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これを案じたのは他でもない、夫の淳之介だ。彼は私にいくらかの小遣いをくれて、銚子の街にでも遊びに行くようにと勧めた。
「銚子には百貨店もあるし、一日、ゆっくり羽を伸ばしてくるといい」
「淳之介様は一緒に行かないのですか?」
「僕は内地の陸に上がることを禁じられている」
「誰に?」
「向かいの浜の者たちにだよ。もっとも、それも三十を越えてからのことだけどね、あちらの連中は僕が踏み込むと陸がけがれると信じているんだよ」
「そんなの、迷信じゃないですか」
「もちろん迷信だ。だが、迷信の根拠となる獣は存在している、だったら、向こうの浜と言い争いをしてこの島が憎まれるようなことは避けるべきだろう」
「船でぐるっと回って、何処か遠くの浜に着ければいいじゃないですか。向かいの浜の人にばれなければいいんです」
「そういうやり方は好きじゃない。それに、浜の者たちの情報網を侮ってはいけないよ、僕が上陸したことがどこからか伝わったら、それこそ無駄な争いの種になるだろう?」
「じゃあ、いかない」
私は淳之介がくれたお札をふいと突っ返して、それきり横を向く。
「淳之介様が行かないなら、私も行かない」
淳之介は困り果てたように札を指先でひねって、身を揺すっていた。
「でも、久子、君には休養が必要だ」
「休養ならここでもとれます。サトさんにおいしいものを作ってもらって、横にでもなっていれば、十分な休養です」
「そうじゃない、少しだけでいいから、僕のことで悩むのを休んだ方がいいと、そういうことなんだが」
「それは無理です。だって、私は淳之介様の妻なんですから、たぶん遊びに出てもあなたのことが気になって楽しめないと思います」
「そうか、それは困ったな……」
淳之介はしばらく考え込んでいたが、やがてポンと膝を打った。
「ならば、船旅に出よう」
「船旅ですか?」
「そう、船旅。海はまだ怖いかい?」
この島で暮らすようになって半年、さすがに海のある生活にも慣れきっていたのだから、私は首を横に振る。
「ならば決まりだ。せめて一番上等な服を着てきなさい。二人きりで出かけるなんて、初めてのことだからね」
淳之介の声が楽しそうに弾んでいる、それだけでも私にはうれしいことであった。だから自然と頬が緩んでいたのであろう、淳之介は私の顔を両手で挟んで笑った。
「やっと笑ったね」
いったい私はいつから笑っていなかったのだろう……彼の両目にはうっすらと涙まで浮かんで、ひどく感激している様子だ。
「君はやっぱり、笑っている顔が一番いい」
「あら、ずいぶんと月並みなことを言うんですね」
「わかっていないな、これはつまり、自分と一緒にいるときはいつでも笑っていてほしいと……いつでも笑っていられるほど幸せな気分にさせてあげようという、最上の口説きなんだよ」
「あら、じゃあ頑張って笑わなくっちゃね。だって淳之介様、私があなたと一緒にいられるだけでどれほど幸せに感じているか、笑わないとわからないんでしょ」
「ふふ、言うねえ」
軽口を言うのも久しぶりだ。淳之介と二人、何処かへ出かけるというだけで、私の今までの悩みなど霧散してしまったかのように消えはて、ただ、浮かれた気分だけが体を満たす。
「さあ、じゃあ、着替えなくっちゃ」
私はキスを迫る彼の鼻先をするりとすり抜けてみせた。
これが本物の拒絶でないことは、もちろん彼もわかっている。
「おいおい、せっかちだなあ」
「女の身支度には時間がかかるのを知らないんですか? 早く支度しないと、夜になっちゃうでしょう」
「夜になってもいいんだよ、むしろ、夜になったほうが都合がいい」
「いったい、どこへ行こうというんですか」
「言っただろ、『船旅』だよ」
いたずらっぽく笑う彼に急かされて、私は着替えに立った。
淳之介はサトさんに頼んで魔法瓶に暖かい飲み物と、あとは軽食の包みなどを用意してもらっていた。私が着替えを終えて台所に入った時には、ちょうどおにぎりを握るサトさんの横に立って両手を振り上げ、何かを楽し気に話しているところで、その動作一つとっても彼がひどく浮かれていることがわかる。
