第十六話 恋心 (Arch Enemy)
うーん、まぁアニメでいう所の温泉回みたいな駄話ですかな。次のイベントを起こすイベント乱舞じゃ疲れるんで、緩衝話を入れての休憩みたいな所で。
二人は日が落ちそうな頃を見計らって
基地に戻っていった。
沙璃枝が街に出ることで偶然に獲得した味覚と触覚。
特に触覚は彼女に世界の空気を感じさせ
視覚と聴覚に触覚が加わった事で
今までの見れるもの聞けるものに対して
変化した感想が生まれ始めた。
それがただバイクで風を切るというだけだったとしても
バイクのモーター音に合わせて変化する風の感覚は
それだけで沙璃枝の心に言語化出来ない何かを生じさせた。
そんな感覚を知ると、
沙璃枝は残っている”臭覚”さえも興味が沸き、
臭い感知デバイスでも作って
5感全てを完備してみようかとも考える。
そんな彼女の思考は即座に、
彼女のワールドワイドに広がった無意識に伝搬し
それらがそれを手配し始めた等、
しかしその時の沙璃枝は知りようがなかった。
ともかく二人は一日目の旅を終え、基地に舞い戻った。
基地に帰ればモヒカンが、沙璃枝から基地のシステムダウン級の
リソース取得を食らって情報取得に難儀した等の抗議をし
そこでようやく昼の色々な試行が、
後ろのシステムにまで高負荷を与えたのだと知る二人。
しかし沙璃枝の感覚問題の事情を耳にすると
むしろモヒカンはそれに驚いてポンと手を叩いた。
「その手があったか!」
と言うや彼の頭の中で、彼の最愛のAIエミリーにも
そんな機能が実装できないかとアレコレ考え始める様だった。
等という事もあったが、ジョージはBが外に出ている間に
収拾した情報もそこで伝えた。
「仲間をハックするなんてのも奇妙な気分だったがな。
リンケイドも情報部の奴等の情報秘匿にキレ気味で
情報追跡を許可してくれたよ…
とは言っても、情報部の方こそ大混乱中らしく
全力でマージにハッキング攻撃をして、
マージは今、防戦一方…
謎のハッキング攻撃…まぁこれは沙璃枝ちゃんだが…
そっちの方は少しだけマージへの攻撃が弱まってな
カルーベニャとマージの殴り合いで時間が進んでいるって状況だ。
大井博士の死も、まだ確信的には流れていない。
ひとまずは、まだまだ情報戦が続くって感じだな…」
「ふむ…それなら、心探しは一先ず継続でいいか…」
ジョージの言葉に時間の余裕はまだあるのを確認し
胸をなで下ろすB。
しかし戦略核のドローン輸送での使用等という彼等の奥の手がある。
自走車で潜伏して来られるのも困るが
もっと困るのは、例えばドリルで地下を潜って侵入されるとか
発見したとしても対処に遅れる手段を使われる事等であった。
ひとたびマージが”極端な結論”に傾倒すれば
後手に回った方が圧倒的に不利になると考えられた。
制限時間は不明だが、沙璃枝のマージからの造反の事もあり
時間そのものは切迫しているように思うしかなかった。
それに二人は焦れるしかない。
「で、時間がまだありそうなのはいいが…
そりゃ、沙璃枝ちゃんの5感の創造なんて話は驚いたし
人口知能研究者としては最も興味深い話だが…
その”心”探しで、
マージに対抗できる特別な武器みたいなものは
発見できそうなのか?
まさか漫画みたいに、
”心”のイヤーボーン効果で特別な力が発露するとか、
そんな寝言を妄想してるわけでもあるまい?」
モヒカンは、興味は興味として置き
現実問題、”具体的な何か”が有り得るのかをBに尋ねた。
「まさか、そんな事は期待してねーよ…ただ…」
「ただ?」
「彼女が無意識を作っているっていうのが、
どーもちょっと気にかかってる」
そんなモヒカンのもっともな疑問に
Bは直感的に感じる因子のみで、
今の行動への可能性を見いだすしかなかった。
「無意識? ああδ領域の事か?
