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最初のうちは、淳之介が何を怒っているのかがわからなかった。ただ、いつになく険しい顔と、怒りを込めた荒い鼻息が恐ろしくて、私は身を縮める。
いつもの優しい淳之介ならばそれで十分だっただろうが、この日の彼は私の怯えさえも踏みつけるように荒い足音を立てて神殿へ上り、唸るような声で私をしかりつけた。
「幸助と何をしていた?」
「何って、話を聞いていただけです」
「あんなに身を寄せ合ってか!」
私はここで初めて、男の嫉妬というものの理不尽を知った。
淳之介からは親しくしているように見えたのかもしれないが、私は幸助の隣に座っているときには不埒な気持ちなど一つもなく、身を寄せていたのは幸助の言葉を一つとして聞き逃すまいと思ってのことなのである。
説明しようと腰を浮かせるが、それよりも早く淳之介の手が私の両肩を押した。拒む隙すらなく私は木床に押し倒される。
私を組み敷いた淳之介は肩が弾むほどに呼吸を乱し、両目は今にもギラギラと金色に代わるのではないだろうかというほどに燃えていた。
「久子、お前は本当は、僕が嫌なんじゃないのか?」
「どうしてそんなことを言うんですか」
「僕はいずれ人ではなくなる。それならば人の形をしている分、幸助の方がいくぶんましだと、そう思ったんじゃないのか?」
頭にかあっと血が上った。と、全くの無意識で、私の右手は彼の頬を張り飛ばしていた。
「そんな言い方、あまりにも失礼です!」
淳之介は目を見開いて自分の頬を撫でていたが、女の力で精一杯に叩いたところで痛みなどたかが知れている。どちらかといえば驚きの気持ちだったのだろう。
淳之介はそのまましばらく頬を撫でまわしていたが、やがてわずかに唇を震わせて、苦しいような声を出した。
「確かに、幸助に失礼だな。あれは仮にも人間なのだから、俺が貶していい相手ではない」
整った歯並びの中に犬歯が二本。そのとがり具合が獣じみていて、私は怯えに身を震わせる。
「そんなつもりで言ったんじゃあありません、そんなつもりじゃありません!」
かすれた声で懇願する私を、しかし、彼は容赦なく板張りの上に押さえつけて唸った。
「僕の意思はいずれ消える」
続く声はまるで咆哮のように激しく、恐ろしい。
「白鬼淳之介という人間の意思はいずれ獣に食われて消えてしまう。君はそれでも、そんな僕を愛し続けなくてはならないんだ!」
湧きかえるような怒りのせいだろうか、彼のお前身は痙攣するようにびくびくと震えていた。もちろん、私のブラウスの襟元にかけた両手も。
「いったい、何を!」
「君は僕の……獣の妻だ! それを思い知れ!」
彼の両手に力がこもり、ブラウスは紙で作られてあったかのように軽々と引き裂かれてしまった。こぼれだした私の乳房の、なだらかな陵に彼の唇が吸い付く。それはいつものように優しく私を試すようなことはなく、ただ力任せに、傷を残そうとでもするかのように強く……
「痛い!」
私の悲鳴を聞いて、彼の呼吸が荒くなる。
最初には舌が、私の肌の味を確かめるためにねろりと彼の口中でうごめいた。それから、とがった犬歯が、私の肌を裂くためにぎちりとかみ合わされる。
もはや声すらあげられぬ。悲鳴の代わりに細く長い呼吸を吐いて、私は身をよじりながら暴れた。
この騒ぎを聞きつけて庭先へ飛び出してきた義母の声がなければ、私は肺の中身すべてを吐き出してしまっていたかもしれない。
義母は鋭く叫んだ。
「淳之介!」
これに驚いて私の肌を離れる彼の呼吸には、泣くときによくあるようなひきつる呼吸がいくぶんか含まれていて、私は自分が彼の牙を押し返そうとしたことを後悔し始めていた。
淳之介は、確かに泣いていた。私の肌の上に咲いた歯形の痣と、その合間にぽつりと血をにじませた犬歯の痕とを震える指でなぞって、彼は確かに泣いていた。
「ああ、ああ、僕は、何ということを……」
私は痛みをこらえるために目を閉じていたのだが、その頭上でパアンと響いた平手の音は、おそらく駆け付けた義母のものであっただろう。
「何をやっているんだい、あんたは!」
義母の声は激しい怒りを含んで甲高く響いたが、それに応えるのは淳之介のすすり泣きばかりである。
痛みをこらえてうっすらと目を開ければ、かわいそうな夫は表情も見えぬほど深くうなだれている。その両肩が涙に合わせて頼りなく震えている。
切なくなって、彼に向かって片手を伸ばすが、彼は手を伸べ返してはくれない。
「ごめん、すまない、久子……」
ただ謝罪の言葉を繰り返すばかり。
だから私は体を起こして、彼の両肩に縋りついた。
「淳之介様、泣かないで」
傷つけられた乳房よりも、そのずっと奥が痛い。心の臓の不調かとも思ったけれど、それよりもさらに深い深い、自分の身体であるのかもわからぬほどあいまいな器官が痛む。
「ねえ、淳之介様、お願い」
彼の涙の一滴ごとにそれがひどく痛む気がして、私は彼の背中まで腕を回して強く縋りついた。
背後の神殿の奥からは低く唸る獣の声が聞こえてくる。もちろん意味など無い、ただの唸り声だ。
もしかしたら血の匂いに食欲を刺激されて近づいてきただけかもしれないというのに、私はその時、この声は泣いている幼子に語り掛ける父親の声調子に似ている、などと馬鹿なことを考えたりしていた。