彼は私に気付くと、大げさによろめいて柱にもたれかかった。
「なんて美しい! ミューズが舞い降りたのかと思ったよ」
私は返す言葉に困ってしまってもじもじと身をよじる。
サトさんはカラカラと笑い声を立てて、握り終えたおむすびを竹の皮にくるみながら言った。
「ほら、坊ちゃん、若奥様が困っているじゃあないですか」
「何をいう、僕の妻はこの世で一番美しいとは思わないかい?」
「ぼっちゃんこそ、なに言ってるんですか、若奥様みたいなのは美しいじゃなくて、可憐っていうんですよ。ほんとうにまあ、おかわいらしい……」
別に取り立てて着飾ったわけではない。学生の頃から来ていた清楚な白いワンピースを引っ張り出し、久しぶりに袖を通しただけだ。
だから私は二人の褒め言葉に困り果てていた。
そんな私を救ったのは、幸助の一言である。彼は船の用意が整ったことを伝えに来たのだが、台所に足を踏み入れたと同時に大きな声で叫んだ。
「お、お花だ」
「え?」
「わ、若奥様、お花だ。き、きれい」
何かを曲げて伝えることのできない男の一言は、百万の称賛にも勝る。サトさんも、淳之介も、納得しきって膝を打つ。
「ああ、それだ。本当に花のようだ」
「確かに、お花みたいですねえ」
幸助はこれに気をよくして、ぐにゃりぐにゃりと体を揺らす。
「お、お花、き、きれい、ひ、ひらひら」
淳之介もすっかり気分良く、サトさんの手元から魔法瓶を取り上げて私の手を引いた。
「さあ、行こうか、僕の花」
ふわり、ふわりとした気分で彼に手を引かれて浜へ降りれば、私が嫁入りの時に乗ってきた小舟が波うち際に押し出してある。
「淳之介様、船旅って、これですか?」
「いやかい?」
「いいえ、嫌ではありません、淳之介様と一緒なんですもの」
「じゃあ、乗りたまえ、船頭は僕だ」
「え、幸助さんは行かないんですか」
「君は野暮だなあ、新婚旅行に身内を連れて行くものか」
「新婚旅行……」
少し照れながら船に足をかければ、幸助が私に駆け寄ってきた。
「よ、夜の海は、さ、寒いから」
彼が手渡してくれたのは分厚い毛布だった。
確かに時刻は夕刻も過ぎて、冬の予兆を感じる季節に特有の冷たい風が吹き始めている。
「ありがとう」
私が毛布で体をくるむと、彼は少しだけ残念そうな声を出した。
「お、お花、み、見えない」
淳之介がくすくすと笑う。
「幸助はその洋服がよほど気に入ったようだな」
私は幸助が気の毒な気がして、毛布を剥いで船に乗った。毛布など、いよいよ寒くなってから被ればいいのだ。
「行ってくるわね、幸助さん」
私が軽く手を振ると、幸助はぺこりと頭を下げた。
「い、行ってらっしゃい」
淳之介の声が朗らかに、夕日に赤く染まった海の上に響く。
「安心したまえ、船頭は僕なんだから、絶対に間違いなんかないさ」
彼が櫓をこぐ軽やかな軋みとともに、船は海の上を滑り出した。
夕暮れの海は美しい。もしも誰かがこの世で一番美しい風景はと聞いたなら、私はこの日の光景を答えることだろう。
夕日は水平線に半分ほど身を沈めながらも輝きを放っている。空の半分はベールをかぶせたような淡い茜色に染められて光っていた。それが天頂のあたりでは儚く溶けて、押し寄せる宵闇と混ざり合い、雲のいくつかを巻き込んで天目茶碗のような複雑な藍色を海に向かって流し込み、それを受けた海はすでに夜の漆黒をはらんで暗い。
一日中の空の色が一か所に集められてさえぎるもののない洋上の一面を覆っているさまは、息をのむほどに荘厳であった。
淳之介はこれに見とれる私を笑う。
「空なんか、何も珍しくないだろう」
「いいえ、空は珍しくありませんが、こんなに美しい空は、初めて見ました」
「今夜は満月だ、もうすぐ月が上る。そうしたら空は、もっと美しいぞ」
船はすぐに、白鬼島から少し離れただけの大きな岩礁につけられた。
「ここは、子供のころからよく遊びに来ていたんだ」
なるほど、島の形がはっきりと見えるほど近いこの岩礁は、泳ぎが達者であれば海遊びのついでに立ち寄るのにちょうどよいだろう。
