孤児院
なぜ自分がここに居るのかだなんて、分からなかった。ただ私はそこに居る。漫然と体を生かすためだけに日々を繋いで、しかし私は本当の意味で『生きる』と言う事を知らない。私はただ、動物の様にやみくもに、生を繋いでいただけだった――。
物心ついたときの最初の記憶は孤児院と呼ばれる所だった。そこには沢山の子どもが集められていて、数人の怖い大人が支配していた。食事も満足に与えられず、理不尽な暴力に怯える日々。何故自分たちが殴られ、殺されかけるのかは分からなかったが、しかしそういう物なのだろうと、あの頃は思っていた。
力の無い私たちは、子どもなりに生きようと懸命だった。少しでも大きな子は小さな子の面倒を見て、生き抜く術を教えていった。しかし、それでもそこは過酷だった。怪我や病気で衰弱し、朝には冷たくなっている子どもの何て多かった事だろう。特に寒い冬は酷かった。毎日の様に裏庭に穴を掘り、可愛がっていた小さな弟や妹たちに土を被せた。
居なくなるのは何も幼い子ども達だけではなかった。
ある一定以上の年齢に達すると、慕っていた兄や姉が居なくなる事に気が付いたのは、いつの事だっただろうか。
ある日突然、笑顔の絶えない大きい姉が居なくなった。また別の時には、わざと悪戯をして大人達から小さな私たちを守ってくれていた兄が居なくなった。しかし子どもが欠け、居なくなる事なんて日常茶飯事。最初は麻痺した頭で特に何も思いもしなかったが、それはある時を境に一変した。
皆から雪姉と慕われていた少し上の姉が居た。雪の様に白い肌と、薄い色の髪。寒い冬を連想させる白なのにも関わらず、雪姉の白だけは皆が大好きだった。いつも優しくて、少しお茶目な雪姉。そして雪姉が大丈夫と言って頭を撫でてくれると、本当に大丈夫な様な気がしてきて不思議だった。そんな雪姉を皆が大好きで――そして彼女もある日突然居なくなった。
私たちは必死に探した。折しも季節は秋。寒さにやられる季節では無いが、冬はもう間近に迫っていた。早く見つけないと大変なことになる。そんな思いに突き動かされながら、しかし雪姉は見つからずに三日が過ぎた。
誰もがいつもの事だと諦めたが、私にはどうしても諦められなかった。大好きな雪姉。どこかで困っているに違いない。私はいつも助けてくれる雪姉を助けたくて、昼も夜も一人探し回った。
そしてそれは本当に偶然だった。孤児院の一角に、石造りの小さな建物があった。そこは悪鬼が棲むと言われていて、陽が落ちてから近づくと鬼に喰われてしまうと言う話が伝えられていた。その小屋を遠くから眺めた時、ちらりと光る鬼火を、私は捉えた。その時、鬼に連れ去られてしまう雪姉が、私の頭の中にパッと浮かんだ。私は自分の事も顧みずに、ただ、がむしゃらに小屋へと急いで駆けて行った。
裏手に回り、小さな箱によじ登る。やっとの思いで窓枠に手を伸ばすと、揺らめくカーテンの隙間から確かに私は『鬼』を見た。
そこには見知った顔の大人たちが居た。孤児院の大人達だった。そしてその真ん中には雪姉が転がされ、虚ろな目を虚空に彷徨わせていた。獣の様に雪姉を蹂躙する大人たちに、雪姉は時折何事か声を上げる。しかしそれは既に意味を成す言葉では無く、その度に大人たちは下卑た笑い声を上げていた。
そこにはもはや、雪姉は居なかった。居るのは、抜け殻となり虚ろになった体だけ。その瞳は何も移さず、笑いかける事も無く、壊れた人形の様に転がされていた。