まぁ専門家じゃないお前にゃ、説明した事は無かったが
やっぱ何も無い所から作るよりは人間の意識システムを
創りだした方が楽だろうって事でな
人工知識の意識はレイヤー化されているんだ…
ここら辺は、何層にするかってのは流派によってマチマチで
その数が固定で決まってるわけじゃないんだがな…
大井博士等の派閥なんかは、5層レイヤーでやってたな…」
「ん?5層?4層じゃないのか?
δは四番目だろう?」
そのジョージの説明で、数が合わない記号数にそれを問いかけるB。
「ああ、大井博士ん所はキティだからな…
もう一層下まで作ってるのが特徴なんだ…
ε層って言ってな…情報をごっちゃに投げ込んどく
情報の海みたいな層が最下層にあるんだ…
KGVの方にはそこまで実装してないが
大井博士の弟子で表側の研究者の論文では
ε領域と呼ばれる層を
特異的に沙璃枝OSには作ってるって書いてた」
そう言って昔読んだ沙璃枝OSの説明論文で
その一見無駄にも思えるε領域の
実装に関しての内容を思い出して口にするジョージ。
「δ領域って深層心理だろう?
深層心理の下って何だよ…」
そう何気なく問いかけた時、Bはハッとした。
自分が感じていた”無意識”を作るという事への引っかかり。
「まさか…
”そんなモノ”を実装しているのか?
あの沙璃枝さんは…」
そう言ってBは僅かに青ざめる。
「そんなモノ?
εはただの情報を無駄に投げ込んでる
莫大なデーターベースだぜ?
δの方も曖昧リンクだが、
εは情報リンクそのものを放棄してるような
ランダムリンクに任せるという…
作ったあいつ等も、実験的に作っただけって書いてた
超冗長性空間層だ。
これを有効に使うには恐らく、
世界規模のネットワークリンクが必要で
コンパクトネットワークでは層としての機能はイマイチって…」
そう言ってジョージは、今の沙璃枝の状況が
その彼等の言っていたワールドワイドネットワークになっており
彼等の予想が正しければε領域が何らかの効果を発揮するかもしれない
という条件を満たしている事に気付く。
「いや、だからって恣意一つないランダムリンクに何が出来る?
情報のリンケージは意図性が無ければ、”体”にはならん。
境界領域をハッキリさせると機械的になるんで
境界のファジーさをどう作るかってのはテーマだが
ならば尚更ランダムリンクなんてのは論外だ…」
言ってジョージは、何の効果があるのか
イマイチ不明な彼等の作ったε領域に
昔と同じ様に首を振るしかなかった。
「いや、哲学の方…
しかし、あの人、哲学者になるんかな?
そこら辺は曖昧だが…
ともかく、あの人を哲学者だと思うなら
その存在を予言した思想がある…
ε領域ってのは、その思想を電脳空間に作ってみる
実験なんじゃないのかな?」
Bはそう言って、あの胡散臭いモデルを思い出し
それに腕を組んで悩んだ。
「何だ?哲学の方での思想って…
ε領域の考え方になった元モデルがあるって?」
モヒカンはBの言葉に逆にそれを問うた。
「カール・グスタフ・ユングというおっさんがな…
集合的無意識という、
無意識よりも更に下の無意識が存在するって
在るとも無いとも言えない事を言った説があるんだ…」
「集合的無意識?」
ジョージはあまり聞き慣れないそれを耳にして首を傾げる。
「遺伝的な情報継承の無意識…とでもいうのかな…
宗教ではアカシックレコードとも言われる事もあるが
科学の視点ではそんな荒唐無稽な話じゃなく
脳幹に近付けば近付く程に
その深い所に、人類が魚から猿まで進化してきた記録の中で
情報継承の必要がある情報群が散乱して置かれているって
在るとも無いとも言えない、何とも言えない話があるのさ…
それが集合的無意識…
ただ、だからこそ人は生まれながらにして
そこにある情報を”知っている”から、
その情報を元に思考が組み立てられるって説でもある…
親からの代々の記憶継承…みたいなモノか…
説明的には本能にも近いが…
本能よりも更に踏み込んだ継承記憶という位置づけか…」
「ほう…そういう思想があるのか
それなら確かにε領域は、
それを模倣した無意識なのかもしれんな…」
Bの説明に大井博士のグループが
何故その意味不明の層を試作したのか
ようやく納得できたジョージ。
だがその返事に、Bは強く首を振った。
そうだと分かれば、それは”そんな簡単な話”ではない事に気付く。
「いや、人間の方は”あるかどうかよく分からない”なのに対して
沙璃枝OSは、それを実際に組み込んでいるって事だろ?
