あなたに贈る婚約破棄
ユーリイに初めて出会った時のことを、今もリーディアは鮮明に覚えている。
それはリーディアが六歳の時だった。
同じ年のユーリイは、黒く艶やかな髪、紫水晶のような瞳、白皙の肌という完璧に整った顔立ちをしていて、リーディアは彼のことを天使に違いないと本気で思ったものだ。
彼は無口で感情を出さず、時々口を開いたかと思えば大人と対等に話をするような子供であった。
天使のように美しく、大人のように落ち着き払った彼に、リーディアは一日で恋に落ちた。
ユーリイの父は、国王から伯爵位を授けられた由緒ある貴族であり、ユーリイはいずれその爵位を相続するロフリン家の嫡男である。
対してリーディアの父は、祖父が始めた海運業を拡大成長させ財を築いた王国屈指の富豪であり、リーディアはそのドレイシー家の長女である。父の跡は、年の離れた兄が継ぐことになるだろう。
引き合わされた二人は、半年後には婚約者となった。
ロフリン家にとってはドレイシー家の資産を、ドレイシー家にとってはロフリン家の地位と名誉を目的とした、お互いにとって利益のある婚約であり、二人が王立学院を卒業する十八歳になって結婚することを両家は待ち望んでいた。
恋しい人の婚約者となってリーディアは、天にも昇る心地だった。
七歳で王立学院に入学してからは、リーディアは当然のようにユーリイの後をついてまわった。大好きなユーリイから、片時も離れたくなかった。
その頃のリーディアは、両親や兄から存分に甘やかされ、彼らがしばしばそう言ってくれたように、自分のことを「素敵なお姫様」だと信じて疑わなかった。皆が褒めてくれた薄い金色の柔らかい髪や、明るい空色の瞳は、リーディアにとって大の自慢だった。
きっとユーリイだって、自分のことを大好きに違いない。リーディアはそう信じきっていた。
ところが学院に入って両親や兄から離れてみると、誰もリーディアをお姫様扱いしてくれない。
初めは気がつかなかったが、学院の生徒たちはその集団をはっきりと二分していた。すなわち爵位を持つ貴族の出身と、そうではない資産家の出身。ユーリイとリーディアは属するべき集団が違っていたのだ。
それをまだ理解していない頃、庭園の木陰で並んで座って、いつものようにリーディアはとりとめのないおしゃべりを続けていた。
おしゃべりをしているのはリーディアだけで、ユーリイは黙って本を読んでいる。そもそも口数が多くない彼は、時々思い出したように相づちを打ってくれるだけだった。
そこにユーリイの友人たちが数人やってきた。
「ユーリイ、先生が呼んでいるよ。歴史の授業の参考になる資料を見せてくれるって。行こう」
「……うん」
促されて立ちあがるユーリイに、慌ててリーディアは声を上げた。
「私も行く」
そうするとユーリイの友人たちは、馬鹿にするように鼻で笑ったのだ。
「あなたには必要ないわ。だってこの国の王侯貴族の歴史なのよ」
「きみの家には関係のないことさ。行こう、ユーリイ」
手を引かれたユーリイは、リーディアの方を振り返ったが、友人たちが立ち止まることを許さなかった。
「ほら、先生が待っているわ」
その一言が決定打になり、ユーリイは彼らとともに行こうとする。入学したばかりの七歳の子供にとって、先生という存在は絶対だ。
なのにリーディアは、それがどうしても我慢できなかった。
「行っちゃやだ!」
無理にユーリイを引き戻そうとして、リーディアはユーリイが持っていた本に手を伸ばした。
彼の持っていた本は、地図や写真の載ったページ数の少ない薄いもので、リーディアが乱暴にひっぱった拍子に、簡単に破れてしまった。
「あ……」
音を立てて本が裂けた瞬間、リーディアは蒼白になって手を離す。
ユーリイは無言だった。何が起こったのか一瞬理解できない様子だった。しかし破れた本に視線を落とすと、呆然としたまま小さな声を漏らす。
「大事な本……」
それを聞いた彼の友人たちは、一斉にリーディアを非難した。
「あーあ、ひどい」
「ユーリイ、かわいそう」
「なんて乱暴なことをするんだ」
その圧力に耐えきれなくて、リーディアは謝ることもせずに慌ててその場から走り出してしまった。
背後に聞こえる彼らの声が、鋭利な刃物のように胸に刺さる。目からは涙がこぼれていた。
「謝りもしなかったわよ」
「最っ低」
