手放すことにまだ未練があるからに違いない。
しかし幸助はへらへらと笑っているばかりだった。
「ゆ、雪、せ、先代さまが、く。くれた」
「そんなわけがあるか、いくら獣だって、天候までは自由にできないよ。それより、ちょっとおいで、幸助」
淳之介は自分に駆け寄ってきた幸助に、自分の首から外した襟巻をかけてやった。
「風邪などひかぬように。何かあっても、僕は今までみたいに傍にはいないんだから」
「わ、わかった」
「おかしなものなど食べないように。特に町場では、道に落ちてるものなど拾って食べてはいけないよ、田舎とは違うのだからね」
「う、うん、く、食わない」
「食事はきちんと三度食べること、食事の前には手を洗うこと、これは何度も教えたから大丈夫だね?」
ふいに、幸助のごつごつと武骨な手が淳之介の頭をつかみ、いかにも不器用な動きで、わしわしと髪が乱れるほどに撫でまわした。
「じゅ、淳、な、泣かないで」
「泣いてなんかいないよ」
「に、兄ちゃんは、じゅ、淳の兄ちゃんだから、し、しっかりする。が、頑張る」
幼子にするようなそのしぐさに、淳之介はわあっと泣き声をあげて幸助に抱きついた。
「兄さん!」
後にも先にも、淳之介が幸助をそう呼んだのはこれっきりである。ただ、この時は淳之介も兄と過ごした幼い日を思い出していたのだろうか、固く幸助を抱いて、涙交じりの声で言った。
「兄さん、ごめん」
「な、なにも、あ、あやまるの、ない」
遠くから獣の咆哮が聞こえたような気がしたのは気のせいだろうか。幸助を呼ぶように、長く、悲しい声で、海の上まで響く声が聞こえたのは。
ポンポン船の船主はしびれを切らしたようで、もやいを解き始めていた。
「潮が変わる前に帰ってきたいんだ。乗らないなら出しちまうぞ」
「ま、待って、ふ、船」
幸助は未練もない風で、するりと淳之介から離れた。淳之介だけがいつまでも、幸助が離れてゆくことさえ信じられずに両手を突き出したまま立ち尽くしていた。
船は軽快なエンジンの音を響かせて港を出てゆく。それを見送る淳之介の背中が寂寥に満ちていて、私は不安に胸が裂けそうになる。
「帰りましょう、淳之介様」
「ああ」
振り向いた彼の顔は生気を抜かれたように青ざめていて、今にも倒れてしまいそうだった。
「僕は、兄を捨てたんだな」
聞いていられないほどに悲痛な声。そのままふらふらと家へ帰って、淳之介は三日ほど、寝込んでしまったのだった。
義母によると淳之介は線こそ細いが丈夫な性質で、寝込むこと自体が珍しいのだという。
私は漁師にいくらかの駄賃をやって、向かいの浜の菓子屋でまんじゅうなど買ってきてもらった。好物である甘いものなら、いくらか滋養にもなるだろうかと思ったのだ。
届いた菓子に茶を添えて淳之介の枕元に持ってゆくと、彼は布団の中から首だけを動かして私を見上げた。
「久子、僕をひどい男だと思うかい?」
突然の質問に少し面食らったが、私はとりすました顔で答えてやる。
「いいえ、ちっとも」
「幸助が君に寄せていた好意は……例えば野の花を美しいと思うような、純愛だった」
「どうしてそう思うんです?」
「僕の愛が汚いからだ」
彼は口元に手を当てて、その甲を強く噛んでいた。
「僕だって、野の花を愛するように君を手元に置いて、ただ愛でたい。だけど、君の身体の香りをかぎ、君の肌に触れるとそんな気持ちはすっかり消えてしまって、ただ君を犯したいと、そればかりで頭がいっぱいになるんだ」
「それは構わないじゃありませんか、夫婦ですもの」
「そうじゃない、そうじゃないんだよ。僕はそうした行為の最中に、君という花を踏みつけてしまいたいと、そういう気持ちになるんだよ。だけど、そうじゃない。本当は野の花を摘むときのように優しい手つきで君に触れたい」
私はあきれて淳之介の頭を小突く。もちろん、おふざけで優しく小突いただけだ。
「しっかりしてくださいよ、淳之介様」
「な、なにをするんだ」
「知っていますか、野の花は踏まれたくらいでは枯れないんです」
「野の花というのは例えでね……」
「わかっていますとも、そのくらい。私は踏まれても枯れない強い花、だから淳之介様は野の花にたとえたのでしょう?」
淳之介があっけにとられているのを幸いに、私は彼の横へするりと滑り込む。しゃなりと腰を揺らして絡みつけば、彼は慌てきって私を押し返そうとした。
「ダメだよ久子、病がうつる」
「あら、気の病がうつるわけはないでしょう」
さらにしゃなり、しゃなりと腰を絡め、あつい吐息を彼の耳に吹き込む。
「淳之介様は、野の花が黙って踏まれてばかりいるとでも思ったんですか?」
彼の呼吸が上ずったのを確かめて、布団の中にもぞりと身を沈める。お互いに隅々まで触れ合った体なのだから遠慮など無い。私は彼の寝巻の前をはだけて、白い肌に唇を這わせた。
「ひ、久子っ!」
「あら、踏み返されるのは嫌いですか?」
「踏み返すって……」
「これは、いつも淳之介様が私にしていることですよ。淳之介様のいうところの、私を踏みつける行為というのがこれです」