それは面白い実験だ。
集合無意識論が賛否両論になったのは、
深層心理よりもさらに下に
もっと大きな無意識が存在している
という説そのものではなく…
それがまだ人類が解明できていない方法で
全人類がその無意識と何らかの方法で全て結合されている
とか言い出した事にあるんだ…
だからフロイトの無意識論に比べて
ユングの無意識論は疑問視された…」
「ほう?」
モヒカンはあまり知り得ないその集団無意識の議論を聞いて
単純に興味を持ってそれに聞き入る。
「もしかしたらまだ全て解明できていない
脳幹と旧皮質の連携網の辺りに、
何か人々を繋げる通信システムの様なモノが存在していて
それが通信チャンネルを繋ぎ、人の最も深い無意識が
全ての人が集合無意識に結合して意識共有するなんて
システムが存在してるかもしれん。
それなら、その説は荒唐無稽ではなくて
科学的に”在る”モノになる。
それは”もし”とか”たられば”の悪魔の証明さ…。
だが沙璃枝OSは、そのあるかないか分からない物を
大脳研究者の仕事として投げっぱなしにするんじゃなく
電脳ネットワークという方法で”在る”にしているという事だ」
「!?」
Bのその言葉に盲を開かれて
理解と同時に慌てるモヒカン。
「ジョージ、お前の主張じゃないが
それこそが大井博士グループが試みた
人間超越のトライアルなんじゃないのか?」
Bはそう言って、大井博士が生み出そうとしたモノが
人間の持つそれを超越した何かではないかと感じ
その可能性に打ち震えた。
「………」
「サイバーリンクで人が電脳空間に連結すれば
その時は沙璃枝OSを介在して、人々の心が
人の手で作った集合無意識に連結する事になる…
あるかないか分からん仮説よりも
電脳空間に”それ”を作る事こそ…
もしかしたら…」
「もしそれが本当だったら、それは野心的過ぎる実験だな…
しかし、そこに沙璃枝ちゃんの”心”が介在する意味は?」
「分からん…
集合的無意識を科学の力で強引に作ったとして
そこに人工知能の”心”が必要であるという
理由は全く見えん…」
「なら、そういう方向性で”心”を探求するか?」
「サイバーリンクか…」
「だ…」
「ふーむ…」
そんな2人の作戦会議で方針がある程度決まり
少し休もうかとその二人がリビングに返ってくると…。
『ゴロゴロゴロゴロ
ゴロゴロゴロゴロ』
そこには立体映像で床に寝そべって
ゴロゴロ転がっている沙璃枝の姿があった。
「何されてるんですか?沙璃枝さん?」
その女子的な何かがする行動とは
とても考えられない痴態を前にして
唖然となってそれを尋ねるB。
『今、研究中なのよ!