◇ ◇ ◇
その後、リーディアは母に頼んでロフリン家に連れて行ってもらった。
ユーリイの持っていた本のタイトルは分からなかったので、同じものを用意することができず、代わりに父が隣国に行った際にお土産に買ってきてくれた、クリスタル製の白鳥の文鎮を持っていった。
ごめんなさいと頭を下げると、ユーリイより先に彼の母が許してくれた。どうか気にしないでと優雅にほほえむ彼の母の隣で、ユーリイは白鳥をじっと見ながら黙っていた。
「ユーリイ、あの」
「……いいよ、もう」
彼はほほえんではくれなかったけど、それはいつものことだった。ユーリイが笑うところを、リーディアはほとんど見たことがない。
今までは気にしたこともなかったが、リーディアはその時初めて思ったのだ。ユーリイが笑わないのは、もしかすると自分のせいなのではないのだろうかと。
以来、リーディアは少なくとも学院でユーリイにまとわりつかなくなった。
そして学年が上がるごとに、自分が周囲にどんな風に言われているのかを知ったのだ。曰く、金の力でユーリイを手に入れた。おしゃべり好きで品がない。
十六歳になる頃には、リーディアとユーリイの間には、すっかり距離ができてしまっていた。
美しさに加えて精悍さも増し、ますます素敵になったユーリイを、心の中では変わらずに好きだったけれど、お互いに違う友人に囲まれて、リーディアももう素直にユーリイと話すことができなくなっていた。
そして運命の日がやってくる。
◇ ◇ ◇
リーディアは、その日誕生日を迎えるユーリイを学院内で探していた。
学院ではほとんど口を利かなくなっていたけれど、せめて誕生日のお祝いだけは直接伝えたかったのだ。
夜になればまた両親と一緒にロフリン家を訪れる予定になっていたが、学院でユーリイに話しかけることのできる数少ない機会を、リーディアは逃したくなかった。
リーディアは庭園に向かい、木の陰から少し見えているユーリイの後ろ姿を見つけて、走り寄った。
しかし近づいた瞬間、複数の話し声が聞こえてきたので、慌てて側にあった木の陰に身を隠す。
ユーリイの側には、友人たちが数人座っている。ユーリイは随分厚い本を読んでいるが、友人たちに声を掛けられれば時折顔を上げていた。
彼らは皆おしゃべりに夢中で、リーディアには気がついていなかった。
また後にしようと思ってリーディアが立ち去ろうとした時、聞こえてきた言葉に思わず足を止めた。
「ねえユーリイ、このまま本当に結婚するの?」
「リーディア嬢か。彼女、可愛いよね」
「……男って馬鹿よね。可愛ければ何でもいいの?」
「すごく我侭だって噂もあるわよ。ほら昔、ユーリイを行かせまいとして、本を破ったこともあったし」
その言葉に、リーディアは身を固くした。あの時の呆然としたユーリイの顔が脳裏に浮かぶ。
あの時以外にも、沢山の我侭を言ったと思う。何しろリーディアは、自分のことをお姫様だと信じて疑わなかったのだから。
すると昔に比べて随分と低くしっとりとした声になったユーリイが答えたのだ。
「……確かに、我侭なところもあったよ」
その瞬間、リーディアは目の前が真っ暗になった。
全身の血流が止まったように蒼白になったリーディアは、息をするのも忘れて黙って逃げ出していた。
◇ ◇ ◇
その晩、嫡男の誕生日を祝うロフリン家に向かったリーディアは、主役にも関わらずバルコニーで一人たたずむユーリイにそっと近づいた。
それほど高くもないヒールの音が少しだけ響いたら、ユーリイはゆっくりとこちらを向いた。
「……リーディア。久しぶりだね」
ユーリイはほんの少しだけほほえんでいた。沢山の人に祝福される日は、さすがのユーリイも心が弾むのかもしれない。
相変わらず綺麗なユーリイに、リーディアは胸の中がきゅっと締めつけられるようだった。だってこんなに素敵な人に、我侭な女だと思われている。そう言われても仕方がないという自覚があったから、後悔で尚更に胸が痛んだ。
「お誕生日、おめでとう」
声が震えそうになるのを必死で堪えてそれだけ言うと、ユーリイは小さくうなずいた。
「ありがとう」
長い睫毛にふちどられた瞳は、宝石みたいな光を放っている。リーディアは小さく息を呑んだ。
それからリーディアは意を決して、今日ずっと考えていたことを伝えるために口を開いた。
