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「久子、僕から離れなさい」
「いやです」
「僕は君を傷つけることしかできない。だから、僕に……触れないでくれ」
「傷の一つや二つ、こわいものですか」
「僕は怖い。本当は君に触れることさえ怖い。君を傷だらけにしてしまいそうで……怖い」
淳之介は泣いている。深く頭を下げて、顔を両手で隠して。
それでも私が、いとしい人の指の間から流れる涙に気付かぬわけがないのだ。
空はいよいよ暗くなり、辺りにばらまかれた大粒の雨がバラバラと音を立てて木の葉の上に躍る。しかし強い雨さえ、彼の涙を押し流すには足りない。
私は彼の頭を抱き寄せて、その耳元に唇を寄せた。
「傷だらけになってもかまわない、五体を引き裂かれてもかまわない、相手があなたなら、何をされてもかまわないのです」
「そんなことをしたいわけじゃない。僕は、傷つけるために君を欲しがったわけじゃない。なのに、僕の中にはやっぱり獣のような心があって……」
「そのお話はあとでゆっくり聞きます。いまは、ただ、泣いてください」
彼の肩から力が抜け、絶叫にも似た泣き声が上がった。
「久子、久子っ!」
駆け抜けるように、夕立は降る。その雨音の中、何度も何度も叫ばれる私の名前。
私はただ、黙って彼の身体を抱き支えていた。丸く背を丸めて私の身体を抱きしめた彼は、ただ……泣いていた。
どのぐらいの間そうしていたのだろう、気づくと雷雲は遠くに流れ、雷の音が遠く聞こえる。雨はすっかりやんでしまった。
彼は顔をあげて私を見つめる。散々泣いて顔は涙で汚れきっていたが、気持ちはいくぶんか晴れたのだろうか、落ち着いた表情であった。
「久子、ありがとう」
私にむかって囁く声も落ち着いている。いつも通りの優しい彼だ。
安心したら急に、ずぶぬれになった自分たちの姿がとてもおかしいもののように思えた。声を立てて笑う。
淳之介はまだいくぶんか私を警戒している様子で、びくりと震えて身を引いた。
「ど、どうした、久子?」
「だって、ぞうきんみたいに絞ったら、お水がたっぷりと出てきそう」
「ああ、確かに」
彼も屈託ない笑いを漏らす。
「そういえば久子、傷は……」
彼の指がためらいながら、ブラウス越しに私の乳房をなぞった。ぐっしょりと濡れた生地は肌に張り付いて私の身体の形をあらわにするというのに、ガーゼを当てられた傷口は形さえ見えない。
それでも彼は、そのガーゼの上を何度も何度もなぞった。
「これは、僕の罪だ」
私はしれっと答えてやる。
「そうですね、これは淳之介様の罪ですね」
「どうすればいい? どうすれば君に償える?」
「償いなどあまりに無意味なのじゃないでしょうか。淳之介様、ここで私にしてくれたお話を覚えていますか?」
「ああ、獣の」
「あのお話を聞いて以来、私は人の罪というものについていろいろと考えておりました」
「それで、何かわかったのかい?」
「そうですね、例えばここについたこの傷、これは淳之介様が噛んだからです。紛うことなき淳之介様の罪です」
「それは、申し訳ない」
「だけど、その理由をたどれば、淳之介様が怒るようなことが何かあったはずなんです」
「それは全く恥ずかしいばかりの、嫉妬だよ。それも僕の罪だ」
「そうでしょうか。私がもう少ししっかり幸助さんと距離を取っていれば、淳之介様もあらぬ誤解などしなかったのではないですか?」
「いや、しかし……」
「もっとたどることもできますよ。私たちがもう少し遠慮なくお互いの気持ちを言い合っていたら……いいえ、そもそも私たちが出会っていなかったら……いくらでも罪の根幹をたどってしまうことができるじゃないですか」
「ふうむ」