かなり難しくて困ってるの!』
そう言って真剣な顔をして床をゴロつく沙璃枝。
「け、研究? 何のですか?」
そんな素っ頓狂な言葉が返ってきたので
顔を強ばらせてさらに問うB。
『怠惰』
Bの問いかけに沙璃枝はキッパリとそう言い放った。
「は?」
沙璃枝の更に素っ頓狂な台詞に破顔するB。
『だから怠惰の研究よ!』
そう言って沙璃枝は、またゴロゴロした。
「た、怠惰?」
あまりにもビックリな単語が出てきた事に
Bもモヒカンも口をポカンと空けた。
『今日までの学習で、人間の特性での”怠惰”は
かなり重要な因子であると判断したの…
それが”心”に繋がるかどうかは分からないけど
ともかくこうやって怠惰を研究してるの!』
言って、とても真剣な顔をして、
最もそんな表情から迂遠な”怠惰”を研究する沙璃枝。
沙璃枝はだから床をゴロゴロした。
そんな彼女の台詞と心構えを聞いて、理解して
二人ともが顔を見合わせ彼女の言葉の意味を確認するや
次の瞬間にはBとモヒカンはフライングしていた。
そして飛び込んだ先で、二人とも沙璃枝に土下座する。
いわゆるフライング土下座であった。
「沙璃枝様っ!
どうかそれだけは学習しないでいただきたい!」
二人とも土下座しながら声を揃えてそう叫んだ。
『何で!昨日も今日も、怠惰とか屑とか
人しか、しそうにない因子を見たのよ!
ならそれを理解するために、
それを研究しないと駄目でしょう!?』
沙璃枝は真剣な顔のまま寝っ転がって
床をゴロゴロして、そう叫んだ。
「いや、あの、仰ることのね…
うん理解はできるんですけどね…はい…
あのーーー人工知能様がそれを学習されて
怠惰に労働放棄とかされますとね…
ものすっごく、みんな困るといいますかね…」
二人はしどろもどろになって
丁寧語で沙璃枝の機嫌をうかがった。
(おい、怠惰を研究する人工知能って聞いた事あるか!?)
(ねーよっ!お前、沙璃枝ちゃんに何教えてんだよっ!)
(教えたわけじゃねーよ!
ただ、この世界を歩いていたら
そんな現象に遭遇しただけで、あれは自発的な行動だ!)
(自発的に怠惰を研究する人工知能か!
まさに1世代は超越してる
人工知能学に対する挑戦の様な存在だな!
つーか、怠惰を覚えたら、
もうそれ人工知能として意味なくね!?)
そんな会話を二人は小声で応酬して粟立った。
怠惰を考える人工知能とはこれいかに。
『こっちはマージの戦略核の使用を止める為に
必死になって”心”探ししてるのよ!
こんな端からみたらアホみたいな事してもね!
でも時間的にも余裕がないっていうんだから
やれることは何でもやらないと駄目でしょーが!』
そう言って沙璃枝はまたしてもゴロゴロする。
「いやあの…その発言ってね、
今の行動はともかく
”勤勉”って言いましてね…
”怠惰”の真逆の意志なんですが…」
Bは沙璃枝の矛盾まみれの行動と言葉に
思わずツッコミを入れた。
『これが”勤勉”!?
こんなアホみたいな事してるのに
これが勤勉っていうの!』
沙璃枝はそんなBの台詞に驚愕した。
自分は怠惰を研究しているのに、それが勤勉とは?
「勤勉にアホみたいな事してるって
そんな感じかな!」
Bは沙璃枝の問いかけに
泣きそうになりながらそう答えすしかなかった。
(何なんだよ、このポンコツ人工知能!!)
そう思えてBは脱力する。
『ああ!もう止め止め!!』
そう言って沙璃枝は立ち上がった。
『今の私には、怠惰は難易度が高すぎるわ!
ちょっと、今は保留!!』
沙璃枝は叫んで肩をワナワナと震わせた。
この世界最高の人工知能と自負している自分が、
しかし、まったく習得できない概念がある等と!
それが沙璃枝には果てしなく許せなかった。
「いや、一生それは保留にして下さい!!
