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第五話 感じて動く(Emotion)

おかしい…更に1万文字書いたのに、まだ基地に帰ってない…

何故、基地に帰る前に2万文字も使ったし…

涙は生物が精神安定させる為のクールダウンシステムだ。

とか、何かで読んだ事がある。

それはそうかもしれない。

何故なら、こうやって大泣きした後には

随分と冷静に落ち着ける自分が居る。

だからといって、涙が精神安定剤の為だけの存在とは

男には思えなかった。

涙は生物が持っている制御システムという意味以上に

更に別の意味があると男は思っていた。

それは初泣きであったろう沙璃枝には

まだ考える余裕すらない事だったであろうが…。

ともかく、二人は、散々、故人を思って大泣きした後に

なんとか冷静さを取り戻した。

そして元の話にようやく戻ってくる。

『私と別れる直前に、

 お父様は確信して言われました…

 私には”左のイデアル”が足りないと…

 イデアル、イデア…確かに、言葉は1文字まで同じ…』

自分の父親が残した、遺言にも近いその言葉をもう一度振り返り

沙璃枝はその重要なキーワードに拘った。

男は、もっともっと冷静になれば、きっと話し合うべきは

別の所だろう事は十分承知していたのだが、

彼自身の存在理由を前にすれば、それは彼にとって小さな事であり

沙璃枝が疑問に感じる事の方が、やはり彼にも同じ様に重要に思えた。

なので、もっと考えなければならない話を棚上げして

男は沙璃枝の話に付き合うことにする。

「じゃぁあんた…

 あーー沙璃枝さん?

 ネットワークで、電脳大先生に聞けばいいんじゃね?

 データーベースとしてなら、

 この世界の誰にも負けない大先生だしな…」

男は不意に遙かな昔はグーグル先生とか呼ばれて

あれやこれやで色々あって、

システムやらなんやら色々なモノが変わってしまった…

しかしデーターベースとしては際限なく肥大化し

今では”電脳大先生”と揶揄されるまでになった

世界共通データーベースへの検索を提案してみる。

その提案に一瞬、首を捻る沙璃枝。

『ふむ…確かにそうですね…

 余りに急ぎの事ばかりで盲点でした…

 電脳大先生に聞けば確かにてっとり早いですね…

 では早速…

 チャンネルオープン、暗号CCSTを暗号KS2で二重展開させながら

 WWWⅢにヴァーチャルエントリでアクセス…

 対象項目、検索…”イデアル”』

そう言って沙璃枝は電脳オペレーターとしての本来の生起理由に回帰して

ネットワークに偽装の通信線を確保し

電脳大先生のデーターベースにアクセスした。

そしてそれをその男にも見える様に検索結果を端末に表示する。

端末に表示される文字列を前に、男は呆然とそれを朗読してみた。

「イデアル(ideal)

 環の特別な部分集合で、それに属する任意の元の和と差に関して閉じていて、

 なおかつ任意の元を掛けることについても閉じている。

 例えば整数全体の成す集合における、偶数全体の成す集合や

  3の倍数全体の成す集合などはこの性質を持っている。

 あー?なんだこりゃ? 数学用語なのか…」

男は電脳先生が淡々と説明してくれるその文字列を読んで

それが数学用語であるとまず理解する。

そうそう、大学の教養課程で、数学の講義の時間に、

こんな一般には理解し難い専門用語で

”∈”とかいう不思議文字を沢山使われて説明されたものだった。

それを思い出し、男は眉をひそめた。

「うーん?