「だから、この傷を淳之介様の罪だと責めるのは無意味で非生産的なことだと思うのです。この罪を行わせたものはちょっとした間違いで、私たちは二人とも罪を犯したくて犯したわけではない、そうでしょう」
「そのとおりだ、僕は君を傷つけたくはなかった」
「間違いはなかったことにはできない。でも、次に同じ間違いをしないようにすることはできる。だから、二度と淳之介様が間違いなど犯さぬようにここで言っておきます。私は淳之介様のことだけを愛しております」
彼がためらいがちに両手を差し出して、私の身体をねだった。
「僕が獣になった後も?」
「はい」
私は彼の腕の中に身をゆだね、体を擦りつけるようにその胸板に顔をうずめる。
「この先、あなた以外を愛することなどできない、そのくらいにあなたを愛しているのです」
「わかった。僕は獣になった後も、君のその言葉を信じよう。たとえ心も失っても忘れぬように、君のその愛を僕の身体の奥深くに刻み付けよう」
彼の手が私の腰を引き寄せ、唇が私の呼吸をふさいだ。
「愛してる、久子」
葦の陰に隠れて、私たちはいつまでも続くような長いキスを……お互いの魂を食わせあうような荒々しいキスを交わしたのだった。
◇
その後しばらくは、平和な日が続いた。
獣さばきもなく、淳之介と私はけんかをすることもなく、困った出来度とといえば寝室に雨漏りがあったくらいで、これは幸助が屋根に上って上手に塞いでくれた。
幸助は、その後も神殿の扉の前に座り込んで獣と話している姿をたびたび見かけたが、私はこれに話しかけたりせず、遠くから眺めているだけであった。それでもこれを心のどこかで気にしていることが、視線なり、行動なりに出ていたのであろうか、淳之介が私に問う。
「気になるかい?」
またしてもいさかいの種になっては良くないと、私は素直に答えた。
「はい、とても気になりなす。でも、私が気にしているのは幸助さんではなくて、幸助さんが獣と何を話しているのかの内容なのです」
「そうか、君もあれが獣と話が通じると思っているクチか」
「通じているのではないのですか?」
「どうだろう、ときどきは通じているように見えるけれど、相手は所詮獣だよ、人間である幸助と『会話』が成り立つとは思えないな」
「では幸助さんはどうして、毎日のようにああやって話をしているのでしょう」
「そうか、君には言っていなかったな。幸助は僕の兄でね……」
「えっ」
「そんなに驚くことはないだろう。僕と幸助は、目鼻立ちがよく似ているだろう」
言われてみれば、幸助はいつでも垢じみた服を着てひげなども伸ばしっぱなしにしているが、あれをこざっぱりとさせたら美男子である。唇の厚みなど、淳之介とうり二つであるのだし、むしろ血のつながりがないという方が不自然だ。
「幸助はね、母の連れ子だ。だから神殿へ入れてやることはできない」
この時の淳之介は、とても情け深い目をしていた。
「神殿に入れるのは獣の血を引き継ぐものと、その妻と。幸助は残念ながら神殿に入る資格がない。万が一神殿に足を踏み入れて、父に食い殺されるなんて事故にでもなったら、それこそ取り返しがつかない」
「食い殺す……お義父様は幸助さんがお嫌いなんですか?」
「むしろ逆だ。父は人間だったころ、幸助のことをとてもかわいがっていた。自分の子であるかのように、僕と幸助の両方を膝にのせて遊んでくれることも良くあったよ」
ふいに、淳之介が暗く声を落とした。
「いや、獣の血を継がせなければいけないという負い目がない分、父は僕よりも幸助の方を余計にかわいがった」
「淳之介様は、幸助さんがお嫌いなんですか?」
「いいや、あれはとても情け深い人間だ、拙くはあったけれども僕の兄でいようと、いつだって不器用なやり方で僕をかわいがってくれた。とても感謝しているし、肉親としての愛情もあるよ」
淳之介が私の両手を取り上げ、懇願するような声を出す。
