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獣行の果てに  作者: アザとー
罪さがし
13/29

 たとえ形だけでもと祝言にこだわったのは淳之介の方で、夏も盛りのころになって、私の両親と兄が白鬼島へ呼ばれた。これは兄の大学の夏季休暇に合わせてのことだ。

 久しぶりに会う両親は少し太ったようで、その健康な様子が何よりもありがたかった。

 三々九度の式を白鬼家の座敷で簡単に済ませた後は、サトが気を利かせて自分の家に宴席を用意してくれた。万が一にも神殿にいる獣と私の家族が顔を合わせたりなどしないようにという配慮だろう。

 当然、両親たちの宿もサトの家に決められている。頭の良い兄はこれを少しいぶかしんだが、「うちは神社という特別な環境だから」という淳之介の言葉に丸め込まれて、しぶしぶこれを飲んだ。

 私はみんなが義父の存在を隠そうとしていることに深く感謝した。それは『獣』である義父をさげすむためではなく、私の両親が嫁に出した娘の身を案じたりすることの無いようにという、とても心優しい配慮なのだ。

 久しぶりに会う両親と話もあるだろうと、私はこの夜、サトの家に泊まることが決まっていた。淳之介と義母も、細かな挨拶のために夜まではサトの家にとどまることになっている。

 いつもは賑やかなサトも、この日ばかりは言葉を選んでいるのか少しだけ無口で、黙々と酒宴の肴を小さな座卓に並べてゆく。

 淳之介はまず、父の盃に酒を注いで畳に額が付くほど頭を下げた。

「本日は遠路のところを……」

「ああ、いいからいいから、そういう挨拶はいらないから」

 父は銚子の口を淳之介に向けて、返杯を促した。

「ならば挨拶の代わりに、頂戴いたします」

 彼は恐縮しきった様子で盃を取り上げ、父からの酒を受ける。

 父はひどく上機嫌で、自分の娘婿に対して気さくであった。

「いやあ、君のところに久子をよこしてから急に取引先に恵まれるようになってね、なるほど、これは君のところの神社の御利益だったんだな」

 これに呆れたように兄が鼻先を「ふふん」と鳴らす。いかにも学士らしい、嫌みっぽいしぐさであった。

「お父さんは古いよ。神仏だの、ご利益だの、そんな科学的でないものが利益を生むわけがない」

「これ、お前がどのように思おうがかまわないが、それを神職のお宅では言わないという配慮はないのか!」

「これは失敬、迷信にとらわれている古い方たちには、少しばかり失礼な態度ではあったかな」

 兄は大げさに首をすくめておどけてみせる。それを見た父は、嘆くようなため息を盃の中に落とした。

「息子が失礼をしたね。あいつは自分が学校なんかへ行って、なまじ学問なんかやってるものだから、自分を高等な人間だと思っている節があってね」

「いえ、お義兄さんはお若いですから、そういうこともあるでしょうとも」

 淳之介が自分よりも年若い兄のことを『お義兄さん』と呼ぶ滑稽に、自然と笑みがこぼれる。それに、気のせいだろうか、淳之介の言葉はどこか挑戦的であり、私は自分が知らずワクワクと胸を躍らせていることに気付いて心の臓のあたりを片手で押さえた。

 もっとも、淳之介の挑戦的なことに気付いたのは私だけではないようで、兄はさらに鼻先をあげて「ふうむ」とうなる。

「君は学問を馬鹿にしているんだろう。いや、恐れているのかもしれない。迷信や世迷いごとで人心を惑わし、神聖性を保っていた神という存在が、科学の力によって白日の下にさらされて神秘を失い、信仰が廃れてゆくことを恐れているのだろう?」

「それは学問の本質ではありませんよ、お義兄さん」

 淳之介は柔和な笑顔を崩したりはしない。しかし声音の方はそれとは裏腹に澄んでゆく……まるで研ぎ澄まされた薄刃であるかのように、冷たく、硬く。

「科学とは『事象』からすべてを平等に見るための学問です。つまりは薬品を混ぜ合わせた時の反応や、この世の事象を解析した時に見られる物理法則から物事を見て、神秘さえも公然であると証明するもの、それが学問ですよ。違いますか?」