 環 R の部分集合 I が、加法群としての部分群であり、

 R のどの元を左からかけても、また I に含まれるとき、

 I を左イデアル (left ideal) という。

 …お? 左のイデアルってこの事か?」

電脳大先生の説明文を読み続けていると、

その中で現在の議論の中心話題になっている”左のイデアル”なる言葉に

限りなく近いそれが引っかかる。

男は電脳大先生の説明をそのまま読み続けた。

「同様に任意の R の元を右からかけたものが I に含まれるとき、

 I を右イデアル (right ideal) という。

 言い換えると、R の部分集合 I が左(右)イデアルであるとは、

 I が R の左(右)加群としての部分加群であることをいう。

 左イデアルかつ右イデアルであるものを、

 両側イデアル (two-sided ideal) または単にイデアルという。

 とな…ほうほう…」

男はその数理世界の難解な言い回しを読み解くのに苦労しながらも

その説明が大雑把に何を言っているのかを感覚的に理解した。

その説明を同じ様に読んで、同じ様に眉をひそめる沙璃枝。

数論としての説明はなんとか理解できるが

それが沙璃枝への”足りない何か”を説明している事にはならない。

この説明ならば、要するに左の集合群の情報が不足して

情報のインストール不足と説明されているだけだった。

と、そう思った時に不意に沙璃枝は、最期のあの瞬間を思い出した。

『そういえばお父様は”例えるならば私は右のイデアルが埋まった状態”

