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獣行の果てに  作者: アザとー
プロローグ
1/29

獣嫁

 その年、私は高等女学校を卒業したばかりの、世間も知らぬような小娘であった。

 この歳で一回り以上も歳の違う男の下へ嫁ぐことに少しばかり抵抗はあったが、これは私が十になるかならないかのころから親の決めていたこと、いまさらどうにか覆せるようなものでもない。そもそもが父は自分の経営する工場の経営のために多額の援助をこの家から受けており、ここに嫁ぐのが大人の道理だと言われれば逆らう言葉もないほどに子供であった。

 今ならば少しくらいは親に対する反駁の言葉もあるが、あのころの私にはそんなものさえなく、ただひとりで船に揺られてこの白鬼島へとたどり着いた。結納も、祝言さえもない結婚ではあったが、世間を知らぬ小娘はこれが『島のしきたり』なのだと言いくるめられて素直に信じたのだから、片腹痛い。

 思えばこの結婚は最初から呪われていた。年端もいかぬ十数歳の子供に目をつけ、これの将来を買い取るなどという非人道こそが、そもそも真っ当ではないではないか。

 このことを思い知らされたのは白鬼島へ向かう船中でのことだった。

 白鬼島は周囲五キロ程度の小さな島で、千葉の先端から小船に揺られて行く以外に交通の手段などない。もちろん定期船なんて出ているわけがないのだから、近くの港で船頭を頼んだ。

 普段は漁師をしているというこの男は、ポンポン船のへさきから値踏みするような目つきで私を見下ろしてうなった。

「あんたみたいな若い娘が、何しにあの島に?」

 箱入り娘として育てられた私は、この漁師が上半身を脱いでいることさえ全裸を見せ付けられてでも入るかのように恥ずかしくて、思わず目をそらしてしまった。

 だから、そんな私の振る舞いこそが不審なものだと漁師は感じたのだろう。声音がさらに荒くなる。

「なあ、何をしに行くつもりだよ!」

 すでに何件かの漁師をたずねたが、行き先が白鬼島だと聞かせたとたんににべもなく断られるようなことを繰り返している。ここでこの男にまで断られたら、また島へ渡る船を捜して浜を歩き回らなくてはならない。初夏とはいえ、さえぎるもののない浜に照る太陽は暑く、私はすでに歩く気力もないほど疲れきっていた。

 だから恥ずかしさをこらえ、失礼のないように男をまっすぐに見つめ返して答える。

「嫁入りです」

 声は小さく、おびえたように震えてはしまったが、十分に男の耳に届いたようだ。彼の目は私が肘にさげた大きな旅行カバン、その一点のみに注がれた。

「それにしちゃあ寂しいじゃないか、荷物はそのカバンきり? 嫁入り道具とか、付き添いもなしかい?」

「それは、あとから送り届けてもらえるように両親が手配してくれているはずです。ただ、私の身一つでいいから一刻も早く来るようにというのがあちらのご意向で……」

 漁師は額に手をあてて、首を横に振りながらため息を吐いた。そのいやみったらしい動作の間に、「世間を知らないってのは怖いねえ」とつぶやいたのを私は聞き逃さなかった。

 彼はひとしきりため息をついた後で、口の端に薄笑いを浮かべて私をさらに見下ろした。

「悪いことは言わない、どうせ家出するんなら、あの島はやめておきな」

 ここで初めて自分が家出娘と間違われていたことに気づいて、私は恥ずかしさのあまり下を向いてしまった。これは漁師の男からすればいかにも家出してきた娘らしく見えたことだろう。

「何があったかは知らないが、あんたはまだ若いんだし、そりゃあ一時の怒りに任せて親元を飛び出すなんて無茶もするだろうさ、そのこと自体は責めないけどな、ただ一時の怒りだけであの島に渡ったら、絶対に後悔するぞ」

「あの、それはどうして?」

「あの島に渡ったやつはな、帰ってこないんだ。おっと、脅しや怪談の類をしようっていうんじゃないぞ、確かに俺たちみたいな浜の者だったりすればな、行商のついでにあの島にも行くし、ちゃんと帰ってもくるさ。でもあんたみたいに他所から来たやつは……島に食われるんだとよ」

