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こうした時、人は無口になるものだ。私は淳之介の背中だけを見て、草に足元を取られて転ばぬようにゆっくりと歩いていた。
淳之介は先日出したばかりの白い夏物のシャツを着ていて、その背中が汗で幾分肌を透かして肌に張り付いているのが艶っぽい。その背中が彼の歩調に合わせてゆらり、ゆらりと軽快に揺れるたびごとに、私は島民たちの彼に対する非礼の数々を思い出していた。
つい昨日も、淳之介は夫が漁から帰るのを港で待つご婦人に声をかけた。彼女はいかにも陽気な声音でここしばらくの好漁のことなどを話題にしていたが、淳之介が立ち去ろうとするその背後で、いかにも不吉なものを払うようにこっそり九字を切っていたんじゃなかったかしら――。
そんなことをぼうっと考えていたものだから、目の前を歩く淳之介が立ち止まったことにも気づかずに、私は彼の背中に鼻先が埋まるほどぶつかってしまった。
「あ、ご、ごめんなさい」
慌てて見上げると、振り向いた彼の顔は驚きに目を見開いていた。しかしそれも一瞬のこと、すぐに飛び切り面白いことを見つけた時の少年のような屈託ない笑顔になって、私の身体を軽々と抱き上げる。
「なんだ、勘違いしちゃったよ」
「勘違い?」
「君の方から誘われたのかと思って、ドキッとした」
「誘う?」
「ふ、やっぱりね、君はそういう、何も知らない純粋なところがいい」
まっすぐにこちらを見つめる瞳がまぶしくて、恥ずかしくて……逃げるように視線をそらすと、彼の肩越しに美しい池が木漏れ日を砕いてきらめいているのが見えた。
「まあ!」
「すごいだろう。この島の水源だ」
山の中腹にあるのだから、池はさほど大きくない。ただ、池の中心からはこんこんと水が沸き上がり、小さく水面を押し上げている。
美しい水だ。そこ砂の数が数えられるほどに澄み切った、清流。
葦の間におろしてもらって、池の水に手を入れれば、つーんと冷たい水の感触に目が覚める。
淳之介は私の一挙手一投足すべてを、少し泣きそうな笑顔で眺めていた。
「久子」
冷たい湖水の底まで沈んでしまいそうな、湿り気を含んだ悲しい声。
「久子、ごめんな」
彼は大きな手のひらで私の頭を撫でた。
何度も何度も撫でた。
「島の者たちが僕のことをどんな目で見ているか、薄々気づいているんだろう?」
「はい、薄々とは。でも、どうしてそれを淳之介様が謝るんです?」
「僕の妻になったのだから、島の者は、君のことを僕と同じ目で見るだろう。それが辛くないかと、心配なんだよ」
確かに淳之介と連れ立って歩くとき、見えぬところから白い眼を向けられている気配に吃驚して足が止まることさえある。あれは島を守る神格に対する目線などではない。
「いったいどういう理由で、島の方たちは淳之介様をあんなに憎んでいるんでしょう」
「憎んでいるんじゃない、あれは恐れだよ」
「恐れ……ですか?」
「この世に間違いを犯さぬ人間などいない。だから何かのはずみで罪人として獣さばきの場に送られるやもしれぬと思えば、それを裁く獣の家を恐れるのは当たり前のことだと思わないかい?」
「正しく生きれば、罰を恐れる必要などないではないですか。それともこの島の方たちは、みんな犯罪を常に考えているような盗人ばかりなのですか?」
「言っただろう、久子……『間違いを』犯さぬ人間はいないと。自分では何気ないしぐさのつもりでも、他人の神経を逆なでしてしまうことはいくらでもあるんだよ」
「ならば、些細な間違いを、さも大事のように訴え出た者をいさめればよいだけの話ではありませんか」
「そういう簡単なことではないのだよ、久子」
池の水面をなぞって吹く風が、そよと私の頬を打った。
「そういう簡単なものではないのだよ、人間というものは……」