私は恐怖に震え、動くことも声を出すことも出来なかった。すると戸口からもう一人、見知った女が現れた。恰幅の良い年配の彼女は、金切り声とヒステリーで知られていて、子どもたちからいつも恐れられていた。彼女は何事か男たちに怒鳴りつけると、水の入った桶を片手に小屋へと入ってくる。そして乱暴な仕草で雪姉の体を拭うと、簡素な服を着せ、男たちに押し出した。物の様に放り投げられても、雪姉は為されるがままだった。かわりに男たちが何事か悪態をつく。しかし間髪入れずに女が金切り声をあげ、男たちを追いだしてしまった。そして最後に後始末をつけて小屋を出るときに、女の声が聞こえた。
あんな壊れた人形、買う人間の気がしれないね――
それが雪姉を見た、最後だった。
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鬼の住処を覗いた日から、私は雪姉の姿が頭から離れなかった。大きくなると消えていった兄や姉たちは、皆あのように壊され売られていったのだと、私は知った。そして恐らく、ここに居続ければ自分も同じようになるのだろう。私は恐怖に身を竦ませ、残っている兄や姉たちに相談した。しかし更に私を打ちのめしたのは、彼らがこの事を知っていた事だった。兄たちは、自分たちがその内秘密裏に売られていく事を知っていた。そして逃げ出そうとすれば、殺されることを――。私はその事に絶望し、泣きじゃくった。仕方がないと慰めようとする姉たちの手を払い、私は憤った。あんな目に合うために、私は生きているんじゃない!大人達の良いようにされるだけなんて嫌だ!しかし私の必死の叫びも、全てを諦めた目で返されるだけだった。困ったように笑い、私を宥め様とする姉たち。誰もが、それを仕方がないと受け入れている。
だから私は逃げ出した。大きくなれば、大人たちに目をつけられてしまう。そう、今しかない。ほんの小さな子どもが一人街に出て生きていける保証はどこにも無かった。それでもここには居られないし、ただ漫然と死ぬのを待つのだけは、到底受け入れられなかった。
夜の闇に身を潜ませながら、初めて出た外は恐ろしかった。見知らぬ景色と見知らぬ風景。路地裏から闇がその手を伸ばし喰われるのではないかと言う恐怖と戦いながら、私は夜の通りへと足を踏み出した。行く当ても無くうろうろと彷徨っている内に、夜が終わり朝日が上がる。それでも私は始終びくびくとしながら、今度はあれだけ怖かった暗がりに身を潜ませ、活気のついた街を縫うようにして歩き回った。
一日二日と歩き回るにつれて、所詮街も孤児院と変わらないと気が付いた。大人とは怖い存在で、私達子どもを見ると血相を変えて追いかけてくる。まれに身なりの良い、大人に可愛がられている子どもを見る事もあったが、あれは別種の生き物であると、私は思っていた。
直ぐに私は食べ物を盗むことを覚え、日々の生を繋ぐ。私は幸いにも足が速く、とてもすばしっこいようだ。大人たちに気づかれずに食べ物を盗むのは容易く、例え見つかっても捕まる事は一度として無かった。寝床は最初、街外れにある馬小屋の裏に決めた。ここなら雨風は凌げはしないが、土の地面は石よりも暖かいし誰かが来れば馬たちが教えてくれる。我ながら良い隠れ家を見つけたと思っていた矢先、ある日戻るとそこに見知らぬ男の子が蹲っていた。私より少し体は大きかったが、年は同じくらいであっただろう。私は自分の住処に見知らぬ人間が居たことに目の前が赤くなり、そして気が付けば掴みかかっていた。
「あんた…!!ふざけるなっ!!ここは私の寝床だっ!!」
「うわぁっ!て、てめぇ急に何しやがんだっ!!」
掴みあいの大喧嘩の末、私たちは仲良く馬小屋の持ち主に見つかり、こっぴどく追い出される羽目になった。しかしそれが転機となり、初めて街にも子どもたちの共同体がある事を知り、私もその一員となる。私の足の速さは天性の物らしく、皆に重宝がられ大事な仲間として溶け込んでいく。そうしてスラムの片隅で生きて行きながら、気が付けば季節は二回も廻っていた。