やがて淳之介は顔をあげて、私の胸の傷を指先でなぞった。
「手当だ。ともかく、手当をしてもらおう」
噛まれた傷は少し熱感をはらんではいたが、痛みはやや引いている。だから私はそんな彼の手を取り、にっこりと笑うことができた。
「そんな大げさな、たいしたことありませんよ」
「いいや、たいしたことはある。君に傷など残しては、ご両親にも申し訳がたたない」
「このくらいの傷、痕も残らないでしょう」
私は彼が後ろめたい気持ちにならぬように精一杯に気を使ったつもりだった。が、自分で自分の罪を数えている人間に、そんな半可な優しさが通用するわけがないのだ。
彼は私の身体を義母の方にそっと押しやって、自分はぶるぶると体を震わせながら後ろに下がった。少しでも私から遠くに行こうとしているみたいだった。
「ともかく手当を、僕は少し頭を冷やしてくるから」
そのまま神殿の裏手へと駆け込んでゆく彼は、きっとしめ縄を越えてあの池へといくのだろう。そして、そのほとりで存分に声をあげて泣くのだろう。その姿を思うだけで、胸の奥底がまた痛み出す。
私は彼を追うように片手を差し出したのだけれど、それを引き戻したのは義母の細い腕だった。
「いいから、少しほっといてあげなさい」
「でも……」
「それより、今は手当だよ」
私は母屋へと引っ張って行かれた。縁側に腰を下ろし、濡らした布巾で傷を清められる。
「ああ、これは……」
義母が顔をしかめたのは傷が思いのほか深かったから。白い肌に牡丹を咲かせたようなその傷は、淳之介の不安の大きさを物語っているようにもみえた。
義母は傷口を丁寧にぬぐいながら嘆く。
「ごめんなさいね、本当に、あの子は、もう……」
義母の嘆きはもっともだと思う。優しく、正しくあれと育てた息子が――ましてや分別もある大の大人が、幼子のように癇癪を起して人を傷つけたなど、親としてどれほど情けない気持ちだろう。
しかし、私は口の端にうっすらと笑いを浮かべて、満足のため息を漏らした。
「いいんです、お義母さま、これは」
「いいもんかね、たとえどんな理由があろうと、こんなことを許してはいけないよ!」
「許したりはしません。淳之介様にはきちんと謝ってもらいますとも。でも、これはこれで、いいんです」
愚かにも私は、この獰猛な所有印をうれしいとさえ思っていた。これは彼が私を手放したくないとあがいた、心の爪痕なのだ。
義母はこういった男女の機微に聡い人だ。きっと私の心を見抜いていただろうに、何かを語ろうとはしなかった。ただ口の中だけで響くような小声で「そうかい」と言って、縁側から立つ。
どこかでセミが鳴いていた。林の木々を透かして入道雲が立ち上がる青い空が見える。
「夏だねえ」
何気ない義母の一言に、私も空を見上げる。
「夏ですね」
「もうすぐ夕立が来るだろうよ」
義母が神殿の方を顎で指すから、私はその言葉の意味を悟った。
「淳之介さんを迎えに行ってきます」
立ち上がった私に替えのブラウスを手渡しながら、義母の顔は暗く悲しい。
「久子ちゃん、私たちは『獣の嫁』だけど、自分が獣になるわけじゃあないんだよ。そこを心得違いしないようにね」
「はい」
澄んだ返事を返しながらも、私は義母の言葉の何一つを理解しようとしていなかったのかもしれない。
どんなにあがいたところで私は獣にはなれない。もしも獣になれるのならば……心を失い、本能のままに淳之介と体を擦り寄せ合う単純な生き物であったなら、罪におびえることも、悲しみを知ることもないというのに。
その時の私には、ただ淳之介の後を追い、この所有印の理由を問いただすことしか頭になかった。だから、少し浮かれたように軽やかな足取りで、神殿の裏手へと駆け出して行ったのである。
義母が言ったとおりに夕立は近い。林の下草を踏めば、立ち上るひねた腐食の匂いがそれを教えてくれる。私が池のほとりにたどり着いた時には、黒い雲が水面さえ暗く染めるほどに低く立ち込める曇天となっていた。
今にも泣きだしそうな空を気にしながら、私は小さな声で呼びかけてみる。
「淳之介様」
彼は葦の間にただ立ち尽くしていたが、私の声に振り向いた。
「ああ、久子」
泣いてはいない、怒ってもいない、ただ空虚な瞳がそこにはあった。
「ごめんな、久子」
そういったきり、彼はふいと顔を顔をそむけて空を見上げる。
「あ、雨」
ぽつり、と大粒のしずくが、私の鼻先にも当たった。
「淳之介様、帰りましょう、雨が強くなる前に!」
叫んでも、彼は動こうとはしない。頼りなく立つ細身の体を隠すように芦原が揺れるから、私は不安になる。
「淳之介様!」
ついついと高く伸びる葦をかき分けて、私は淳之介に駆け寄る。駆け寄って、彼の身体を抱きしめるように飛びつく。
「淳之介様、どこへ行こうというのですか!」
彼は夢から覚めた人のようにはっと体を震わせ、私を見下ろした。
「どこへ?」
「どこかへ……まるで遠いどこかへ、私を置いていこうとしているような顔でしたよ」
この時、私は彼が数歩を前に進んで池の中へ沈もうとしているような気がしたのだが、それはあえて言わずに『遠く』と例えたのだ。
「淳之介様が遠くに行ってしまわれるなら、私も連れて行ってください!」
その声に、いよいよはっきりと夢想から覚めたらしく、淳之介は自分の顔を両手で覆って「おお」と嗚咽を漏らした。