 兄は一瞬、反駁の言葉を失った様子であった。静寂だけが返事の代わりに辺りを満たす。

 淳之介はこの隙さえ逃さずに言葉を継ぐ。だが、その優しい声音は決して兄に向けたものではない。淳之介はこの時、常識という四角四面なものの見方の中で凝り固まってしまっていた私の心、これを解き放とうとしていたのではないだろうか。

「学問がすべてを平等に見るためのものであるからこそ、これを驕らずに研鑽する者だけが真理にたどり着ける、そういったものだと思いますよ、学問というものの本質とは」

「ぐう、真理……」

 兄は言葉を収めた。父が感心したように淳之介の肩を叩く。

「君は学があるなあ、さすがは法学院の出だな」

「ぐうう、法学……」

 兄とて大学に行っているのだから、けっして頭が悪いわけではない。ただ、親の金で学友と遊び歩き、時間を浪費するような学生生活ばかりを送る兄には、この淳之介のまぶしさが妬ましく思えたのだろう、彼はすっかりと下を向いてしまった。

 しかし淳之介の方は何一つ驕るそぶりなどみせず、ただ、視線は私をとらえて離さない。

「学問とは死ぬまで続く探求だよ、ましてや人の心などという、不定形で複雑なものを探求しようというのなら、日々これ学問だ。心して暮らしなさい」

 私が深くうなづくのを見て、父はひどく安心したように笑顔を浮かべた。

「なかなかどうして、可愛がってもらってるじゃあないか」

 淳之介が恐縮して身を引く。

「いえ、とても、そんな。ご両親のご慈愛には遠く及ばぬものであると心得ております」

「いやいや、ご両親と同じじゃあ困るでしょう」

 こういう時の物言いを知らないのは父が学のない行商あがりの成金だからであり、幼いころはこれをひどく恥ずかしくも思ったものだ。だが、私は淳之介のところへ嫁に来て、父の言葉は妙な飾りのない『本質』そのものなのだと知るようになった。

 それに、夫への信頼もある。人の心の本質を大事にするこの人ならば、父の学のなさを嗤ったりはしないことだろう。

 私は静かに父の言葉を聞いていた。

「娘にはできるだけの愛情をかけて育ててきたけれど、親の愛情は無償すぎて子供は愛情を受け取ることばかりを覚えてしまう。でも、今の娘のしぐさを見ていると、きちんと夫君に愛情を与えることを覚えたんだなあと感心したよ。あれは、君との生活の中で娘が学んだ愛情のしぐさだ」

 その言葉があまりに的を射ていすぎて、私は赤面する。

 このころの私は確かに、自分を庇護してくれる肉親の無償の愛とは違う愛の形を覚えていた。もちろん、自分が愛情を返さなくては夫から見捨てられるのではないかとか、そういった不安は一切ない。夫は盲目的に私を愛してくれており、きっと拒絶の言葉の一つや二つでは私を手放すことなど無いだろう。

 だが、私が返す愛に素直に取りすがるようなこともしてはくれない。夜は二つ身が一つに合わさるほど激しい愛を注ぎ込むくせに、昼は私の言葉一つにまで気を使い、それが永遠のものであると信じてはいない様子がうかがえるのである。

 この微妙な距離感に、このころの私は身もだえていた。

 例えば縁側で何気なく耳など掘っているときに淳之介の視線を感じたりするのだが、手を止めて振り向くと、その視線はすでに外されている。

「よろしければこちらへ」

 耳が痒いのかと膝へ誘えば、彼は首を大きく振って拒むのだ。

 そんな時、本当に何気ないほどの親しさで「ああ、頼む」と言ってくれたなら、どれほどうれしいだろうかと身の内が焦げる。私は欲熱を交わす行為の前兆など何も含まない、さりげない体の触れ合いを求めているというのに、それはいつも叶わない。

