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華奢とはいえ淳之介は男だ。押し返した胸板は固く、私を押さえつける力は強くて、びくともするものではなかった。
「子を成すためなんかじゃない。僕はただ、あさましいほどに君のすべてが欲しい」
熱い吐息がまた一つ、「ふはあ」と音を立てて耳元をくすぐる。
彼の呼吸をうつされてしまったかのように、私の呼吸もわずかに弾む。
「淳之介様、ここでですか?」
「ああ、すまない、寝所までなど待てやしない。今すぐに君を抱きたい」
腰を擦りつけて、彼は私の体に許しを乞うた。
「いけません、こんなところでは」
言葉では強く拒絶したものの、すでに私の身体はうずき始めている。脈動を含んだ熱気がじんわりと下腹部にしみ込み、それは汲めども尽きぬ蜜の流れとなって狂おしいほどに彼を欲しているのだ。
「久子、もう少し脚を開いておくれ」
彼の言葉に従ってしまう私をあざ笑うかのように、神殿の扉越しに獣がのどを鳴らす声が聞こえた。
抗いがたい指先の動きを与えられて、私は眉を顰める。
(ああ、獣が笑っている)
本能のまま快楽をむさぼろうとする行為のどこが人間的なのかと、それは全くの獣の所業なのではないかと、こちらをあざ笑っている。
「それでもいい、淳之介様、私をたっぷりと愛して……」
彼の首に両腕を回して蜜戯をねだる私は、獣の目から見ても滑稽なほどにあさましいことだろう。そうと知ってはいても……私は与えられる彼のぬくもりを拒むことなどできずに、そっと膝の間を開いたのだった。
その獣さばきからしばらくの間、私は人間の罪というものについて考えていた。いったい、本当に罪があったのは誰だろう。
あの裁きのすぐ後で、淳之介は私に言った。
「あの男を許すと判じたのは獣だ。だけど、あの境内で村人に語った言葉は僕の一見解に過ぎないのだよ」
「いいえ、とてもよくわかる、理屈の通った言葉でした。一個人の見解などではなく、誰もが罪を作り出した罪というものに納得するはずです」
「君は、若いな」
そういいながら私を見る彼は、暗いところから白昼のもとにいきなり連れ出されでもしたように、優しく目を細めていた。
「獣が裁くのは罪そのものだ。言葉などではない、原初のままの人間の心根そのものだ。だけど、僕たち人間は言葉を知ってしまっているから、罪に理由を求めたがる。だから獣の代弁人となる言葉を持った人間が必要になるんだよ」
「難しいですね」
「だいじょうぶ、ゆっくりと教えてあげるよ。僕が言葉無き獣になった後、君が代弁人になるんだからね」
「できるでしょうか、私に……」
「できなくては困るんだよ。何しろ神殿に入ることが許されるのは獣と、それに連なる血筋の者、そして獣の嫁だけだ。神殿という小暗い密室で行われた裁きの一部始終を伝え、罪を解説するものがいなければ、どんな騒動も収束しないだろう」
そんなわけで、私は淳之介の手ほどきを受けながら、分厚い法律書など読み進めているところなのである。淳之介は若いころに東京の大学で法律の勉強をしていたということで、その時に蒐集した法律関係の書物が書斎に山ほどもおかれており、読むものに困ることはなかった。
しかし難しく無機質な言葉で書かれた書物にある言葉は、どれもが私の考える『罪』というものとは食い違っているような気がして、するりと飲み込むことができずにいた。
淳之介との結婚生活はすでに一月を越えようという頃のことであった。
一月も一緒にいればお互いの好みや思想なども分かってくるもので、私はこの夫が甘党であることを知った。
酒を飲まないわけではないが、晩酌よりも茶菓子を好む。実家にそのむね手紙を書いてとらやの羊羹など送ってもらった時には、大変に感動してこれを押し頂くようにして食べた。