誕生日のプレゼントは用意してあったけれど、彼にとってこれは、もしかしたらそれ以上の贈り物になるのかもしれない。
「ユーリイ、あのね」
「何?」
「私たち、婚約破棄した方がいいと思う」
「…………」
ユーリイの顔からほほえみが消えた。すっと真顔になって、じっとリーディアを見る。
「どうして?」
「……私とあなたじゃ、釣り合わないから」
「…………」
リーディアは知らないうちに視線を地面に落としていた。重く苦しい気持ちが、喉をゆるゆると締めつけるようだった。
「それが君の気持ち?」
しばらくの沈黙の後そう聞かれたから、リーディアは顔を上げないままこくりとうなずいた。
するとユーリイの抑揚のない静かな声が降ってきた。
「分かった」
その言葉に、リーディアは弾けるように顔を上げた。ユーリイはいつもと同じ無表情で、感情は読み取れない。
「だけど、僕たちだけで勝手には決められない。父と母にも相談するから、返事は少し待っていて」
淡泊で冷静な対応に、リーディアは力なくうなずくことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
それから一週間後、沈んだ気持ちで毎日を過ごすリーディアは、学院でユーリイに声を掛けられていた。ユーリイの方から声を掛けてくるなんて、初めてのことだった。
二人でいつもの木陰に行く。こんな風にここで二人きりになるのは、いったい何年ぶりのことだろう。
「この間の話だけど」
「……はい」
緊張して胸が張り裂けそうだった。自分から申し出ておいて、つらいなんて馬鹿な話だ。
「リーディアはもうご両親には話しているの?」
ユーリイはいつものように落ち着いている。リーディアだけがひとり焦って何度も首を横に振った。
「あなたの返事を聞いてからにしようと思って」
「そう」
それからユーリイは、かすかに眉を寄せた。
もしかして、腹を立てている? でも、何だか苦しそうでもある。リーディアはこれから何を言われるのだろうと身をすくませた。
「僕もまだ両親には話していないんだ」
「え? でも、あの時相談するって――」
「ごめん。やっぱり無理だ」
いつもよりはっきりした口調で告げられる。
リーディアは、彼の言葉が何を意味するのかが分からず、言葉に詰まる。
「僕のこと、どうしても嫌?」
リーディアは大きく目を見開いた。何故そんなことを言うのかが理解できず、彼の言葉を否定するために慌てて答えた。
「私、嫌だなんて一言も言ってない」
「自分には釣り合わないって言った」
リーディアは信じられない思いで首を横に振った。ユーリイの言うことは、まるで逆だ。
「あなたには釣り合わないって言ったの」
するとユーリイは一瞬沈黙して、それから小首をかしげていた。
「……誰が?」
「それはもちろん、私が」
「どうして?」
ユーリイの瞳に、不可解さに狼狽する様子が見てとれて、リーディアは本当は言うつもりのなかったことまで白状することになる。
「私、我侭だから。そうあなたも言っていたじゃない」
「…………」
「ごめんなさい。聞き耳をたてるつもりはなかったけれど、この間ここでお友達と話しているのを聞いてしまったの……」
後ろめたさもあって、最後の方は声が尻すぼみに消えていった。
「それ、最後まで聞いた?」
「最後? ううん途中で……」
するとユーリイは、ふうと小さくため息をついた。
「君は我侭なところもあった。でもそれが可愛かったって言ったんだけど」
「え?」
可愛いという言葉がユーリイの口から出てきたことに驚いて、リーディアは目をしばたたかせる。
「今だって我侭くらい言って欲しいと思ってる、とも言った」
「え?」
「なのに君は、せっかくの誕生日に婚約破棄だなんて言う。こんなショックな誕生日は初めてだった」
「……え?」
ユーリイの言うことがすぐには理解できなくて、リーディアは間の抜けた声を上げるばかりだった。
そんなリーディアを黙って待ちながら、ユーリイはじっとリーディアの瞳を見つめていた。
十分に時間が経ってから、ようやくユーリイの気持ちを理解した瞬間、リーディアは頬が熱くなるのを感じる。自分が早とちりをしてしまったことを自覚して、情けなく眉尻を下げた。
その様子を見たユーリイは、リーディアの心を見透かしたかのように言った。
「誤解、解けた?」