「島に?」

「ああ、確かに島に渡ったはずの人間が帰ってこない、探しに行ってもそんな人間は島のどこにもいやしない、そんなことが何度もあってな、このへんの漁師で心あるものなら、あの島にヨソモノを連れて行ってやろうなんて考えるわけがないさ。あんたみたいな、自分が何をしてるのかも分からないような家出娘相手ならなおさらだ」

「家出じゃないです」

「本当に嫁入りだってか? そんな荷物ひとつで、たった一人で?」

「はい」

「だったら、その嫁ぎ先はなんで迎えを寄越さないの。このあたりであの島にヨソモノを連れて行くやつなんかいないってことは知っているだろうに」

「それは……」

 このとき、漁師から嘲笑含みの視線を受けて小さくなった私を助けてくれたのは後々まで世話になることとなる幸助で、私はこのときのことを、今でも昨日のことであるかのように覚えている。

 幸助は嫁ぎ先である白鬼家に住み込んで雑務を言い付かっては駄賃などもらう暮らしをしていたが、彼がひどい吃音もちであるうえに少しばかり足りない人間であることを考えれば、その仕事を与えられているのも厚情的な理由からだったのであろう。

 その彼が浜辺を転がるように港岸を走ってきて、私の前に立った。おそらくは私と漁師のやり取りが聞こえていたのであろう、吃音を補うかのように大きく身振り手振りしながら怒鳴る。

「む、迎え、きた!」

 漁師はそんな幸助さえも嘲笑を浮かべたままで見下ろし、バカにしきったように鼻を鳴らした。

「まさか、あんたがダンナかい?」

 幸助は四十に手が届こうかというさえない風体の男である。おまけに来ているものは身体にやっと巻き付いているようなすりきれたボロ絣一枚のみで、見てくれはひどいものである。

 今の私ならば、この漁師の嘲笑を許さない。船に乗り込んでいってこの男の横面を張ったかもしれない。しかし小娘であった私は、この汚らしい男の本質さえ見抜けずにおびえて震えるばかりであった。

 幸助は困りきったように私をみて、それから漁師をみた。

「だ、ダンナ、違う」

「だよなあ、あんまりにも不釣合いだ」

「ふ、不釣合い?」

「似合わないってことだよ、そのお嬢さんはどうみたっていいところの世間知らずちゃんじゃねえか。あんたみたいなパープーがその子をそそのかしたっていうんなら犯罪だ。ん~、これは駐在に行ったほうがいいかもな」

「ちゅ、駐在は嫌い!」

「そうだろうなあ、あんた、いかにも犯罪者面してるもんなあ」

 ひときわ大きく、いやらしい笑い声を漁師は上げる。その笑い声をさえぎるほど強い声が辺りに響いた。

「私の従者と、そして妻を愚弄するのはそのくらいにしてもらおうか」

 凪いだ海面に大波がたつのではないかというほど凛と響く、張りのある声だった。

 その声の主は隣の桟橋に横付けした手漕ぎの小船に両脚をしっかりと張って仁王立ちしていたのだが、波に軽くゆすられて上へ下へと揺れる足場の上で直立不動であるというのは、あまりにも不自然なことのように思えた。

 それにこの男、海際に住む男としてはあまりにも肌が白い。さんさんと照りつける太陽は暑く、私ですら首の後ろにちくちくとした日焼けの痛みを感じているというのに、波に洗われた貝殻のように白い肌は赤らむことさえなく、ただ白い。

 これが私と、夫となる淳之介との出会いである。

 淳之介は私を見初めたくらいなのだから顔を合わせたことはあるはずなのだが、私の印象には彼と会った記憶などなく、このとき初めて夫となる男の顔をみたのだ。

 歳は三十五だと聞いていたが、肌が白くきめ細かいせいだろうか、もっと若くも見える。細面の顔つきはりりしく整って、鋭い眼光が余計に彼を若く見せているのかもしれない。体つきもほどよく引き締まって、余分な肉などついていないことが服の上からも分かる。

 この美しい男が夫なのだと思うと、一瞬で体の芯にまで火がともるような熱気を感じた。それは私が人生ではじめて感じた『不埒な熱』であった。

 ゆらり、と水底に引きこまれでもしたかのように世界が遠のく。漁船のへさきに立った男も、それに見下ろされておろおろと身体をゆする男も、もはやどうでもいい。身体感覚の全てが、小船の上に立つ男に向けられてしまったみたいだ。

