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獣行の果てに  作者: アザとー
踏花
20/29

1

 さらに一月ほどが過ぎた。

 月は変わり、師走に入ってからは急に冷え込む日も多くなる。特に白鬼島は四方を海に囲まれて、冷たい風が四方から吹き付けるのだから、朝晩の冷え込みは格別だった。

 その日は、前の日の夜中に雪がちらついたこともあり、私は障子紙にしみ込むような寒さに震えて目を覚ました。

 淳之介は私をしっかりと抱いて布団に潜り込んでくれてはいるが、二人とも昨夜の情事のあとも明らかな裸のままなのだ。冷気に冷やされた布団が肌に痛い。

 火鉢に火を入れようと身を起こす。

 淳之介は寝ぼけて私を引き寄せようとしたが、私はその腕をするりとくぐって布団から抜け出した。

「おお、今日は特に冷えること……」

 火鉢に炭を足し、脱ぎ落した衣服を拾い集めて身支度をする。

 ふいに、ふすまがトン、トンと叩かれた。

「はあい、だあれ?」

「こ、幸助です」

「ちょっと待ってね」

 淳之介は普段から、この純粋な男に自分の情事の残り香さえ悟らせたくないとおもっているようすであった。だから淳之介がしっかりと布団にくるまっていることを確かめてふすまを開ける。

 幸助は両手を後ろに回して、ぐねぐねと体をゆすりながら立っていた。

「お、おはよ、ございます」

「はい、おはようございます」

「じゅ、淳之介さま、寝てる」

「ああ、淳之介様にご用なら、代わりに私が聞くわよ」

「ち、違う、よ、用事ない」

「じゃあ、どうしたの?」

 幸助が背後から一輪のツバキを取り出し、私の手の中に押し付けた。

「は、花、さ、咲いたから」

「私に?」

 幸助が何度もうなづく。

「は、花、わ、若奥様みたい」

「まあ、ありがとう」

 私がにっこりと笑うと、なぜか幸助は拝むようなしぐさを見せた。

「は、恥ずかしい」

 この時、私が気付いてやるべきだったのかもしれない。今まで羞恥なども知らずに育った男が、なにがしかの成長をしたのだと。

 しかし、それに気づくには、私と幸助の付き合いはあまりに短かった。

「大丈夫よ、幸助さん、恥ずかしいなら、だれにも内緒にしてあげるから。これはあとで私が飾っておくから、ね」

「な、内緒?」

 ああ、思えばうかつな約束をしたものだ。

 それからも度々、幸助は花を部屋へ届けてくれるようになった。最初のうちは私も無邪気にこれを受け取り、彼の他意など疑ったこともなかった。私は幸助をただの花好きだと信じ、花のようだという彼の褒め言葉を社交辞令のようなものだと思い込んでいたのだ。

 彼が花を贈ってくれる意味に気付いたのは、淳之介と過ごす寝室の小さな床の間に五本もの花瓶が並ぶようになってからのことだった。その日、私は初めて彼の花を断った。

「ごめんね、幸助さん、ここにはもうお花を飾るところがないの」

「で、でも、は、花」

 この日彼が握りしめていたのは、白くたおやかな水仙の花だったと記憶している。彼はその花を握りしめた手を突き出したまま、困り切ったように立ち尽くしていた。

「そうだ、サトさんにあげてはどう?」

「だ、ダメ。は、花、若奥様」

「困ったわねえ」

 淳之介はこの騒ぎに気付いて布団から首を出す。

「なにをやってるんだ、朝っぱらから……」

 彼は幸助が握りしめている花を見て、ここしばらく、次々に増えていった花瓶の理由を悟った様子であった。布団をはねのけて怒鳴る。

「幸助、何をやっているんだ!」

 哀れな幸助はこの声にすっかり驚いてしまって、ぶるぶると体を震わせる。

「は、花」

「それを僕の妻に贈って、どうするつもりだ?」

「し、しない。な、なにもしない」

「だったら、その花をもってすぐに去ね!」

 幸助は飛び上がり、花など投げ出してワアワアと泣き出した。

「け、獣、怒ったか?」

「ああ、かんかんに怒っている」

「あ、謝る、け、獣に謝る!」

 私はさすがにかわいそうになって、二人の間に割って入る。

「かわいそうじゃありませんか、幸助さんはお花がきれいだから持ってきてくださっただけなのに」

 淳之介はそんな私の手をつかんで、自分の方へと引き寄せた。

「君は、本当に知らないのか、男が女に花を贈るというその意味を!」

「花を贈る意味? きれいだからじゃあないんですか」

「ああ、きれいだからだ。花を贈る相手がきれいだから、つまり、そういうことだよ!」

 幸助がついに、両手で顔を覆って逃げ出した。

「あ、まて、幸助!」

 淳之介はそれを追いかけようとしたのだけれど、私は彼に取りすがってそれを止めた。

「ごめんなさい、あなた、そんなに叱らないでやってください」

「君に謝ってもらっても意味はない。幸助、あれによくと言い聞かせなくては」

「だからって、どうかお怒りを鎮めて。幸助さんはあんなに怯えていたじゃありませんか」

「久子!」

「はい」

「君は僕を捨てて、幸助を愛するつもりか?」

「いいえ、そんなことは決してありません」

「だったらなおのこと、良く言って聞かせなくちゃならない。幸助は馬鹿ではない、きちんと筋道を立てて、ゆっくりと教えてやれば世の中の道理はわかる男だ。だから、僕の妻に横恋慕しても無意味なのだと、教えてやらなくちゃならない」

