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「実はね、僕もあがいた時期があったよ、この呪いが解けるんじゃないかと」
障子の向こうはのどかな小春日和だ。何をついばみに来たか、寒雀の数羽が戯れる声のほかには音もなく、ただ静かな、淡い陽光が差している。
「僕は当時大学生だったからね、目端を変えればうまい方法が見つかるんじゃないかと、ありとあらゆる分野の先生方に相談に行った。もちろん、僕の家のことだというのは伏せて、よくある民間信仰の類だということで見解を聞きに行ったのさ」
「それで、なにかうまい方法はあったんですか?」
「あったら、君は今頃、こんな悲しい思いなどしていないだろう」
「悲しい……」
「そう、悲しいんだろう?」
私は自分が知らず涙を流していることに気付いて、ひどくうろたえた。
「これは、その……」
「いいよ、久子、おいで」
彼は私の頭を自分の胸に押し付けて、シャツの前立てに涙を吸わせてくれる。だから、私は今まで自分でも隠していた、本当の気持ちに気付いてしまった。
「……悲しいです」
「そうだろうとも」
「私は、今の淳之介様を愛しています。優しくて、人の心に聡くて、誰よりも人間らしい、あなたの心を愛しています」
「うん」
「だから、それが失われるのが悲しい。こうして言葉を交わすこともできなくなるのが悲しい、優しく抱きしめてもらうことがなくなるのも悲しい、あなたがあなたでなくなるのが悲しい……」
私は涙を止めようと、わざと明るい声を出す。
「でも、それは別に死に別れるということではないから……」
「久子、こらえなくていいんだよ。死に別れるわけではないから、余計に悲しいんじゃないかい?」
こらえていた涙が堰を切ったようにあふれ出た。呼吸は大きく吸い込まれ、肺を破るような泣き声がのどをつく。
「悲しい、悲しいです。優しいあなたの面影を抱いたまま、獣になってしまったあなたのそばにいるのは、とても悲しいことです」
「そうだろうね」
「でも、だからといって離れられない。淳之介様のそばを離れるなんて、私にはできない!」
「いいよ、久子、好きなだけお泣き」
後は遠慮も、会話さえもなく、私はだらしなくワアワアと声をあげて泣き続けた。そんな私のことを、淳之介はずっと抱きしめていた。
涙が止まるまで、ずっと……その優しさが悲しくて、私はずいぶん長いこと、そうやって泣いていた。
ひとしきりを泣いた後で顔をあげると、目の周りが熱くて重だるい。
「ああ、こんなに泣きはらして」
彼の冷たい体温が瞼を撫でさすってくれるけれど、そのくらいではこの熱は冷めそうにもなかった。
「おいで、冷たい水で顔でも洗えば、すっきりするだろう」
彼に手を引かれて庭先へ降りる。と、鳥居の方からガヤガヤと騒がしく騒ぐ声が聞こえてきた。
「ああ、獣さばきか」
彼が不快そうに眉根の間を曇らせる。すでに神殿の方からは、厄災の訪れを告げる不穏な方向が聞こえ始めていた。
「とりあえず顔を洗ってきなさい、僕は先に行って、みんなの訴えを聞かなくちゃならない」
これが私にとって二回目の『獣さばき』のはじまりであった。
顔を洗って神殿の前に赴くと、幸助はすでに罪人の周りをピョンピョンと跳ねまわって踊り狂っていた。
今度の罪人はこの前とは明らかに違う。全身を縄でグルグルと縛られてはいるが顔つきはふてぶてしく、不敬にも神社の石畳に唾を吐いて怒りをあらわにしているのだ。
きっと取り押さえるときに相当暴れたのだろう、その男を取り囲む島民たちもどこかしらけがを負っているものが多く、できるだけ罪人から離れようと押し合いながら神殿の前にいるのだ。
淳之介は鈴の真下に立って、この罪人を見下ろしていた。
「お前は三日前にこの島へ来た。ここで三件の空き巣を働き、あまつさえこれを見つけた重吉の一家を惨殺したと。これで間違いないか?」