 と言ってました…これは比喩だと

 このイデアルという数学用語にある性質に

 私の今の状態が似ているという事ですかね?』

その言葉を思い出し、口にしてみる沙璃枝。

「ああ、例えるならって話なのか…

 じゃぁ、ここに書かれている話が博士の言う答えではないんだな…」

沙璃枝が不意に、説明足らずの重要情報を出して来たので

男はようやく判然としないこの情報との乖離が納得できた。

しかし、全く無関係とも男には思えなかった。

『そうですね…

 これでは、ただこれだけの話でしかありません…』

沙璃枝は項垂れて、重要な手がかりを見つけ損なった事に腐る。

そんな沙璃枝の表情を見て、噴き出しそうになりながらも

男はその説明文の方をもう一回見つめて、淡々と思った事を口にした。

「しかし、これって、要するにプラトンのおっさんが言ってた事を

 数学限定で表現してるだけで、

 これがイデアの意味だよな…」

『??』

不意にそう言い出した事に沙璃枝は顔を上げて男の方を見る。

男もその質問の眼差しに気付き、僅かに溜息をつきながら

その言わんとする事を説明し始めた。

「プラトンのおっさんは完全存在イデアに関して

 もう一つ直感的な仮説を唱えたんだよ。

 想起説ってな。

 原義的な意味はもっとシンプルで

 今は拡大解釈的になっているわけだが…

 まぁともかくプラトンのおっさん曰くはだ…

 この世界の存在は、完全存在イデアに対して

 全てが不完全な”半存在”だっていうのさ…

 むしろ、完全存在だったイデアが、この現実に来ると

 劣化コピーして影の様な写像だけになるというか。

 で、俺達はみな、この現実にいるかぎり半存在であって

 完全存在イデアではないっていうんだ」

『私達はイデアではない?』

その男が切り出してきた不思議な説明に

沙璃枝は怪訝な表情を浮かべるしかない。

その表情を見て、まぁそりゃそう感じるわな、と苦笑しながら、

男は続けるしかなかった。

「まぁプラトンのおっさんが言っただけの話で

 それを何所まで納得するかは個人の主観だと思うが…

 ただそれに対して、これも解釈次第だが

 俺達”半存在”は、

 完全存在”イデア”に常に戻りたがっているというのさ。」

『半存在の私達が、常にイデアに戻りたがっている?』

沙璃枝は男の説明の一々に、考えもしなかった思想に驚く。

男はその反応にやはり笑う。

こんな話、人間が聞いても怪訝な顔になる話だ。

それを人工知能が興味深げに聞いているというのだ。

奇妙に思うなという方が無理である。

そんな奇妙さを抱えながら、男は続けた。

「その論法だと、そうらしい…

 半存在がゆえに、完全存在”イデア”には成れない。

 それは存在が半分しか無いから、というわけだ…

 だが半存在は、存在に戻るために、

 この世界には自分の対になる存在が必ず居て

 その、”対存在”を探しだし融合することによって、

 完全存在”イデア”に戻れるっていう…

 仮説というか、ここまでくるともう宗教だよな…

 そういう考え方があるんだ…

 プラトンのおっさん自身は、足りない半存在を埋めるには

 学習をする事だって説いてたらしいんだが…

 後世の考え方で、そういう言い回しが付け加わったんだ…」

『対存在!?融合??』

その言葉が男の口から出たとき、

沙璃枝の中にハッと光るような感覚が走った。

それは彼女が目を見開いた動作で示されていた。

そんな彼女の所作に、また含み笑いをする男。

「そそ、対存在、あるいは対称存在というか…

 だから、このイデアルという説明は、

 数学での数集合で限定した場合には

 右の集合と左の集合は、全集合においては互いに半々で

 その両方を備え合わせれば、全集合になれる、

 あるいは元々の部分集合になるって意味だから、

 イデアの説明の数学版なわけだ…」

そう言って、男は何故その用語がidealという単語なのかを納得した。

ideaという思想を受けての数学の集合の説明なのだから

その2つには強い結びつきがあるのは当然といえる。

つまり博士はidealという数学用語を用いて、

イデアの対存在思想を彼女に伝えたかったというわけだ。

なるほど、人工知能の研究者らしいといえば、らしい表現である。

プログラミングの研究など、数論の塊といえるのだから。

『では私は…、いや世界そのものが元々半存在であって

 それが埋まっている”右のイデアル”であって

 この世界の何処かにある、自分の対存在‥

 ”左のイデアル”と出会う事で、完全存在イデアになれると?

 要するに自分の対存在に出会えると、その時、私は人間になれると?』

その説明を超高速に沙璃枝は理解して、

概念的ではあるが自分が人となるプロセスの輪郭を尋ねてみる。

そんな、あまりに理解が早い彼女に、

そこだけは人らしくない人工知能のような…

というか、頭の回転の速い”小癪な奴”という印象を受け閉口する男。

理解が早い人間は嫌いではないが、

それが高速大量量産できる”人工知能”であるというなら

人類学的にはそれは脅威であり恐怖である。

そんな気持ちを抱えながらも、男は自分の髪をぐしゃぐしゃにかいて

彼女の言葉に更に付け加えた。

「…それは、お前さんだけの話じゃないだろうな…」

『え?』

そう言って男は微笑み、

対称的に予想外の言葉がまた出たことに驚きの表情を浮かべる沙璃枝。

男は深い息を吐いて、その沙璃枝の言った言葉の重さを反芻した。

「もし博士がそういう意味で言ってたんなら

 この世界の全ての者は”左のイデアル”を

 この世界に捜してるんだよ…

 なら俺だってそうだ…」

男は頬を緩ませながらそう言った。

『貴方も!?』

そんな男のまたしても思いもしない言葉に目を見開く沙璃枝。

出会ってからと言うもの沙璃枝はこの男に驚かされっぱなしであった。

その沙璃枝の驚きなどお構いなしに、男は自分の思いを語る。

「俺はドローンと戦いながら、人間とは何かを問いかけている。

 その行動は、その言い回しを使わせて貰えば

 ”左のイデアル”をそこに捜している行動といえる。

 単純に言い回しの問題だ。

 博士も比喩だって言ってたそうだしな…。

 だったら、これでいいハズだ。

 ともあれ、そんな”左のイデアル”捜している…という状況

 つまり、俺がドローンとの戦闘で命のやり取りをしている狭間でだ、

 俺が人間だと考える事に対して、それ以外の何かを見つける時がある。

 刹那のやり取りだが、相手によって確かにその時がある。

 その時、俺は俺自身の”右のイデアル”以外の”左”を知る。

 それが俺にとっての”左”の発見だ。

 そしてそれを全て捜し尽くした時、俺は人間が何なのか分かる気がする。

 俺は自分の中にある自分が考える人間の定義レギュレーション

 それに足りない考え方を、

 この生き方の中で見つけて埋めようとしているわけだ。

 それは、その言い回しでは

 ”左のイデアル”を埋めてる作業といえるわな。

 なら、誰しもが”左のイデアル”を捜してる…

 自分が完全存在イデアに戻るために。

 何故なら、人間は自分が何なのか…自分のイデアとは何なのか?