 私は、そうした静かな愛を夫に与えてやりたかったのだと、この時の父の言葉ではっきりと自覚したのである。

 あまりの気恥ずかしさに私は黙って立ち上がり、厠へ向かった。だからこの後、父たちと淳之介がどんな言葉を交わしたのかは知らないのである。

 ただ、私が厠から戻ると、父は畳に額を擦りつけ、兄も気さくに淳之介の肩を叩いて私の今後のことなどを頼んでいる最中であった。特に兄などは目を輝かせ、すっかりと淳之介に傾倒している様子であったので、私が戻るまでに学問的な会話がもう一講あって、淳之介が才を見せつけたのであろう。

 ともかく、自分の夫が親兄弟に認められるのはうれしいことである。私は男たちの会話の邪魔にならぬよう、少し離れて母の隣に座った。

 母は静かな人で多くを語らない性質であるが、この時は酒席で浮かれていたのだろうか、私の袖を引いてにっこりと笑った。

「善い人ね」

 私が赤面しながらうなづくと、母は「ふふ」と声をあげて笑う。

「良かったわ、あなたはまだ子供みたいな年なのに、お嫁に行かせてしまったから、嫁ぎ先で粗相があったらどうしましょうと思っていたのよ。でも、あの旦那様なら、多少の粗相は許してくれそうね」

「はい、いつも許してもらってばかりで……」

「お義母さまにも大事にしてもらえている?」

「それはもう」

「そう、ならばいいわ」

「あの、お母さんは……」

 自分が嫁いだことが寂しくはないかと聞きたかったのだが、それはあまりに無意味な気がして、私は言葉を飲む。

 たとえ母が寂しかろうと、私はすでに白鬼家の人間なのだ、婚姻を無かったことにして家へ帰れるわけでもない。

 まして、いずれ獣に堕ちる夫との日々は短くて貴重なものだ。その一分一秒たりとて惜しく、片時も彼のもとを離れたくないと思う私は、きっと親に対して薄情なことをしているのではなかろうか。

 そんな私の気持ちを汲んでか、母の声は優しかった。

「別に、あなたをここへ嫁がせたのはお金のためだけじゃないのよ」

 初めて聞く母の告白に、私は驚く。

「だって、白鬼の家から融資してもらったんでしょう?」

「そうね、確かに白鬼のお家からいただいたお金で、お父さんの会社はつぶれずにすんだわ。でもね、親だもの、お父さんだってお金をくれるだけの人に娘を売ったりしないわよ。あの人ならあなたに無体なことをしたりしない、大事にしてくれるだろうと思ったから、融資の話をありがたくお受けしたのよ」

「お母さん、彼が私に婚約を申し込みに来たのって……」

「たしか、あなたが十歳になったばかりの頃だったかしら。彼は大学の同級生に会いに上京していたんですって」

「その時に私を?」

「ええ、逗留しているお友達のお家の二階から、通学途中のあなたを見たそうで、その姿がいかに可憐だったかを熱弁していたわね」

「お父様がそれで良くお許しになりましたね」

「そうね、あなたがどれだけ可愛いかをまくしたてるだけの変態だったら、お父様もきっと彼を追い出していたでしょうね。でもね、あの人はあなたが女学校を卒業するまで待つと、真っ先に約束してくれたのよ」

「たった、それだけのことで?」

「私はお父様からその時の話を聞いただけですもの、それ以上の詳しくは知らないわ。でもね、お父様が彼なら大丈夫だと納得するだけの誠意と熱意をもって、彼はあなたとの婚約にこぎつけたのよ」

「知らなかった」

「それはそうでしょうね、そういった自分の熱意を得意げに語る人柄じゃなさそうだもの」

 確かに淳之介はそういう人だ。いつだって自分の気持ちよりも相手を優先させることのできる人格者だ。だからこの時、その美しい心根がいずれ獣となって失われることが悲しいと、少しだけ思ってしまった。


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