「そりゃあ全部ウソってもんでさ。俺がこの島に来たのは盗みをやるためじゃなくて、仕事を探しに来たんで、持っていた金は全部いままでためてた俺の全財産でさ」
男は話すたびに無精ひげの生えた顎をだらしなく歪めて薄笑いを浮かべる。私はこれを不快だと思った。
この男は不正直者だろうとおもったが、これは全くの私見と偏見なので口にするべきではない。私は黙って事の成り行きを見守っていた。
男は淳之介を言葉で御せる相手だとでも思ったのだろうか、ひたすらに饒舌だ。
「金を持っていたのは俺の方、金を欲しがったのはその重吉って男の方、で、やっこさん、鉈をもってきて俺を脅しにかかったんでさ。俺としてはその鉈を取り上げて、ちょいと痛い思いさせてやるだけのつもりが、ついつい手が滑っちまってね」
「手が滑っただけで、乳飲み子まで殺すのか」
「そこは、へへ……それも俺がやったんじゃなくて、重吉ってやつがやったんでしょう」
「申し開きはもういい。これより、獣さばきを始める」
幸助が神殿のドアに飛びついて、これを開いた。辺りに獣の唸り声が満ちる。
縛られた男は、ここで初めて神殿の中にいる獣の姿を見たのである。縛られて動かぬ体をよじって、散々に身もだえた。
「おい、ちょっと待て! まさか俺をあれに食わせようっていうんじゃなかろうな?」
「無意味に食うわけではない。ちゃんとお前の話がウソか本当かを見極めて食う」
「そんなの無法だ! 相手は獣だぞ、言葉が通じるわけがない!」
「安心しろ、ああ見えてもとは人間だ。お前の言葉はきちんと伝わっているだろう」
「やめろ、駐在を呼べ、駐在を! そうしたら本当のことを話してやるから、な」
「ほう、さっき語ったのは本当のことではないと?」
「あ……」
男が立ち尽くした隙を見て、島民の中でも特に大柄なのが三人ほど、これを抱え上げて神殿の扉の中に投げ込んだ。
「久子、おいで」
淳之介に呼ばれて私が神殿に上がると、扉は表からすぐに閉じられた。そこは、相変わらず薄暗い。
「久子、どんな恐ろしいことがあっても、目を閉じてはいけないよ」
淳之介が手を握ってくれなかったら、私はそこから逃げ出してしまっていたかもしれない。
それほどまでに男は醜悪であった。耳をふさぎたくなるような悪口雑言を喚き散らし、芋虫が暴れるように全身を跳ね上げて獣に抗っている。獣はすでに男の顔を嘗め回せるほどに歩み寄っており、彼がいくら暴れようとも逃れるすべはない。
「おい、いくら田舎だからって、こんなことは許されないぞ、人殺しだぞ、これは!」
それが彼の最後の言葉であった。私がほんの瞬きをした間に、男の首は胴から離れて床の上に転がり落ちていた。
あまりに速い動きだったのだから、獣が何をしたのかはわからない。ただ、鋭い爪の先が鮮血の紅に染まっているのだから、きっとあれで男の首を刎ねたのだろうと推測するばかりだ。
獣はそのまま膝をつき、淫雑な舌遣いの音を立てて床に流れた血をすする。あれが自分の夫の将来の姿なのだと思うと膝が震えた。
「久子?」
淳之介が私の顔をのぞき込むから、私はその首っ玉に縋りつく。両頬を涙が伝い落ちる感覚はあったが、私はそれを止める手立てなど知らない。ただ声もなく泣くばかりだ。
淳之介はそんな私の身体を抱きとめてくれた。
「よしよし、怖かったな」
違う、悲しかったのだ。
いずれ夫は獣となる。ああして罪人の首を刎ね、その血肉をすする化け物になる。ならば今の、人間である彼はそんなことを望んでいるだろうか?
優しい淳之介がそんなことを望むはずがない。望まぬのに獣に堕とされ、望まぬのに暗く沈みこむような闇の中でうずくまって、鉄の匂いを放つ赤い液体をすすらねばならぬ。
私には、それがどうしても悲しかった。
こうして私はこのころ、すっかり泣き虫になってしまっていた。




