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白鬼島は漁業で成り立つ島なのだから、東に回ればきちんとした漁港がある。
しかし私をのせた小船はまっすぐに島の南に向かい、浜についた。
「ここからのほうが、家には近いんだよ」
まだ船は水の上を滑っているが、すでに陸はすぐそこだ。淳之介は船から飛び降り、ひざまでを海水に浸して私に手をさしのべた。
「ここからはもう浅瀬だ。おいで」
優しい声で呼ばれても、私は都会育ちで海など海水浴場しか知らない。人影のない海は静かすぎて、水底をのぞくことさえ恐ろしいような気がしていたのだから、ここに足をつける気になどなれなかった。
「暑かっただろう、水もちょうどよい冷たさだ、すっきりするぞ」
彼の笑顔に首を振って、私は身体をこわばらせる。
「泳ぎが苦手なので……」
彼はそれを特に気にする風もなく、大きくうなづいただけだった。
「そうか、ならば暇をみて泳ぎを教えてあげよう。なあに、最初は怖いかもしれないがすぐに慣れるよ、ここは海しかないんだからね」
このときの彼の表情を、私は今でも覚えている。青い海と広い空をバックに、凪いだ海のようにおだやかな笑顔を浮かべた彼は、それほどに美しかった。
これが年の離れた男の包容力というものだろうか、その悠然とした佇まいをみているだけで、海など何も怖いものなどないところのような気分になる。
思い切って船べりに両手をかければ、水は透き通って浅瀬の底までが見通せる。関東の浜特有の灰色一面の上に時折飛ぶように素早い影が動くのは、何かの小魚だろうか。そのまま空を見上げれば、強い日差しがまっすぐに目の奥を焼く。
私は涼を求めて、海面へと手を伸べた。
そのときだ、世にも恐ろしい、『獣』の声がしたのは。
最初は一咆、次に二咆……あまりにも低くゴロゴロとなる声は雷に似て、最初は何の音だかわからずに私は空を見上げた。
しかし空は抜けるような晴天である。
「おかしいわねえ」
そんな私の仕草は、いかにも物を知らぬ小娘じみてあざとかったことだろう。
しかし淳之介の目にはそのあざとさが愛くるしく映ったようだ。まぶしそうに細められた視線が、優しく私の顔を覗き込む。
「雨なんか降らないよ」
「じゃああれは、何の音ですか?」
淳之介の表情が、ざあっと憎悪に染まった。
「ああ、あれは『獣』の声だ」
私はこの前にも、この後にも、これほどあからさまな憎しみの感情というものをみたことがない。
彼の口元は薄っすらと釣りあがっていたが、それは心底からこみ上げてくるあざけりを押しとどめられなかったがゆえの冷笑であった。視線はすでに私のことなどみておらず、どこかとおくに思いをはせているのか焦点は定まっていない。今すぐにでも走っていって、この憎しみの対象につばを吐きかけてやりたいとでもいうような、ひどく引きつった表情であった。
急に目の前にいる男が恐ろしいもののように思えて、私は慌てて目をそらそうとする。が、ぬうっと伸びてきた彼の手がそれを許さなかった。
「目をそらさないで、ぼくが今、どんな顔をしているかみておくれ」
彼の掌は優しく、だがしっかりと私の両頬を包み込んではなさない。
「とても怖い、おこっている顔をしています」
「そう、そのとおりだ。だけど、ぼくは別にキミにおこっているわけじゃない。あの獣……」
言いかけた言葉はのみこまれ、ふっと彼の表情から力が抜けた。
「いや、八つ当たりはよくないな。ぼくは今、自分に対して腹を立てているんだ」
声も、表情も、そして頬にふれた指の冷たさまでもが悲しんでいる。なんだかそんな気がして、私は彼の手の甲に自分の掌を重ねた。
「どうして?」
彼の表情はさらに力を失って、今にも泣き出しそうに口元をゆがめている。
「キミを手に入れるべきじゃなかった。キミに触れるべきじゃなかった。キミはあまりにも純粋で、美しいから……きっと僕はキミを壊してしまうだろう。そう、あの獣のように」
「獣って、いま聞こえているこれですか?」
「そう、獣……あれは僕の父だ」
一瞬、何のことだか意味がわからなかった。
彼はそんな私の困惑を見透かしたかのように、言葉を重ねた。
「僕の父は獣だ。そして僕も、もうじき獣に堕ちる」
いまいちど耳を澄ますが、恐ろしい咆哮はすでに止んでいる。ただ耳の中に残った音だけを頼りに、私は考えをめぐらせる。
もっとも、世間知らずの娘が考えることなど高が知れている。親に隠れて読んだおどろしいカストリ雑誌の一記事を思い出すのが精一杯だ。
「あ、あの……それは精神の病というやつですか? でしたらいまは良いお薬もあるようですし、何より親の性質を子供が必ずしも受け継ぐわけではないと学校で習ったことがあります。お父様がご病気だからって、そんなに悲観的になることは……」
「ああ、やっぱりキミは純粋だね」
彼が深いため息をはきながら、私の顔を引き寄せた。
「だからこそ、汚したくなる……壊したくもなる」
鼻先に彼の呼吸を感じたと同時に、ふわっと唇が重なった。
「な、なにを!」
慌てて身をよじる私を、彼はひどく楽しそうな笑顔で見下ろしていた。
「キッスだよ、外国式の愛情表現だそうだ」
「そのくらいは知っています、だからって急に……」
「いいじゃないか、夫婦なんだし」
彼の笑顔が少しだけ曇ったような気がしたのは、見間違いなどではない。彼は少し低い声で囁いた。
「もう逃げられない、キミも……僕も」
彼の両手が私の頬からはなれた。