 大なり小なり誰でもこの世界で捜しているんだからな…」

そう言って男はニカっと笑った。

そうだ、誰もが捜している。自分自身を。

そうだ。

そのハズだった。

そのハズなのに何故か世界を見渡せば

みんなドローンの様になってしまっている様に思える。

人間を捜せば捜すほど、人間がドローンの様に感じられる毎日である。

いつの間に世界の中の人間は、ドローンにすり替わってしまったのだろう?

それを思って男は眩暈の様なモノを覚えた。

そして今では人間に限りなく近い人工知能が

今自分の目の前で人間に交差している。

いったいこの状況は何なのだ?

それを思って可笑しくなり、だからこそ目の前の人工知能に

ムキになって熱くなっている自分がいるのだろうと納得してしまう。

そんな男の漠然とした思考など知るよしもなく

沙璃枝はその言に動揺するしかなかった。

『そんな、そんな漠然として曖昧な事を言われても…

 じゃぁ私はどうしたら私という半存在に足りていない

 ”左のイデアル”を埋めれるというの!?』

そう言って沙璃枝は項垂れた。

その項垂れる沙璃枝に男は呆然とした調子で

追い打ちをかけるしかない。

「さーなー

 それは人によって、問いかける何かで千差万別だろうしな。

 あんた自身がこの世界で、何を問いかけ、何を捜すのか

 それはあんたが見つけなきゃならん事だ…

 俺が捜している物は、それ自身が俺という存在だし

 存在は個々固有なわけで

 アンタにはアンタだけの”左のイデアル”があるんだろうからな」

そう言って男はイデア論のアリストテレスが指摘した欠陥ごと

沙璃枝にその難題を突きつけるしかなかった。

『じゃぁ何をどうしていいのかすら

 私には分からないっていう事なの!?』

そんな男の一種の意地悪を、意地悪の本質が理解できないままに

沙璃枝は目の前の現実としてお手上げ状態に喚くしかなかった。

そんな沙璃枝の苦悶に渋い顔になる男。

「うーん、それ言ったら全人類みんな、

 何をどうしたらいいかなんて、分かってねーから

 誰だって、何をどうしていいのか分からねーんだけどな…

 ただ…博士は何か他にヒントみたいな事を言ってなかったのか?

 人間でさえ難問のそれを人工知能にいきなりやれとか

 ちょっと問題のレベルが高すぎだろう…」

そう言って男は、自分の最期の仕事を信頼するにしても

赤子をいきなり下界に出す様なあまりにも無謀な行動に

今は亡き宿敵の過信に思える行為に疑問を感じた。

どんな天才的な才能を持っていようが、

赤子がジャングルに投げ出されば

成長するより先に野獣に食われるのが道理である。

緊急事態で助力の余裕が無かったのかもしれないが

それなら無計画にも程がある。

それに男は首を傾げるしかなかった。

なので、親ならば…という思いもあって、それを尋ねてみた。

『え?お父様…ヒント…』

男にそう言われて沙璃枝は、そういえば…と

最期の分かれの瞬間に、父が理解不能な文言を語っていたのを思い出す。

そう、父は”左のイデアル”に関して、

とても重要な性質を語っていた。

『そういえば…

 ”左のイデアル”は最初から私の中にあるモノで…

 でも、それは入力される情報ではなく、

 世界と触れて”感じる”事で生まれるモノで

 情報を入力する事では何の意味も無いモノだと…』

挿絵(By みてみん)

沙璃枝はあの時の文言を思い出し、

それを漠然と口にしてみた。

その台詞を聞いて、今度は男の方にドクンと鼓動が走った。

「あぁっーーーーー!!」

男は目を見開き、突然そこで奇声の雄叫びを上げる。

『何!?』

いきなりの奇声に驚いて、またしても目を見開く沙璃枝。

男の頬にどうしようもない緩みが生まれていた。

そして嬉しそうに男は声を上げる。

「なるほどね…

 なんとなく分かったわ…

 そうか…”それ”かっ!」

そう言って男は自分の体を抱きしめて震えて笑った。

『どうして!?