「……はい」
それからリーディアは、上目遣いにそっとユーリイを見ながら、おずおずと口を開いた。
「……昔、私のせいで、大切な本を破ったことがあったから。ユーリイが私のことを嫌だと思っても仕方がないって思ったの」
「ああ……。あの時はわざわざ謝りにきてくれて、僕ももういいよって言ったはずだったけど」
「それは、そうだけど……」
「君はお詫びにって綺麗なクリスタルの白鳥をくれた。今でも大切にしてるよ」
そんな風には見えなかったのに。ますます赤面しながら、リーディアはうつむく。
するとユーリイは、ゆるやかな優しい声でリーディアに尋ねた。
「婚約破棄、したいの?」
「……したく、ない」
「そう、良かった」
ユーリイはそっとリーディアの手を取っていた。
リーディアは驚いて顔を上げる。ユーリイに触られるなんて、小さな時以来だ。
自分の身に起きていることに混乱して、どうしたらいいか分からずに一人でおろおろしてしまう。
「僕たちはもう少し、二人でいる時間を作るべきだった。そうすれば、こんな誤解をしなくて良かった」
気持ちをどうにか落ち着けて、リーディアもうなずく。そう言ってくれたことが、嬉しくて堪らなかった。
「ごめんなさい。私、嫌われたくなくて近づけなかったの。私は貴族でもないし、おしゃべりが過ぎる時があるから」
「僕は君の話を聞くのが好きだよ。天真爛漫な君といるのは楽しい。そうは見えないかもしれないけど」
その言葉に心が躍るような気がしたのに、しかしリーディアはすぐに怖気づいた。
「でも一緒にいると、また嫌なことを言われるかも……」
「ああ……」
ユーリイは納得したような表情をした。
「そうか。僕は気にしていなかったんだけど、君は傷ついていたんだね。そこまで気が回っていなくてごめん」
「ユーリイが謝ることじゃ……」
「リーディアが望むなら、君以外の他の誰とも話さないようにしてもいい」
「えっ。そ、そんなこと駄目よ。あなたはいずれお父様の跡を継ぐのだから、お付き合いも大切な仕事だわ」
慌てたリーディアを、ユーリイは心配そうに見つめた。
「嫌じゃない?」
「嫌……な時もあるけど、大丈夫」
「そう、ありがとう。君の言う通り、僕は仕事だと思って彼らと付き合ってる。基本的に雑談は全部聞いてない」
「え、ええ?」
ユーリイはさらりと結構ひどいことを言ったので、リーディアは目をぱちくりとさせた。
「他人は適当なことを言うから、聞かないことにしてる。そういえば君の友達にも色々言われたよ。金目当てだとか、あんな無表情で面白くない男が相手じゃリーディアがかわいそうだとか」
「そんなひどいことを言う人がいるの!?」
リーディアは驚愕した。そして自分だけが被害者の気分になっていたことを自覚して、恥ずかしくなる。
「うん。でも、他人に何を言われてもどうでも良かった。だから君が傷ついていたことに気づかなかった。本当にごめん」
そんな風に謝らせてしまって、途端にリーディアは情けなさと申し訳ない気持ちとでいっぱいになった。
「謝らないで。私が早とちりしたり、勝手に遠慮したりしただけだから」
「遠慮なら、僕の方もだ。君が友達と楽しそうに話しているのが本当は羨ましかった。だけど入っていけなかった。話すのは得意じゃないし。場を白けさせるだけかなと思ったから」
「でもユーリイ、今日は沢山話しているわ」
思わずリーディアがそう言うと、ユーリイはちょっと驚いた顔をする。
「……本当だね」
そう言ってユーリイは小さくほほえんだ。滅多に見られないその表情に、リーディアの頬が再び上気する。
この何年間かずっと伝えられなかった想いが、胸の奥から溢れ出して、リーディアは言わずにはいられなかった。
リーディアはユーリイの手を、きゅっと握り返した。
「ユーリイ。私、あなたのことがずっと大好きなの」
「うん、知ってた。勘違いだったのかと落胆したけど、そうじゃなくて良かった」
それからユーリイは前かがみになってそっと顔を近づける。
額に柔らかい唇が押しつけられて、リーディアは腰を抜かしそうになる。
よろけたリーディアを支えながら、ユーリイはもう一度天使のようにほほえむ。
その美しさに、リーディアの胸はもう、苦しいくらいのときめきでいっぱいになっていた。
「我侭、言ってもいいよ。でも、僕の前だけ。約束」
(THE END)