「おいで、久子、今日は特に大潮だ、奥に上がれば足元がぬれる心配もない」
淳之介は私の手を引く。足元は苔で少し滑るし、思わぬところに隠れた段差に足を取られて転びそうにもなったが、そのたびに淳之介がぐいと引き上げてくれた。
淳之介は岩礁の真ん中に私を座らせ、自分は今一度、船へと戻っていった。たった一人で暗くなってゆく空を眺めるのは少し心細かったが、同時に波音しか聞こえない無にも近い静けさが心地よかった。
思えば白鬼島では、誰かが必ずそばにいる。何しろ白鬼家は島民からひそかに疎まれている家なのだし、義母は獣にいつ呼ばれるかわからないのだからめったに外出などしない。サトさんは通いだが朝食の支度のために朝早くから白鬼家に入り、夕食の支度を済ませるまでは台所にいる。幸助だけはふらりとどこかへ出かけることもあったが、それだって狭い島の中をぶらりぶらりと探索するだけのこと、数刻もすれば気まぐれに帰ってくる。
そう、私は白鬼家に嫁いでから一人きりになることが一度もなかったのである。
だから、暗い海の上にぽつりと置かれた孤独感が何より心地よい。行儀悪く手足を伸ばし、大きく伸びなどしてみる。
「ああ、夜風が冷たい」
何気なくひとりごとを言えば、ちょうど戻ってきた淳之介がこれに答えた。
「そう思って、毛布も持ってきたよ」
彼が寄越した毛布をかぶれば、潮風も気にならぬほどに暖かい。
「食事の支度をしてしまうから、少し座っていなさい」
彼は船から持ってきた包みを手早く広げ、魔法瓶のふたを開けた。潮に混じって、温かい茶の香りがあたりに広がった。
「ほう、良い茶葉を使ってくれたんだな」
笑う彼の肩越しに、上り始めた満月が見えた。辺りはすっかり夜の色が濃くなって、月の明かりだけが質素な晩餐を照らす。
世間でいうような驕った旅行ではなく、豪華なごちそうもないけれど、二人きりで過ごすこれは、確かに私たちにとっては『新婚旅行』だった。
「久子、おにぎりはどっちがいい? 片方は鮭のほぐし身で、片方は梅干しだそうだが、どっちも同じ形をしているんでね」
「じゃあ、右のをください」
「よし、こっちだな、鮭なら当たりだ」
「あら、梅干しだって、サトさんの梅なら十分に当たりですわ、おいしいもの」
たわいない話をしながら、私たちは身を寄せ合った。
「淳之介様、二人きりですね」
「ああ、二人きりだ」
ささやきあう声は岩に砕ける波の音にさらわれて、誰にも聞かれることはない。月は海の上に白い光を投げ、それが波にくだかれてちらちらと跳ねる。
確かに美しい夜だった。この夜を一緒に眺める相手が淳之介だけであるのがうれしくなるような、そんな夜だった。
「ねえ、淳之介様」
「うん?」
「私はきっと、今日のこの夜を一生、忘れないと思います」
「僕が忘れてもかい?」
彼の声がいくぶん沈み込むから、私はあわててその手を握る。
「淳之介様、今日はせっかくの新婚旅行なんだから、私のわがままをひとつだけ聞いてください」
「僕にできることなら」
「今夜だけは、獣とか、呪いとか、そんなことは忘れてください」
「そんなことができるものか」
「あら、でも、淳之介様はそういった悩みから一時でも私を引き離したくてここへ連れてきてくれたのでしょう? だったら、淳之介様も今夜だけはそういったものを忘れなくちゃ」
「なるほど、確かにそうだったな」
彼の身体が、さらにすり寄ってくる。
「久子、僕はこの夜を忘れない。永遠に」
「ええ、永遠に」
目を閉じれば、鼻先に彼の呼吸を感じる。そのあとから唇に触れる優しい呼吸と、押し入ってくるのは不埒な舌。
私は彼に向かって体を開きながら、波の音を聞いていた。
太古の昔から幾億となく繰り返された、ただ地球がうごめく音が、私たち二人を快楽の中に閉じ込める。もしかしたら今夜だけは世界が消えて、この世には私たち二人きりしか残っていないのかもしれない。
切なくなって、私は彼の背中に両手を回す。波よりも近く、耳のすぐそばで聞こえるう彼の呼吸が、何よりもいとおしかった。