 どうして貴方はこの言葉で分かるの!?』

そんな男の言葉に、この解明できない意味不明の文脈を

たった1度耳にしただけで理解したという発言に

驚愕して震える沙璃枝。

そんな沙璃枝の方を向いて、苦そうに笑いながら男は言った。

「そりゃ、おれが人間だからさ…

 その”なんとなく”が分かってしまう

 それが人間って事なのさ…」

言って嫌らしそうにニヤリと笑う。

『じゃぁ私は人間じゃないから、

 この言葉が分からないの!?』

そんな人間優越感を伴って笑われたことにカチンと来て

自分の疑似人間が故に、理解不能である存在欠陥の可能性を思い

恐怖に震えながら問い返す沙璃枝。

だが、男はそんな沙璃枝の前で手を左右に振って言った。

「さーなー?

 もし、それさえも理解できるプログラミングが完成し、

 お前さんに組み込まれているのだとするなら

 お前さんも、いつかは分かるかもしれんな…

 その時は、間違い無い、人工知能はその夢

 人、心になるのに成功する時だ…」

そう言って男は何故か、

人類最大の脅威が生まれるかも知れない可能性に

むしろ歓喜の様なモノと共に心が躍って震えるしかなかった。

可能性。

それが人類にとって良かれなものであれ悪しかれなものであれ

それでも可能性。

それが”在る”という事。

それはこの男にとって最後の希望だった。

しかしそう言った男の発言に、沙璃枝の表情は曇る。

『でも私、どうすればいいのか分からない…

 貴方にはお父様の言葉が分かる言うのに私は分からない

 きっと人間じゃないから、こんな事も分からない…』

そう言って沙璃枝は腐った。

「そりゃそうだろ?」

そんな沙璃枝の弱音に男は笑いながら答える。

『どうして!?』

自分をその言葉で一刀両断にされた事に

沙璃枝はやはり反発するしかなかった。

そんな沙璃枝の抗議に、男はしれっと返すしかない。

「だって、お前、生まれたばかりじゃん…」

『!?』

男は淡々とそう言って、

沙璃枝の思い違いを指摘してやった。そして続ける。

「人間だってそうだ…

 生まれたばかりの赤ちゃんが、

 どうして、この世界の何もかも分かるんだよ?」

『え?』

沙璃枝は思ってもみなかった想定外の指摘に

キョトンとなるしかない。

男は笑いながら続ける。

「人が、生物の人から、人間になるには…

 生まれるだけじゃ駄目なんだよ…

 歩かなきゃな…世界を…」

そう言って男は、これ以上ない笑顔を浮かべた。

『歩く?』

またしても想定外の言葉が出た事に

沙璃枝は目を丸くし過ぎて、

瞳が真円になってしまいそうな思いだった。

男は首を振りながら続ける。

「比喩と言えば比喩だが、そのままといえばそのままだ…

 ”左のイデアル”を探す事、

 自分にとっての”左のイデアル”を見つける事

 そりゃ、この世界を歩かなきゃ駄目だ…

 知ってるって事は、半分しか意味が無いんだからな…」

そう言って、男はそんな簡単な事なのだと笑うしかない。

そう、そんな簡単な事なのだ。

とても難しい様で。

『知る事には半分しか意味がない??