固い法律の本のほかには詩などを好んで読む。
白鬼家当主としての主な仕事は獣さばきだが、それもそうそうあることではないらしく、あの日以来は誰も裁きを求めてはこない。そんな日は見回りと称して島のあちこちを歩き回る。
私は一日も早く島での生活に慣れようと、これには積極的についてゆくようにしていた。もっとも、小さい島であるのだから地理のほとんどは二日もあれば覚えてしまったが。
神社前の浜から東に向かって海沿いに十数分ほど歩けば、この島唯一の港に出る。ここは白鬼島の中でも特に海に向かって張り出した地形から、『鼻ヶ﨑』と呼ばれていた。
港の外れには小さいながらも灯台があって、ここが島で一番栄えている場所でもある。港から上がってすぐの大通りに面して島唯一の雑貨屋と、小さな飲み屋が並んでおり、島の人たちはここを『繁華街』と呼んでいた。
朝も早ければ桟橋の上にはもやいを解く漁師たちが走り回り、昼も近くなれば雑貨屋の店先で――ここは駄菓子屋も兼ねているので、ラムネなどでのどを潤すものもみられる。そして夜ともなれば、小さな飲み屋の縄のれん越しに酔客が雑談する大きな声が聞こえたりと、確かに四六時中人が集まるところではあるのだから、『繁華街』には違いない。
その誰もが淳之介の顔を見知っていたのだから、見回りに行けば必ず誰からも挨拶された。時にはもやいを解いている最中の漁師であったり、時には水揚げした魚をさばきに港に集まった奥様連中であったり、相手が誰であろうと淳之介はいつもにこやかで、物腰柔らかく頭を下げて「やあ」と返していた。
初めのうちは恥ずかしかったのだが、私も三日もするとこの挨拶に慣れて、淳之介の声に合わせて軽く会釈をするという作法を覚えた。
そうした挨拶回りにも慣れたころ、私は自分の夫である淳之介が島の人々から『親しまれている』わけではないということに気付いてしまった。
確かに誰もが淳之介に対して丁寧に腰を折ってあいさつする。その表情には笑顔を浮かべ、言葉遣いも丁寧ではあるが……それはあくまでも礼儀としての挨拶であり、心の底ではいずれ獣に堕ちる相手を恐れておびえきっていたのだろう。
軽く挨拶を交わして漁師とすれ違った後で、私はこっそりと振り向いてみたことがある。先ほど親し気な笑顔を浮かべていたはずの漁師は渋いものでもかみつぶしてしまったような顔をして、路上に強く唾を吐いている最中だった。雑貨屋の女主人でさえ、硬貨を受け取るときは世間話まで添えて陽気であったのに、淳之介が飲み終わったラムネの瓶を片付けるときには、まるで汚いものでもつまみあげるような手つきであることを、私は知っている。
そんな島民たちの態度がただの私の思い違いなのか、そして淳之介はそんな島民たちのうわべの愛想に騙されているのではないかと、私はこのころ、よく悩んだものだ。
しかし、これを淳之介本人に聞くことはためらわれた。
そんなある日のことである。淳之介はいつもの港に向かう道ではなく、神社の境内のさらに裏手にある山道へと私を誘った。
「今日は、この島の宝を見せてあげよう」
そう言って淳之介は林道をふさぐしめ縄を軽々と跨いだのだけれど、私は神域へ立ち入る恐れ多さにおののいて足を止める。
「あの、私なんかがそちらへ行って、本当にいいんでしょうか」
「いいも悪いも、この島での神は獣だ。そして君は獣の妻なんだから、この島のどこにも君が入ってはいけない場所なんてあるもんか」
彼がそう言って笑いながら手を差し出してくれるから、私はその手に取りすがってしめ縄を越えた。林道の中は静かで、虫の声が私たちの歩みに合わせて鳴いたりやんだりを繰り返すほかには、音らしい音など何もなかった。