さらにうなじに、強く唇を押し当てて吸い付けば、彼の腰が小さく跳ね上がった。
「ああ……久子……」
私には少しばかり淫乱の気があるらしい。この時、身をよじって快楽に抗おうとする彼の姿に強く興奮したことをいまだに覚えている。何しろ淳之介は美しい男だ。それが弱りきった表情を見せている、そこに情け容赦なく快楽を注いでやるという行為は、背徳に似て甘美である。
私は夢中になって彼の身体のあちらこちらに吸い付いた。
「どうです、踏まれているのが辛いなら、泣いたっていいんですよ」
私の挑発に彼はぐるりと体を返し、逆に私を組み敷いた。
「調子に乗るんじゃない」
今や彼が欲情していることは、私の太ももの間に挟まれた彼の下半身の熱量からも明らかだった。こぼれおちる呼吸も荒く、甘い。
「君の言いたいことはわかった。君に触れられるという行為は、それだけで快楽だ」
「ええ、淳之介様は一度だって私を踏みつけたことなんかありませんよ」
「君は、本当に聡明だな」
私に対する称賛の言葉を乗せたまま、彼の呼吸が私の唇をふさいだ。彼からの長く激しいキスを受けて、私は目を閉じる。
その日はそのまま、お互いが立ち上がれなくなるほど激しく、私たちは体を重ねた。
行為のあとのまどろみに堕ちながら、私は淳之介に言った。
「ねえ、幸助さんに手紙を書きましょう。あと、何か幸助さんの好物でも添えてあげて……そうだ、サトさんに日持ちのするものを作ってもらいましょう」
「君は、本当に強くなったな。ここへ初めて来たときは、本当に壊れそうなくらいに儚かったのに」
「強い女は嫌いですか?」
「いいや、好きだな」
もう目を開けていられないほど眠い。彼の体温と、静かな鼓動の音が心地よい。
それでも、たった一言、どうしても聞きたいことがあった。
「ねえ、淳之介様、元気は出ました?」
「ああ、これで元気になれないほど枯れちゃいない」
「そう、良かった……」
そのまま夕飯までお互いのぬくもりを分け合う午睡を楽しんで、目が覚めた時には障子が暗く染まるくらいに日が暮れていた。
私がぼんやりと身を起こすと、淳之介は隣にいない。彼はすでに衣服を正して、柱にもたれた姿勢で本を読んでいた。
私が起き上がる気配に気づいた、淳之介は顔をあげて恥ずかしそうに「やあ」と言った。
「なんだか、初夜の時のような気分だよ」
「お加減は?」
「だいぶ良い。腹が空いて仕方ない程度には良い」
「お食事をもらいに行きましょうか」
「そうだな」
立ち上がる彼の何気ないしぐさ――脚の動かし方や手の動作などに生気がみなぎっているのを見て、私は涙を流すほど感激したものだ。
「良かった、すっかり元気になられましたね」
「君の言う通り、気の病だったんだろう」
「それでも、心配いたしました」
「ありがとう、久子」
それからしばらくは平和な日が続いた。淳之介は以前にも増して私にやさしく、獣さばきもない。淳之介とはこなれた夫婦のように目線だけでお互いの心がわかる仲になって、私たちは良く、意味もなくお互いの視線を絡めては微笑みあった。
特に何も起こらないからこそ幸せな、ひたすらに穏やかな日々が二月ほど続いた。だがこれは、この後に起きる悲劇の前触れだったのかもしれない。嵐の前の静けさといわれるあれだ。
ともあれ、私の記憶ではこのころのないだ海のように穏やかな毎日が、淳之介と過ごした日々の中で最も幸せな季節だったのである。
そんな穏やかさの中で唯一心を痛めることがあるとしたそれは私たち夫婦のことではなく、義父母の気持であった。手元で長くかわいがっていた愛児を遠くに預けてしまったのだから、その喪失感はいかばかりか。
義母が庭先でぼんやりと花など眺めている姿を見るとき、私の心は嵐の中に投げ出されたかのように千々に乱れた。
花は時々にもっさりとしたレンゲソウであったり、すいと立った菜花であったり、どれもが幸助を思わせるさりげないものであった。もしもあれに幸助の面影を重ね、遠く離れて暮らす子の身の上を心配して立ち尽くしているのだとしたら、これほど切ないことが他にあるだろうか。
ある日のこと、私は義母の姿が家の中にないのを案じて庭先に降りた。すでに春も盛り、母屋の裏には大きな桜の木があって、かすむように咲いた花が時折ちらちらと花びらを散らす、そんな午後だった。
私は神殿の扉を少しだけ開いてのぞいてみたのだけれど、そこにも義母の姿はなかった。ただ獣が膝を抱いて、白い毛におおわれた体を小さく丸めるように座り込んでいる。
ぜんたい、この獣はあまりに人に形が似ているのだからその姿が寂し気に思えて仕方ない。扉越しに幸助の声が聞こえてくるのを待ちわびているような風情がある。
私は『獣の心』という言葉を思い出して、そわそわと落ち着かない気持ちになった。
あの獣は、きっと泣いている。人とは違う心の形で、人とは違う寂しさを抱えて、それでも人のように泣いているに違いないのだ。