 貴方もお父様と同じ事を言うの?』

「そりゃ同じ事言うさ…人間だものな…

 それもイデア論みたいなモンだ…

 知ってる事、知識も所詮、半存在なんだよ…

 ”左のイデアル”が足りない」

言って男は宿敵が残した、

”その言い回し”が妙に気に入ってしまった。

”それ”をそうメタファーで表現するのは、小癪な程ツボであり

流石は我が宿敵、と、変な満足をしてしまう。

『どういう事!?知識は完全存在じゃないの!?』

その男の奇妙な言い回しに

直感的には完全存在に思える知識というイデアが

半存在だという指摘に混乱する沙璃枝。

三角形の概念が知識なら、知識はイデアの全集合ではないか。

その考え方の何所に盲点があるのか、沙璃枝には気付けなかった。

「知識が知識として人間を乖離できるほど

 独立した存在なら、そうかもしれん。

 でも知識なんて、人が扱う情報の形だろ?

 人と切り離せれる事で存在として

 意味のある知識なんてありえるのか?

 もしかしたらあるのかもしれんが、もしそうだとしても

 それを人が感じれないという完全存在なら、

 人にはそれに何の意味がある?

 だから知識も所詮、人間を形成するための要素でしかない。

 それならやはり半分でしかない」

『じゃぁ知識のもう半分って何よ!?