 視覚はもちろん聴覚も、その息遣いまで捕らえようとするかのように研ぎ澄まされていながら、彼の姿しか映さない。一刻も早く夫となる男に触れたいと、白い肌に頬を寄せてそのぬくもりを確かめたいと肌の表面がさざめき、私は思わず己の身をかき抱いてふるえた。

 ところが、漁師の男はそんな私の夢想を破るかの様に無粋な声をさらにあげる。

「そんなところでふんぞり返ってないで、こっちに来いよ、それとも俺が怖いのか?」

 それでも淳之介は涼しげな表情を少しも崩さず、ただ唇の端だけを小さくあげて微笑んだ。

「怖がらせてくれるのか、この私を」

 その不可解な言葉の意味を、この漁師は良く心得ていたのだろう。一瞬だけ息をのみ、ぺろりと舌なめずりをする。

 それは目の前にいる淳之介に勝負を挑もうという不そんな舌なめずりではなく、恐怖に乾きはじめた唇をなんとかして湿らせようという悪あがきのように見えた。

「あんた、まさか……」

「私はこの先に足を踏み出すわけにはいかない。それがお前たち浜の者との約束だからな」

「白鬼島の……本物か!」

 自分の夫が只者でないことは漁師の狼狽振りからもうかがい知ることができたが、そのときの私には彼が何者であるのかよりも、早くその肌に触れたいと、ただそれだけであった。

「あなた……」

 無意識のうちに彼を呼び、手を伸ばす。しかしそれにかえされたのは、むしろ冷たいくらいに厳しい声音だった。

「さっさと乗りたまえ。浜のものは私がここに長くとどまるのを良しとしないだろう」

「は、はい」

 私は桟橋を一気に駆け抜け、ためらうことなく小船へと足をかけた。

 淳之介は私のせいで大きく揺れた小船にすら動じず、そっと手を差し出してくれた。

「本当にいいのか?」

「何がですか?」

「船が島に着いたら、もう戻れない。それでも私と一緒に来てくれるのか?」

 嫁に出された身で、いまさらためらうことなどないような気がした。それに、さっきよりも彼に近く、私が手を差し出せば必ずや彼がその手を取ってくれるだろうという距離感が嬉しい。

「はい、一緒に行きます。そのために私はここに来たのですから」

 淳之介は深く頭を垂れ、なんだか泣き出しそうな風情であった。そして小さな声でひとこと「ありがとう」と言った。

 私が小娘でなければ、このときの彼の一言がどれほど重たいものだったか気づいたであろうか。これからおこる出来事の、ほんの欠片でもいいから不幸を察して、踏み出した足を引っ込めることができたであろうか。

 いいや、無理だろう。彼はそのときすでに私の手を握っており、私は浜の太陽に照らされて火照った身体に伝わる彼の低い体温を心地よいと思いはじめていたのだから。

 誰もみていない……そう、太陽さえ顔をそむけた夜の中であったなら、私はもっと深く彼の体温を感じたいと、その胸の中に飛び込んでしまっていたかもしれない。

 それほどに彼の存在は狂おしい。

「行こう、白鬼島へ」

 彼の声に深く頷いて、私は白鬼島に向かう小船の中に腰を落とす。幸助も小船に飛び乗り、櫓を握った。木で出来た船体のどこがでミシッと板の擦れる音がしたが、潮をたっぷりと吸い込んだ欅材はそんなことではびくともしない。

「お、奥様みたいな美人をのせたから、ふ、船も喜んでる」

 いまでも、これは幸助なりの祝いの言葉だったのだろうと思うことがある。なにしろ彼は自分の吃音をひどく恥じており、進んで自分から言葉を発するような男ではなかった。

 淳之介はこれの雇い主であるのだから、幸助の無口を良く知っていたのだろう。驚いたように両目を見張って手を振る。

「だめだぞ、幸助、これは私の妻だ!」

 幸助は――このときはすでに櫓を繰って、沖へと向かっていたのだが、淳之介よりもさらに大きく目を見張って、こぎ手を止めてしまった。

「き、きれい、言うの、だめ?」

「ああ、大きな声を上げてすまなかった。そうだな、お前が女性によこしまな気持ちなどもつはずがないことは、私がいちばん良く知っているのに、すまなかった」

「よ、よこしま?」

「気にするな。お前には、こういう汚い気持ちを覚えて欲しくない」

「よ、よこしま、バチあたる?」

 このときの幸助のおびえかたは異様であった。

 幸助は大男で、淳之介より頭ひとつ以上背が高い。肉付きもよくて、櫓を握る腕は丸太のようだ。その気になれば文士風のひょろりと細い淳之介の首の根を押さえつけることさえ容易いだろう。