「だったら、もう少し心を落ち着けてからになさってください。今のあなたでは筋道を立ててなんて、できないでしょう」

「……そうだな」

 淳之介は部屋に戻り、布団の中に再び潜り込んだ。

「頭が痛い。昼まで寝かせてくれ。あと、君は幸助には絶対に近づかないように」

 その言いつけを守って、私はその日一日は幸助を避けて暮らした。最も彼は神殿の扉の前に座り込み、背中を丸めて一日中ぶつぶつと何かをつぶやいているのだから、これを避けて通るのは簡単だった。

 夕食も済んだ居間では、淳之介と義母が何かを相談している。ふすま越しに「幸助が」という言葉が聞こえるということは、これをどこかに預けるなり、近くに家を借りてやるなり、何らかの策を相談しているのだろう。

 当の幸助はこの時間になっても神殿の前を動こうとはせず、私は仕方なく台所へ行って、サトさんを手伝って夕食の片づけをしていた。

 食器を片付けながらサトさんに尋ねる。

「幸助さんは、あそこにいるのが獣だってわかっているのかしら」

「そりゃあ、わかっているでしょうよ。なにしろ旦那様が獣に変わる一部始終を見ていたんですから」

「わかっていて、怖くはないのかしら」

「どうでしょうねえ、旦那様は本当に幸助さんを溺愛してらしたから、あの子も旦那様に食われるなら本望だとでも思っているんじゃないでしょうか」

「淳之介様は……」

 部屋の前で、淳之介の怒気に当てられて泣いていた幸助の姿を思い出す。まるでこの世にこれ以上恐ろしいものはないといった風であったのを。

「淳之介様は、ずいぶんと幸助さんに恐れられているんですね」

「ああ、それに関しちゃあ、幸助さん自身から聞いとります」

 サトさんは前掛けで手を拭いて振り向く。

「幸助さんが怖がっているのは、もしも間違いをして自分を食い殺さなくてはならなくなったら、淳之介様がどれほど悲しむだろうか、ということなんだそうですよ」

「獣には心など無いって、わかっていないのかしら」

「いいえ、あの人は獣の言葉がわかるくらいだ、あたしらとは違うやり方で、獣の心がわかるんじゃあないですかね」

「獣の心……」

「期待しちゃあいけませんよ、たぶん若奥様が思っているようなもんじゃあない、人間とは通じ合えないところにある正真正銘の獣の心ですよ。そら、犬の気持ちがわかるとか言い張る人がいる、あれとおんなじですよ」

「ああ、そういう……」

 たとえそうだとしても、獣はやはり悲しむのだろうか。人とは違う形で、人とは違う観念で、過去をいつくしむことがあったりするのだろうか。

 少なくとも今は、獣ではなく淳之介が悲しんでいる。喜ぶべき兄の心の成長を許してやるわけにいかない、そういう複雑な悲しみに暮れて、居間でうなだれているに違いない。

 そう思うと矢も楯もたまらずに飛び出し、居間に駆け込んで淳之介の背中を抱いてやりたい気分になる。

 しかし、その時の私は、自分にその資格がないことを十分に承知していた。

 最初にもらった一輪を内緒にしたりしなければ、幸助の恋慕の露見はもっと早かっただろう。淳之介の対応ももっと違っていただろうし、幸助もあんなに恐ろしい思いをしないで済んだかもしれない。

「……ごめんなさい」

 知らずつぶやけば、サトさんは肩をすくめて笑ってくれた。

「別に奥様が謝ることじゃないでしょう」

「でも……」

「いいから、若奥様は部屋に戻って休んでてくださいな。そんな辛気臭い顔で突っ立ってられちゃ、片付けの邪魔ですよ」

「サトさん」

「なんです?」

「ありがとう」

「お礼を言われるようなこともなにもありませんがね、さあ、行った行った!」

 こうして私は部屋に戻っていたのだが、淳之介が戻ってきたのは夜もだいぶ更けてからのことだった。

「久子、幸助は銚子に行ってもらうことに決まったよ」

 布団に潜り込むなり彼はそう言う。

「銚子に遠い親戚がいてね、工場をやっているから、人手なんかいくらあってもいい。そこに幸助を預けることにしたんだ」

 彼は布団の中で私に背を向けて、背中を震わせていた。

「幸助はあれで根気強いところがあるから、工場の仕事は存外向いているかもしれない。こんな狭い家に閉じ込めておくのと違って、きっと友達もできるだろう。なに、きっとうまくやっていけるさ」

 彼が泣いていることは承知していたが、振り向かせてそれを確かめるのは野暮な気がした。だから彼の背中にそっと体を寄せて、囁く。

「寂しいんですか?」

「ああ、寂しい。幸助とはずっと一緒だった。だから、離れる日が来るなんて思ってもいなかった」

 短い嗚咽を飲み込むようにして、彼は長い間、泣いていた。

「獣になるなんて、悲しいことばかりの人生だ」

「そうですね」

「僕は、幸助には幸せになってもらいたいと思っている」

「なりますよ、きっと」

「そうだろうか」

 本当は、不安なことなどいっぱいある。家の中で気ままに暮らしていた幸助に時間通りに動くつとめが務まるのだろうか、吃音もちで話下手なのに友人などできるのだろうか、それに……辛いことがあると話を聞かせに行くあの獣と離れて、心の均衡を保てるのだろうか……

 それでも私も彼も、それは一切口にすることはなかった。

 ただ、彼は泣いている。その背中に軽く身を寄せた私もまた、泣くことしかできずにいた。


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