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それでも母に獣の話など聞かせるわけにはいかない。私は笑顔を取り繕い、明るい声を出す。
「彼はとても私を大事にしてくれています、心配しなくても、私はこの家でうまくやっていけると思いますよ」
「そう……」
母の眉根の間が一瞬だけ曇ったのは、なぜだろうか。
「たとえ嫁に出しても、私はあなたの母ですからね、どうしても言いにくいことがあるのなら、手紙でもいいから相談してちょうだい」
母はそれだけを言うと、私から顔をそらした。
男たちはちょうど、兄が友人に誘われて始めた趣味の話などに話題をうつしたところであった。
曰く、兄は最近、山で鳥などを撃つ狩猟の趣味を始めたと。
兄は自分が新調した猟銃が外国製で、どこのメーカーのもので、仕様がどのようなものであるのかを事細かに語っており、これはまったく私の興味を引くものではなかった。
それは淳之介も同じだったようで、大げさに同意の相槌などをうってはいるが、その眉根が下がり切って、困っている様子である。
兄はそんなことには気づかずに両手を大きく広げ、自分の獲物がいかに大きかったかを誇張しようとしていた。
「もちろん、これは羽を広げた大きさだが、国内一の大物だったんじゃないかな、友人は僕の狩猟のセンスと才能を褒めたたえ、写真機まで取り出して、大騒ぎだったんだよ」
「これ、そのくらいにしておきなさい」
父が袖を引くのもかまわず、兄はさらに吹聴する。
「僕ぐらいのセンスがあるとね、山の形を見ただけでそこに住む獲物の数や大きさまで知ることができる……そうだ、この島の山、あれはいかにも肥え太った土鳩が住み着いていそうな形だ。どうです、今度一緒に鳥撃ちなど?」
淳之介は片手を差し出して、丁寧にこの誘いを断ったのだが、兄がそんなことで納得するわけがない。
「心配しなくても、銃なら僕のお古をあげますよ。あなたはいかにもひ弱で日に当たっていなさそうなんだし、なにかそういった活動的な趣味を持った方がいい」
「いや、神社の形をしたところで殺生は……」
この言葉をいうのに彼がどれほど苦しんでいるのか、私は知っている。あそこは形こそは神社だが獣さばきの場であり、昔からどれほどの血が流れたかわからない場所である。
彼もいずれは獣となり、容赦なく罪人の首を食い落すことになるのだろうから、ここで兄の誘いを断るためとはいえ、それは譫言のような嘘でしかないのだ。
そんな彼の苦しい心根を知り、真っ先に機転を利かせたのはサトだった。
「ぼっちゃん、そろそろ神社のお仕事をしなくちゃならないんじゃないですかね」
兄が驚きの声をあげる。
「こんな日に、仕事だって?」
サトはしれっとした顔でこれに答えた。
「そりゃあ、坊ちゃんの仕事は神様にお仕えすることですもの、神様がお休みじゃない日は坊ちゃんもお休みじゃあない、当たり前のことでしょう?」
もとより兄は学問畑の人間で、こういった神事に詳しいわけではない。少し不満そうではあったが、いかにも物分かりがよいように大きくうなづいて「なるほど」といったきりであった。
こうして淳之介と義母はサトの家を後にしたのである。
二人が帰った後も、兄は自分が買ったばかりの銃の自慢をしたがった。だから私はその話し相手として適当な相槌を打っていたのだが、ふと、話の切れ間に兄に問うた。
「お兄さんは、鳥やウサギなどを撃って、心が痛んだりはしないのですか?」
「どうして?」
「銃で撃ったら、相手は死んでしまうでしょう。生き物を殺すことにためらったり、悩んだりすることはないのですか?」
「おかしなことを聞くなあ、久子はビフテキを食うときに、牛がかわいそうだと思うかい?」
「いいえ、あの……」
「わかる、わかるよ、お前の夫はインテリだ。感化されて何か賢げなことを考えたのだろうけど、所詮は女の浅知恵、うまい返しなど思いつかぬのだろう」
兄はへらへらと笑って、私の頭を撫でた。
「ライオンは自分の食う生き物に情けをかけるか、という話だ。動物園にいるライオン、あれなんかは肉食獣といって他の獣を食料にする生き物なんだよ」
「そのくらいは知っています」
「これは失敬、久子は物知りだなあ」
「ライオンは心のない獣です、いくら生き物を殺したって心が痛むはずはないもの。そうではなくて、お兄さんは心ある人間だから、ほかの生き物の命を奪うことにどんな感慨を抱くのかと思っただけです」