淳之介が私を池の傍から引き揚げ、木陰に座らせる。
「少し昔話をしてあげよう。白鬼家にかけられた呪いにまつわる、古い古い話だ。今日はそのためにここへ来たんだからね」
そう言いおいて、淳之介は話し出した。
古い、古い、この島に人が住み始めたころの話を……
◇
ずいぶんと昔のこと、この島に最初にやってきたのは内房の浜から来た漁師たちだったという。これらは網元のひどい扱いに耐えかねて、家族を連れて逃げ出した逃亡者たちであった。この一団を率いていた平兵衛という男が、のちの白鬼家の始祖となる男である。
内房の浜を逃げ歩くうちに彼に賛同し、ついてくる者は増え、この島に上陸するころには40人を越えようかという大集団となっていた。
幸いにここは無人島であり、ここを拓くことができれば暮らしていくに問題はない。しかし、ここを住処とできなければさらに海上を漂い、海賊を生業とするくらいしか生きてゆくすべはないだろう。心根の正しい平兵衛はこれを良しとはしなかった。
こうした島に人が暮らすとき、何よりも大事とされるのは水源の確保である。平兵衛は仲間たちと手分けして島中を探索し、水源を求めた。山には木が茂っているのだから不毛な塩地ではなく、土には水がたっぷりと含まれているはずである。それを頼りに山の中をくまなく巡った平兵衛たちは、この山の中に一湧の泉を見つけた。それをたどって島中の水脈を確保して、ここは人が住める島になったのである。
その水脈の源である泉のそばには平兵衛の家が建てられた。他の者たちは漁に便の良い鼻ヶ﨑のあたりに居を構え、この島に人の住むところとしての一通りの目鼻がついたころ、鼻ヶ崎の沖に海賊の船団が現れたのだ。
島民たちは銛を持ち、石を投げてこれと戦った。が、普段から戦いを生業としている相手に敵うはずがない。島民たちはじりじりと、山の上の平兵衛の家にまで追い詰められた。
女もいる、子供もいる、そしてみんなが怯えて震えている。みっしりと身を寄せ合っている人の間から、赤ん坊の泣き声だけが響く。
海賊はもちろん、そこへやってきた。さすまたやら、手斧やらの殺すための道具を手にして。
平兵衛は島民たちを守るべく、一歩を進んで海賊たちの前に立った。
「家屋を打ち壊し、食料を奪い、十分に略奪は済んだはずだ、これ以上何を奪う!」
平兵衛の声は大きく、さすがの海賊たちも足を止めてこれに答えた。
「こんなシケた島から、いくばくかの干し魚なんか奪っても、腹の足しにもならねえよ。別に俺たちは略奪をしに来たわけじゃない」
「では、なぜだ! なぜ無意味に私たちの生活を脅かす!」
「とあるところから金子をいただいちまったからだよ、まあ、仕事だ、仕事」
「金子を? 誰から?」
「そういうことは言わない、それも含めての金子だろ。でもまあ、どこかの網元さまだってことだけは教えてやるよ」
「なるほど……」
この島にいる漁師の誰かの、元の網元だと思えば納得はいく。
きちんとした雇用の観念がなかったこの時代、自分の手元にいる網子など食わせてさえおけばどのようにもこき使っていいと、家畜のように扱う網元もいた。そうした非道な人間であればこそ、自分の『所有物』を奪った平兵衛など、罰するべき盗人にも見えることだろう。
「ならば、私の首一つで事を済ませてはもらえないだろうか。略奪の必要がないならば、無益な殺生などしなくても良かろう」
平兵衛の誠意ある言葉を、しかし、海賊たちは笑った。
「お前の首はもちろんもらう、だが、それだけで済むわけがないだろう」
「皆殺しにする気か……」
「俺らの雇い主だってそれほど非道じゃあねえよ。これから秋の漁で忙しい時期だ、それを手伝ってくれるってやつは許してやれとさ」
「つまり、自分のところの網子になれということか……」
海賊は得意げに声を張り上げる。