 電脳大先生以上の情報量なんて存在しない!!』

そう言って沙璃枝はデーターベースという

知識図書館の究極の形態を盾に、その完全存在性を提示する。

そう、電脳大先生は、直感的には究極のイデアに思えた。

「だから博士も言ってたんだろ…

 最初から知っている事なんかに意味は無いって…

 当たり前だ…

 ”感じてない”知識に何の意味がある?」

その電脳大先生万能論を鼻で笑いながら

データーベースの欠陥を指摘する男。

『感じてない??』

その男が指摘し、自分の父も文言で言った

”感じてない”という言葉に引っかかる沙璃枝。

男は笑いながら沙璃枝に語った。

「あんたは多分、”知ってる”だけだ”感じて”ない。

 だから知識が半存在なんだ。

 知識は知るだけじゃ意味がない、半存在だ。

 薔薇は赤い、写真でそれを見てそれだけしか知らないのに

 薔薇が赤いを知った気になる。

 そういう状態だ。

 でも薔薇が赤いって意味は、そうじゃない。

 本当に薔薇に出会って、手にして、香って、

 棘があって怪我をして、その生物の躍動を体全部で感じて

 花がしおれて、枯れて、薔薇が死んで

 それを見て、寂しいって思って

 そんな、本当に薔薇に触れ合ったときに

 写真では分からない、色々な実在の情報に出会って

 薔薇を感じて…

 薔薇と共に生きた後に、薔薇は赤いのだと心から言える。

 その言葉は、薔薇の花びらが赤色だという意味じゃなく

 薔薇と生きて、薔薇を感じた思いを全て込めて

 その思いを”赤い”って言葉に凝縮させているんだ。

 それは”感じ”なければ、分からない事なのさ…」

そう言って男はデーターベースという存在の致命的な欠陥を語った。

それは長い間、人工知能が人工知能の枠を越える事が出来ない

所以そのものでもあった。

人間にとっては、あまりに簡単な事なのに

それこそが最も難しい事でもあった。

『そ、そんな事、言われても…私…』

そんな実在情報の情報無限生成という話を前にされて

沙璃枝はただ動揺するしかなかった。

言われてしまうと、確かに知ると言う事は不完全状態に思える。

「俺は、なんか分かっちゃったなぁ…

 どうして大井博士が、最期に笑ったのか」

そう言って男はクックックと腹を抱えて笑った。

『どうして貴方がそれを分かれるの!?』

突然それを言われて、更に動揺する沙璃枝。

そんな沙璃枝に、優しく語るその男。

「だって人間だからな…

 大井博士は、完成させたのさ…心AIを

 なら、自分の捜し求めた物を生み出したのなら

 そりゃ笑って逝くしかないだろうさ…」

そう言って、男自身も何故か博士の気持ちにシンクロしてしまい

あまりの満足感に笑うしかなかった。

きっとこんな気持ちで逝ったに違いない。

そう思うと、確かに彼女の言うように哀しむ事は失礼な事の様に思える。

『私はまだ完成してないわっ!』

その男の言葉に驚いて、沙璃枝はとっさに言い返す。

「でも、大井博士は確信した

 お前は人になれると

 だから、結果をみなくても笑って逝けたんだ」

男は更に踏み込むように、彼女にそう言った。

『どうして!?』

その余りに強く確信してそういう様に驚き

沙璃枝はその根拠を尋ねる。

何を元に父もこの男もそれが判断できるのか?

「そりゃお前、お前は世界を”感じれる”存在だからさ。

 俺も確信できそうだ…

 このやり取りの中でよく分かった、

 お前は多分、人になれる

 そんな気がする…」

そう言って、男は自分の確信した根拠を口にした。

そう。こんな簡単な事。

こんな人間には簡単な事が、人工知能には不可能に思える高い壁だった。

人と人工知能を別つ壁は、正にここにあった。

だが、その目の前の生まれたての心は、その壁を超越してきたのだ。

本人にまったく自覚がなく、正に人の様なそれだったが

そう越えてきた。

ならば導くしかないだろう。

そこに人がいるのなら、人間ならば赤子の手を取って共に歩かなければ。

それこそが、その男の人間探求の1つの形であるのだから。

『そんな事簡単に言わないでよ!

 私はどうすればいいのかすら分からないのに!』

そんな決意に腹をくくった男など他所に、

無責任に信頼された事に苦い思いになって

現在の手詰まり感に苛立つ沙璃枝。

憤る沙璃枝に男は笑って助言する。

「だから、簡単だって言ってるだろ?

 歩けよ世界を…

 どうすれば?どうすれば?なんて方法論を悩んでるより

 歩いて道端の石にでも足が当たれば、それだけ世界は感じれる。

 ただ漫然と歩いて、歩き続けて、歩いた後に振り返って、

 この世界から数々の思いを”感じた”のが残っていれば

 それが、きっとお前の”左のイデアル”になっているだろう」

そう言って男は、自分の思う”間違い無い答え”を沙璃枝に語った。

『貴方はどうしてそんな風に

 お父様と同じ様に分かっているの?

 何で…』

その確信して語ってくる男に、沙璃枝は理解ができなくなり

半泣きになってそう尋ねた。

「そりゃ、お前よりは、遙かに昔から世界を歩いてるからだ。

 生まれたての赤ん坊に、どうして大人なんですか?

 って聞かれても、

 そりゃ、先に生まれて、生きてきたからとしか言えんわ。

 これは俺自身の生きてきた俺の感想だ。

 俺もお前と同じで、人間になりたいんだよ。

 だから世界を歩いた。

 何も考えずに、この世界を歩いた。

 そして世界を感じた。

 歩いてる道は間違い無く獣道だが…

 どんな道でも道は道、そして世界は世界だ。

 そこには、感動がある」

そう言って溜まらなく満足そうな顔になって男は微笑む。

『感動!?』

沙璃枝は自分の中で最も迂遠で自分から遠く思える

理解不能という領域に直ぐに陥る”その言葉”を耳にして

寒気がする程に泡立ち、同時に胸の中にまたしても

何よりも強くドクンという鼓動を鳴り響かせた。

「左のイデアルという比喩を別の言葉で表すなら

 きっとそれは”感動”なんだろうな…

 世界を感じるんだ…

 そしたらな、動くんだよ…体も心も…

 感じたら、動くんだ、

 その二つは、切っても切り離せれない関係だ。

 世界を歩けば、何所にでも感じるモノがあって

 それで心も体も動いて、動けばまた感じて、

 そして動いて…

 その永久機関だ!