「どんな? そうだなあ、子供のころ、釣りに連れて行ってやったことがあったね、あの時お前は魚が取れるたびにはしゃいでいたじゃないか、あれと同じ感覚だよ」
「だって、あれはお魚ですもの、毛や血のある生き物とは違います」
「同じだよ、魚だって生きている。命を持ち、動いている、れっきとした生命だよ」
「それは、そうなんですけど……」
そろそろ私は、自分が兄に何を聞きたかったのか、その話の肝を見失いかけていた。
「命を奪うという、罪についてですね……考えていたんです」
「女が無駄に頭なんか使うもんじゃないよ、そんな哲学的な命題は男に任せておけばいいんだよ」
ここで兄がふっと立ち上がったのは湯屋に行こうとしたか厠に行こうとしたか、ともかく、話に飽きたからには違いない。
彼は軽い伸びをしながら、それでも最後に、ぽそりとつぶやいた。
「そもそも『罪』という観念自体が人間に固有のものなんじゃないのかね」
兄にとっては何気ない独り言だったのだろうが、この一言が私の考える『罪』という観念を探す一助となったことは間違いない。
こうして兄と両親に挟まれて眠る最後の夜を過ごした私は、翌日の夕方近く、内地に戻る船に乗った両親たちを見送ってから白鬼家へ帰った。
義母は台所でサトさんと楽し気に何かの話をしている。私はこの一か月ほどのうちに、二人がこうして話しているときは軽い猥談の類なのだと心得ていたので、これを避けて家の正面に回った。ふと目をあげれば、幸助が神殿の扉にもたれかかって何かを話している。
少しだけ迷ったのだが、私は彼の近くに行って聞いてみた。
「幸助さん、こんなところで何をしているの?」
彼は全く恐れを知らない少年のようににかっと笑い、ぐにゃりと体を揺する。
「せ、先代さまと、は、話してた」
「そういえば幸助さんは、その獣の言葉がわかるの?」
「わ、わかる」
「そう、わかるのね」
思えば獣とはいえ、もとは人の心を持っていた存在なのだ。声では唸ることしかできなくても、心の内に人らしい感情を持っていても不思議ではない。
なんだか、一筋の光明が見えたような気がした。私はこのころ、夫である淳之介がいずれ人の心を失うのだということが悲しくて、それ故に人間の罪などという思考に逃げていた節がある。しかし、もしも夫が心を失わないのだとしたら、たとえ姿かたちは変わってもそれは『淳之介』であるのだと思えることができるではないか。
私は幸助の隣に座り、ドキドキする心臓のあたりを押さえながら聞いた。
「幸助さんは、獣とどんなお話をするの?」
「い、いろいろ」
「いろいろって?」
「お、俺がいい子だったこと、は、花がきれいなこと、さ、寒いとか、暑いとか」
「そういう時、獣はなんて?」
「は、腹が減ったとか、あ、あくびしたりする」
私は落胆した。それでは全くの獣のしぐさで、幸助がしているのは膝の上の猫に一方的に話しかけるような行為ではないか。
それでも彼は一切の屈託など無く、ただへらへらと笑っていた。
「と、ときどき、先代さま、は、話す」
「本当に? どんなことを?」
「ち、血が欲しい」
「それ、この間も言っていたわねえ、本当に獣がそんなことを言うの?」
「ほ、本当。お、俺ウソつかない。う、ウソは食い殺される」
「他には? 他にも何か言うことはあるんでしょう?」
「あ、嵐が来る、さ、魚が来る、お、教えてくれる」
「他には? もっと何か、言ったりしないの?」
さらに幸助を問い詰めよとしたその時、神殿の階段の下で夫の声がした。
「そこで何をしている!」
途端に幸助は飛び上がり、神殿の階段を飛ぶように駆け下りる。
「な、何もしてない。は、話しただけ」
淳之介はひどく不機嫌で、眉根の間に強いしわを寄せていた。
「話だって? 何の?」
「せ、先代さまの話」
「ああ」
淳之介の表情がいくぶん緩む。
「幸助、あれは僕の妻だ。二人きりで内緒の話なんか、してはいけないよ」
「な、内緒、しない」
「あと、神殿だ。獣と話すのはいいが、間違っても中に入ったりしないように注意しなさい」
「わ、わかった」
「僕は今から妻と話がある。母屋に戻っていなさい」
「お、母屋、い、行く」
幸助が立ち去るのを見送ってから、淳之介は階段越しに私を見上げた。その瞳が怒りに燃えている。
それは私が初めて見る、淳之介の嫉妬であった。