「さあさあ、誰か、誰かいないか!」
それでも島民の中に動こうとする者がいなかったのは、誰もが大なり小なり平兵衛に恩義を感じているからである。平兵衛とはそれほどに人格者であり、面倒見のいい男だったのだ。
だからこそ逃亡の途中でこれを助け、あるいは付き従い、島においては長として収まることになったのだと、容易に想像がつく。だから、海賊たちも驚く風でもなく、わずかに不快な笑い声をあげただけであった。
「まあいい、だったら先にあんたと、あんたの家族の首をいただくとしよう」
「家族だと、そんなものは俺にはいない」
これは平兵衛の精一杯のウソだった。彼には妻があり、妻との間に生まれた子が三人いる。一番年下の子は先月生まれたばかりであることを、村の誰もが知っていた。
それでも誰も、平兵衛のこのウソを暴こうとはしない。いざというときの用心にと、平兵衛の子を自分の子供たちの中にそっと引き寄せる母親もいて、このままならば彼のウソは永遠に明かされぬままで済むはずだった。
その間にも海賊たちは平兵衛の身体をとらえ、地面に引き倒す。
「家族がいないとは残念だ。ならば代わりにお前の目の前で、大事なお仲間の身体を裂いてやろう」
「まて! 何のためにそんなことを!」
「今後、誰も自分に逆らうことの無いようにと、俺らの雇い主が考えた制裁だ」
「非道すぎる! 恐怖で人を押さえつけようとしても、うまくいくわけがないだろう!」
「あんた、自分が正しい人助けをしているつもりになっているのかもしれないがな……」
海賊が「は!」と鼻先で笑い捨てた。
「漁の忙しい時期に大事な働き手を奪われた網元が、どのぐらい損をしたのか考えたことがあるかい? あちらさんからすればあんたの方こそ悪党も悪党、大悪党、本当はお奉行に訴え出てもいいぐらいの気持ちなんだろうよ」
にわかに辺りがざわつき始めたのは、島民たちの信念が揺らぎ始めたからだろう。確かに自分たちは水の一杯で空腹をごまかすような生活から逃げてここへたどり着いた、そうしなければ明日にでも死ぬかもしれないという窮状からの逃亡ではあった。
しかし、網元からしてみればそれはただの離反であり、自分たちは単なる逃亡者だ。間違いなく罪人として、お白洲へ上がらされてもおかしくはないのである。
そのとき、さざめくような声を割って、生木を裂くような音がした。皆の目が、その音の方へと注がれた。
「ハツっ!」
悲痛な平兵衛の叫びの先に、人相も分からぬほど頭を割られて倒れる幼子の体があった。血に汚れてどす黒く染まってゆく着物の柄に、平兵衛は確かに見覚えがあった。
「ハツ、ハツよぉ!」
それは平兵衛の長女であるハツの身体だった……。
倒れ切ったハツの後ろには九助という男が立っていたのだが、これの手には今しがた鮮血を吸ったばかりの草刈り釜が握られており、彼が何をしたのかは明らかだった。
九助は叫ぶ。
「ウソはいけねえよ、平兵衛さんよぉ! そこにいるおミヨとおミヨが抱いている赤ん坊と、あそこにいる坊と、あれはあんたの家族じゃないかよ!」
海賊たちが両手を叩いて、この男の剛毅をほめたたえた。
「よくやった!」
「へへ、へへ、どうかあっしの命だけは、これで」
こうなれば敗者である島民の結束など強風にあおられた砂塵のように軽い。お互いに罵り合う声があちこちで巻き上がり、平兵衛の幼い息子は数人の男たちによってとらえられ、高く抱えあげられてしまった。どこかの女房がせめて赤子を、とおミヨに向かって手を伸ばすが、その旦那がその手を跳ね上げて叱る。
「お前は、他人のために自分の家族を危険な目にあわせるつもりか!」
阿鼻叫喚――もはや誰もが自分のことしか考えられぬ、エゴイスティックな喚き声と逃げ惑う足音ばかりが響く中、ゆらりと立ち上がった平兵衛は、すでに人の姿をしていなかった……