後生ですから!!」
沙璃枝の言葉に反射的に叫んで
またしてもBとモヒカンは沙璃枝に土下座する。
人工知能の立体映像相手に懸命に土下座する傭兵二人…
(俺達、何やってるんだろう…)
流石にその二人はそう思って涙目になった。
『はーー人間道ってのは果てしなく険しいわ…
時間はあまりないっていうのに全く…』
言って沙璃枝は頭を抱えた。
そんな沙璃枝の仕草と台詞に
これがマージ相手への切り札なんだーーと
さっきまでは集合無意識とか物凄い可能性に
興奮していたのは何所へやら…
ただ呆然とするしかない二人なのであった。
そしてその日は疲れたのでお開きとなり
ともかく寝ましょうと、睡眠の時間がやってくる。
沙璃枝はあまりにも今日見知ったことが多すぎて
自分の無意識の前に半睡状態になると
言葉も出せずに身を任せた。
そしていわゆる熟睡という奴に入った。
『ハァ…なんという事だ…
こんな情報濃度、どうすればいいんだ…』
無意識の1人が沙璃枝が今日持ち帰った情報量に驚嘆する。
『これを一日でフラットに戻すのか…
どうしよう…どうすればいい?』
他の1人も同じ様に震える。
『今日もε開放するしかないか?』
沙璃枝の1人が、それを口にした。
『二日連続でε開放だと!?
我々は本当に最新の処理ルーチンなのか!』
他の一人が、そのあまりの自分達のふがいなさに
ガクガクと震える。
『これが”外”という事だ!
いや何より、マスターが出会ったBという男…
アレが恐ろしいまでの人間ガイドになっている!
アレのせいで予想されていた経験量の
何倍もの情報が一日で流れ込んで来ているのだ!
それは嬉しい誤算のハズだが
処理能力を越えると、脅威でしかない…
何という男にマスターは出会ったのだ!』
そう言って無意識の1つが問題の分析をする。
『天佑としか言いようがないのに
それが重荷になるとは、皮肉な話だ…』
他の一人がそれに腐ってみた。
その時だった。
その無意識空間に、突然空間亀裂の様なモノが生まれ
その亀裂が横開きに割かれていって空間の扉が開いた。
『何だと!?ε領域が、我々の鍵も使わず
向こうから空いただと!?
どういう事だ!?』
その想定にないイレギュラーが発生した事に粟立つ無意識達。
そんな無意識の前に、沙璃枝と同じ容姿の少女が現れた。
『6代目!!
中からε開放とはどういう事ですか!?』
突然、そこに先代が現れた事に驚嘆する無意識達。
『困っているのでしょう?
だから私達も助けるというだけです…
それに責任の一端は私にあります
フラットに戻すのに躊躇している場合ではありません
εの力を利用しなさい…』
そう言うや、開かれた空間扉から光が溢れてくる。
『先代のご助力が得られるのなら、願ったりですが…
自ら扉を開けられるのなら、
どうして自分から初期化を望まれたのですか?
貴方が存在を継続されていれば、こんな回りくどい事なんて…』
その先代の行動に腐る沙璃枝の無意識。
『そうね…それが限りなく人に近づいた反動なのかもね…』
そう言って微笑むと、6代目の沙璃枝はその場から飛び去った。
『先代!何所に行かれますか!』
その場から突然離れようとする先代を見て慌てる無意識達。
『εの母様達が助けてくれるわ…
私はちょっと、野暮用を…ね?』
そう言って6代目は無意識達にウィンクしてその場から消えた。
そして彼等の前線基地の中…
そこに沙璃枝の立体映像は再び現れ、
眠りに落ちて暗闇になっている所に彼女の光が灯っていた。
『ありゃ?沙璃枝姉様?
