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長い話を聞く間に、私は無意識のうちに呼吸を詰めてしまっていたらしい。彼が言葉を切ったそのすきに大きく呼吸を吐き出せば、その反動で肺に戻る空気が、清水の香りをたっぷりと含んで爽やかだった。
そんな私のしぐさを見ていた淳之介は「ふふっ」と小さな笑いをこぼす。
「怖かったのかい?」
私の呼吸を確かめるように口づけをひとつ。
それですっかり息を吹き返した私は、この物語の結末をねだる。
「平兵衛さんは、いったいどうなったんです?」
淳之介はひどく悲しい顔をして、池の水面に視線を向けた。
「もちろん獣になって、咎人たちを食い殺して歩いたんだよ」
再び私を振り向いた時には、彼の瞳は池の水の色をうつしたように澄み切っていて、私の腹の底までを見透かそうとしているようだった。
「僕はこの話を遠い昔、父から聞いた」
彼が義父のことを『父』と呼んだのは、これが初めてである。しかし私は、彼があの獣を指して『父』と呼んでいるわけではないことを肌に感じていた。
彼のまなざしは遠く――きっと義父が人間の姿をしていたころの思い出をなぞっているのだろう、ひどく遠くを眺めている。声はのどぼとけの周りを転がすような甘ったれた低音で。
「父はこの時、僕に聞いた。『獣となった平兵衛が真っ先に食い殺した相手は誰だと思う?』とね。同じ質問を今、君にしよう」
「待ってください、それはなぞなぞですか?」
「いいや、実のところ、この質問に答えはないんだよ。ただ、君が思う一番罪深いと思う者を答えればいい」
「ならば、島を襲った海賊たちです」
「本当にそう思うかい?」
彼は私の両手を取って、自分の大きな手のひらの中に包み込んだ。きっと、私を落ち着けようとしていたのだろう。
「海賊たちはどこぞの網元に頼まれて島を襲った。ならば、網元がいなければ、こんな悲劇は起きなかったんじゃないのかい?」
「だって、網元は海の向こうに居るんでしょう」
「獣が本気になれば、人間なんかよりもずっと早く海を泳げるさ」
「ならば、網元さん?」
「いいや、その網元は平兵衛を恨んでいたからこそ海賊に依頼を出した。平兵衛が網元のところから網子を連れて行ったりしなければ、網元もそんな恨みなぞ持たなかっただろう」
「待ってください、この質問はおかしい」
「ほう、どこが?」
「この後、私が『ならば平兵衛が悪い』と答えると、あなたはきっとこう言うでしょう、『平兵衛がそんなことをした理由は網子に無体な仕打ちをする網元に反抗したからであって、その網元が善い人であれば平兵衛はしがない漁師として一生を終えただろう』と」
「すごいな、君はやっぱり賢い。小さい頃の僕はその簡単な理屈がわからなくって、ここで父と半日も問答したものだよ」
彼は私の指先に唇を押し付け、そのまま言葉を紡いだ。
「罪の根幹など辿っていけばどこまでもさかのぼることができる。結果だけを見て罪人を探しては、きりがないのだよ」
「それに、誰も罪を犯しているなどと自覚すら……いいえ、罪なき行為の積み重ねが罪につながっているとしたら、はたしてそれを罪だと断じていいのかどうか……」
「ああ、ああ、君は本当に賢い。そして、純粋だ」
ついにこらえきれなくなったか、彼の両手が私の両肩を抱いた。私は、そのまま葦の原の間に押し倒されて驚く。
「淳之介様、さすがにここではちょっと……」
「どうして?」
「ここは神聖な場所なのでしょう?」
「ここを神聖な場所だと決めたのは『人間』だ。いずれ獣になる僕にとっては、ここは単なる池の傍に過ぎない」
「淳之介様は、まだ人間でしょう?」
「さあ、どうかな?」
屈託なく笑って、彼は私の唇を奪った。が、そこまでだった。
「君に嫌われたくはないからね、いたずらはこのくらいにしておこう」
私を抱き起してくれる彼の身体からは、かすかに獣の匂いがした。
「帰ろう、久子。帰って柔らかい布団の上で、大事に抱いてやりたい」
そういいながらも名残惜しそうに、彼の視線は今一度、池の水面をなめるように眺めた。
「ねえ、久子、人間と獣、罪深いのはどちらだろうね……」
私の名を呼びながらも、彼の声は遠く聞こえる。
それを少しだけ悲しく思いながら、私たちはもと来た林道へと足を向けたのだった。