 だというのに彼は櫓杵を胸元まで引き寄せてブルブルと震えている。顔面は蒼白で、さばきの雷をくれる神の類の御前に引きずり出されでもしたように両ひざをつき、淳之介を見上げて涙を浮かべているのだ。

「お、おれ、食われる?」

「落ち着け、幸助、お前は食べられない。俺はお前を食べたりしない」

 彼を必死で宥める淳之介は、決して声など荒げていない。むしろ柔らかく指を伸ばした手を差し出して、幸助のゴマシオ頭を優しく撫でようとしたのだ。

 しかし幸助は「ひっ」と短く息をのんで首をすくめ、ついに泣き出してしまった。

「よ、よこしま、しらない」

「うん、そうだな」

「お、奥様、花みたい、だから、きれい、言った」

「そうか、花を美しいと思うのは当然の心の動きだ。お前は間違ってなどいないよ」

「け、獣、来るか?」

「ここには来ない、だから落ち着け」

「ほ、本当か、こ、来ないか?」

「ああ、来ない」

 私は幸助がこれほど恐れている『獣』だの、『食われる』だのといった物騒な言葉の意味を知りたくて、お尻が浮き上がりそうな気分になっていた。

 幸助は明らかに学の無さそうなおとこだ。なにか妄想の中で恐ろしいものを作り出し、それを『獣』と名づけたのだと思えなくもない。だけどそれにしては、彼を宥めようとする淳之介の態度があまりにも迫真である。

 たまらない気持ちになって、私はついに声をあげた。

「あの……」

 しかし、激しい後悔に質問の言葉を飲み込む。

 淳之介は、先ほど港で感謝の言葉を口にした男とは別人なのではないかというほどに冷たい表情をしていた。切れ長の目じりに黒目を寄せて、こちらをぎろりと睨み付ける。

「なんだ?」

 その視線に臆した私はうつむいてしまい、小さな声で取り繕うのが精一杯であった。

「あの、船を進めませんか。ここはあまりにも熱い」

 日差しはまぶしく海面に照りつけ、波間にちらちらとはかなく散るようにきらめく。その照り返しもなた小さく散るように反射して、私の手足やら顔やら、むき出しになった肌であれば遠慮なく刺すように照り付けるのだ。

 だからこそ「熱い」という私の言葉を淳之介は疑いもしなかったのだろう、再び優しげな笑顔に戻ってポケットからハンケチを取り出す。

「これでもかぶっていなさい、少しはましだろう」

 このとき、ハンケチとともに手渡された彼の体臭を、私は好ましいと思った。これまで男の体臭などかいだこともないのにそれを不快とも思わず、むしろ初めての欲情を覚えてハンカチではなく彼の手を握ったのは、わたしが生来ふしだらな女だからなのかもしれない。

 たっぷりと潮に晒されて薫蒸された汗の香気は私の鼻腔に流れ込むと、熱いほどに猛り狂う血潮となって五体をめぐった。股の間に落ち着かぬものを感じて、私は思わず太ももをすり合わせる。

「あの……」

「ああ」

 短い相槌のやり取りだけで、彼は全てを察したようだった。足場の悪い船の中だというのに軽がると私を引き寄せ、胸の中に抱きこんでくれたのだ。

「恥ずかしがることはない、夫婦になるんだから、そういう気持ちになってくれなきゃ、こっちが困ってしまう」

 いくら未通女(おぼこ)い小娘とはいえ、初夜のイロハくらいは聞き及んでいる。この言葉がそういった行為をさすのだと悟って、私は顔が熱くなるのを感じた。

 しかし、淳之介の腕の中は心地よくて、脳髄まで溶かされそうなほど濃厚な男の匂いに酔わされては、これを振り払う気になどなれない。ただ恥ずかしさに身を固くして、彼の胸元にそっと鼻先をよせた。

 彼の声がすぐ耳元、固い胸板の中で響く。

「それでいい」

 彼が身体をゆすって、なにかの合図を幸助にした様子だった。船が再びすいっと動き出す。

 波の音と、ゆっくりと櫓をこぐきしんだ音、それと準之助の心臓の音と……その全てが心地よくて、私はそっと目を閉じたのだった。


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