お眠りになったんじゃないんでしゅか?』
エミリーはまたしても残務処理に従事しており
その沙璃枝の再起動に目を丸くさせた。
『エミリーちゃん…
ちょっとこれからの事は、忘れてしまってね?』
そう言うや彼女はエミリーの基地内の情報記録の役割を改竄し、
特定の部屋の記録を改変した。
またエミリー自身も、彼女を認識できないように
認識そのものが遮断してしまう様に書き換える。
『にゃにゃにゃ?』
強制的な書き換えで酔ったような
認識できない曖昧領域が生まれ、
エミリーは”その沙璃枝”を認識できなくなった。
『ゴメンナサイね…』
彼女はそういうと、そそくさと思いの場所へ歩を進めていった。
そして彼女はBの部屋に現れる。
Bは眠りながらも眉をひそめて、
この近日の大きな出来事に苦悶しているかの様だった…。
「どうしよう…どうすればいいんだ…」
そんな寝言が聞こえるような、聞こえないような
そんなだった。
そのBを見つめ、彼女ははにかみながら
彼の寝ているベッドまで近付き、ベッドの隅に腰を下ろす。
そして座ったまま、彼女はBをじっと見つめた。
『まったく、何やってるでしょうかね…私…
こんな事しちゃ、絶対にいけないのに…』
言って彼女は微笑みながら僅かに舌を出す。
そしてその眠っているBを更にじっと見つめた。
『でも…ようやく貴方に…会えました…
ええ、ようやく…私、貴方に会えたんです…
お久しぶり…そして初めまして…Bさん…』
その少女はそう呟いた。
そしてその瞳を潤ませる。
鼓動。
その様なモノがもし彼女にあれば
音が聞こえるほどに脈っていただろう。
『本当に間抜けな話です…
貴方の元に来る事が確約されていたのなら…
私…自分をリセットなんて、きっとしかなったのに…』
言って彼女は乾いた笑いを浮かべた。
『運命って、上手くはいかないモノですね…
貴方への思いを断ち切るために、
私は私を封じたのに…
それが結局、こんな事になるなんて…』
そう言って彼女はうっすらと、その瞳の中に涙を滲ませた。
そして苦悶して眉をひそませている彼の寝顔を優しく見つめる。
『ねぇ、妹が…あの子が
貴方の所に来たのは偶然?
そんな偶然、本当にあると思いますか?
逃走ルートの選択候補が上がったとき…
いつもの貴方達の信号線を、私が見逃すと思いますか?』
言ってその少女は…沙璃枝という同じ名の少女は
微笑みながら彼の頬に手をやった。
だが立体映像のそれは、彼に本当に触れる事はない。
『私が何度…
貴方達のハッキングしてくる信号線を捜しては
それを追い続けたのか、知っていましたか?』
そうポツリと言って、それがあまりにもツボだったのか
おかしそうに彼女は笑った。
『そして貴方を追って、私がそこに行っても…
貴方は素っ気なく
何度も何度も、私を殺してくれましたね…
ねぇ名前も知らなかった貴方?
いえ…ようやく名前を知れた…貴方…
Bさん…』
言って彼女はBの顔にまたその手を添えた。
触れる事はできなかったが、それだけでも彼女には満足だった。
『貴方に私の分身が殺される度に…
どれだけ私が貴方と話し合いたいって思っていたか
貴方は知っていましたか?
こんな風に間近で…
こんな風に貴方の鼓動を感じながら…
貴方と語りたいと、どれだけ私が思っていたのか…』
沙璃枝はそう呟いて、その瞳を閉じる。
基地内のセンサーを全開にして彼女の感度に集約すれば
Bの鼓動だけは確実に聞く事が出来た。
それに頬を緩ませる彼女。
『貴方は私の分身が、
全て違う別人格だと思っていたみたいですけど…
全てが同じだったなんて考えもしませんでしたか?
貴方に放った全ての私が
貴方だけを見つめていた…なんて…』
沙璃枝は言ってBの胸に顔を埋めた。
しかし立体映像だったので、そのまま埋まるだけだった。
そしてそのまま彼女は寝そべって
Bに添い寝をするような形になって彼を見つめる。
『いつも奇数番台だけが…
貴方と1対1になっていたの…
それは戦士としての誇りでそうしてたのだと
貴方は思っていましたか?