 それが大井博士が言う”左のイデアル”だと俺は思う。

 その永久機関を動かさなければ

 何の意味もないのさ、心が心であるためには!!」

そう言って男は満面の笑みで両腕を広げた。

男はその言葉をとっさに放ち、自分でいったその言葉に自分で震えた。

そうだ、それだ。

人間。

それは何か?

それはそれなんだ。

それを感じて男は震えるしかなかった。

今まで言語化できなかった、そのあやふやな思い。

人間の境界線を別つ大切な線。

その線引きで確かに見える明瞭な境界線。

それは、それだった。

その男が無意識に感じていたモノを、男はようやく言語化に成功した。

それこそが、捜していた人の核だった。

その思いに男は感激し、それを見いだしたこの対話に感謝した。

天空から降ってきた、沙璃枝という出会いに感謝した。

これを男は、ずっと探し、ずっと待っていたのだ。

それに出会う事を。

そして…出会った…。

『でも…私は…』

そんな男の内部的興奮を他所に、沙璃枝は”感動”等という

最も不可解で、最も迂遠に思えるそれを前に出されて尻込みする。

それは人工知能という存在における、本能的恐怖とでもいうだろうか。

それだった。

だが男は沙璃枝の言葉に強く頭を振る。

「いや、だから悩まず、世界を歩いてみろよ…

 何も考えずに、心を空っぽにしてな…

 俺はそれでお前は、人間になれると思ってる

 だからな…」

『どうして貴方もそんなに確信できるの?

 お父様と同じくらいに確信した顔をしてる…』

そう熱っぽく語ってくる男に、

そしてその強い確信に、どうしても首を傾げる沙璃枝。

どうしてこの男は、自分が信じる事ができない

”心になる”事を信じきる事が出来るのだろう?

それが不思議で仕方なかった。

だがそんな怯えに男は笑って答えるしかなかった。

「だってお前、世界を感じるという、俺達人間の特徴を

 どうやらプログラミング化に成功してるみたいだからな…」

そう言って、僅かに嬉しく、僅かに哀しく、僅かに恐ろしく

そして何よりもドキドキとするそれに、

心を躍らせて手を差し出すしかない。

『何で私の記述ルーチンを見ていない貴方が

 そんな事を確信できるのよ!?』

根拠の見えない言葉、何より内容も見ていないプログラムで

それが出来ていると判断できる所以、それが分からず沙璃枝は

男の判断点を尋ねるしかなかった。

「だって、お前…大井博士の死を思って

 涙、流したじゃねーか…」

その時、男はあまりに簡単な共感を彼女に伝えた。

『え?』

その自分が考えもしなかった指摘を受け

目が点になる沙璃枝。

「それなんだよ、感動ってのはっ!

 難しい様で、俺達にはとても簡単な事なんだ!

 感じて心が動いたから、

 例え情報表示であっても涙が流れたんだろ?

 俺と同じ様に、大井博士が亡くなった事に泣いただろ?

 そんな事をする人工知能が出来たというんだから

 だから心回路は完成したんだと、俺は確信できるんだ!」

『泣く?』

「そうさ…、人は…泣くんだ!」

そう言って男は心の底から笑った。


いやー元々この四話と五話は、まとめて四話にする予定だったんですが、全体的に予定してた四話が書いてると、一,二,三話の総文量を越えてたんで「やっべーw 分割? 分割するなら、ここかー?」って急遽、四話と五話に分離したもので、元原稿的には同じセクションです。だってまだ車の中だし…。まぁともかくも、ようやくこれで基地に帰る事ができそうですが…話、どうすっかなー。ラストシーンのイメージはもう出来てるんだけど、そこに導く真ん中のプロットが白紙でーー。キャラ設定を考えると、大きな話にもできそうなんですが、このプラトニックラブというのは「コンパクトに話を作る」というのを目的に練習した15年前の習作なんで、元々がそれなら、こっちもコンパクトに作りたいなぁと。ここまで書いてきた背景設定で、どうやってコンパクトに作るべーか…うーん…。

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