「だから、久子、僕が獣になった後、けっして幸助を僕に近づけないでくれ。僕はどんなに言葉のわからぬ獣になろうとも、幸助を食い殺すなんてことはしたくない」
ああ、だから淳之介は義父に幸助を近づけたがらないのだと、合点がいった。
義父もきっと心の優しい人間だったに違いない。自分が愛育していた子を殺すなど、この世で最大の罪だと恐れるような優しい人柄だったのだろう。
そんな義父とて今は獣だ。理性も情けもない、肉食らう生き物だ。幸助を義父に近づけないのは、人間である淳之介と義母の心の問題だ。
獣は悲しんだりはしない。
悲しむのは彼らの思い出の中にいる優しかった義父であり、もうこの世にはない義父の心を思いやる残された人間たちの方なのだ。
「わかっているんだ、こんなものは儚い感傷であり、相手は食餌と愛児の区別もつかない獣だということは。でも、僕たちは思考を持つ人間だから、『もしも』と考えるとそれだけで苦しくなって仕方がないんだよ」
彼の言葉に、私はうなづく。この繊細な人間性がいずれ失われるのだと思うと、胃の底がぎりっと痛みもした。
そんなこともあったが、おおむね驚くような出来事など起こらずに、私たちの結婚生活は半年を迎えようとしていた。
すでに季節は肌に冬の寒さを感じる十一月、そのころの私はいまだに子ができないことに少し焦りを感じ始めていた。
私がここに嫁いだ理由は、彼が人間であるうちに子を作ることであるはずだ。夫にはすでに残された時間は少なく、年を跨げばまた一つ、獣へと近づく。
そんな焦りからか、私は台所でサトさんや義母と水仕事をしながら、ぽつりとこぼしてしまった。
「子供ができやすくなる方法って、ないんでしょうか」
この半年の間に、私の身体はいくらか女らしく肉もついて成熟されつつある。だが、中身は17の小娘であるのだから、この猥談じみた質問が気恥ずかしいものであると思ってもいた。
それでも、どうしても誰かに尋ねずにはいられないほどに私は窮していた。
「私は淳之介さんの子供を産むためにここへ呼ばれたはずです。なのに、いまだに子供ができる気配すらないなんて、嫁としてひどく恥ずかしいことだと思います」
義母とサトさんはしばらく顔を見合わせていたが、やがてどちらからともなく口を開いた。
「こればっかりは、授かりものだからねえ」
「そうそう、焦ると余計に良くないらしいですよ」
私は悲痛な声で叫ぶ。
「でも!」
相手は姦しい盛りの女が二人、その声は機銃掃射のように畳みかける声に消されて消えた。
「ダンナさまの問題というのもありますやぁね、坊ちゃんがもっと真剣にならなけりゃあいけないんじゃないですかね」
「かわいがりすぎも良くないって聞くねえ。少し回数を減らすとか?」
「あ、奥様、あれはどうです、ヤマノイモ。何なら今から裏でとってきましょうか?」
義母が思い出したように、こちらへ顔を向ける。
「久子ちゃん、あの子が獣になるまで間がないから、焦ってるんじゃないのかい?」
サトさんは大げさに驚いてのけぞった。
「ええっ、そうなんですか、あたしゃてっきり……」
「悪いけどサトさん、静かにしてちょうだい、大事な話をするんだから」
「へい」
サトを黙らせた後では、義母も大きな声を出す必要がない。いつになく落ち着いた声調子で、静かに私に言う。
「久子ちゃん、獣の嫁の仕事は、子供を産むことだけじゃないのよ」
「わかっています、獣さばきの代弁人ですよね」
「それもあるけど、そもそも獣は妻に絶対に服従する生き物なの。だから、私が神殿の扉をあけ放って、人を食い殺せと命じたら、獣はそれに従うでしょうね」
「罪人じゃなくてもですか?」
「もちろん。だからこそ獣となった夫が心を失った後で、彼の心の代わりをするために一生を添い遂げる、こっちの方が獣の嫁の大事な仕事なのよ」