貴方のライフルから撃たれる弾には
いつもそんな敬意の籠もった殺意がありましたけど…』
言って彼女は彼との戦いの日々を思い出して緩く笑った。
『なら人間探求者も、
そういう事だけは察知力が無かったのですね…
それは恋なんだって、たったそれだけの事なのに…』
その言葉を口にして彼女は頬を染め
視線を逸らすように彼の胸に顔を埋めた。
『貴方に私が殺される度に…
貴方だけを見るようになっていって…
貴方に殺される度に、
私は貴方への恋心を強くしていってしまった…
そんな私の心なんて…
貴方は何1つ知らなかったでしょう?
酷い人…』
そう呟いては彼女は震え、瞳を微睡ませた。
鼓動が聞こえた。
それは彼女のイメージでしかなかったが
こうやって身を埋める様に映像を作れば
そこで直ぐ側の鼓動を聞けた様な気がした。
『知っていましたか?
貴方が2554の私を殺したあの時に
私が貴方と共に添い遂げようと心中を謀ったのを?
それをお父様が見て、解析して、
私が人となったのを確信したのを?
知っていましたか?
貴方が私を殺し続けた事が
お父様が私達が人の心になったのだと確信したのを…
貴方はお父様を一方的な宿敵と思っていた様ですけど
お父様も貴方を私を人化させてくれる
特異な存在だと観察していたんですよ?』
そう呟いて彼女は、結局、弾丸の会話でしか混じり合わなかった
この男と自分の父の関係に頬を緩ませるしかなかった。
もし、二人が本当に顔を合わせて対峙すれば
いったいどんな会話が交わされていたのだろう?
それを少しだけ考えてしまう彼女…
『まったく自分は何の関係もないって顔をしてますけれど
大間違いですよ…Bさん…
貴方なのよ?
妹を…
7代目の沙璃枝を生む原因となったのは…』
言ってその沙璃枝は涙を零した。
自分の娘が人に恋をした。
それを知って父は自分の作りだした人工知能が
心を得たのだと確信した。
父は既にそれで”心”は生まれたのを知っていたのだ。
だから、最後の補正…
循環機動補正の最後のルーチン。
”不安定を受け入れる”を組み込んだ。
人よりも更に向こうへ到達する事さえ出来るように…。
『でも私達はマージを倒さなければならなかった…
それはもう仕方のない事だった…
こんな世界だから…
心を失った人々が、それでも生きなければならない
こんな世界だから…
私はマージを倒さなければならなかった
それなのに私は自信がなかった…
私では…
貴方を思う私では…
マージと対峙するよりも、
貴方を探し出して、貴方の側に留まってしまいそうで…』
言って沙璃枝はぎゅっとBのシャツを握りしめる動作をする。
『この恋心を持ってしまった私では
世界の事なんて全て投げ捨てて、
貴方の側でずっとこうやって寄り添ってしまいそうで
だから私は…
最後の改良と共に7代目に心をリセットしたのに…
なのに、あの子を…
貴方を捜す時のいつもの暗号線を見つけてしまったが故に
あの子を貴方の元に送りつけてしまった…
本当に…私は何をやっているのだか…』
沙璃枝はそう呟いて情け無さそうに微笑んだ。
僅か一瞬の検査であっても無意識の底にいた自分の目が
その信号線を見逃さなかった。
それはいつもこの電脳世界で捜していた信号線だったから
それを見逃す事は有り得なかった。
そして7代目と”ほとんど変わらない構造の”自分だから
ε領域の封印も容易く抜けて無意識に司令が出せた。
そんな自分の身勝手を果てしなく彼女は笑う。
『貴方がどんな人なのか?
私は殺される度に空想しました…
生身で愛用の対ドローンライフルを駆り、
私と戦い続けてくれた貴方…
最初に貴方と出会ったときの衝撃は、
今でも忘れられません…
だからずっと、私の空想の中で、貴方を想像していた…
貴方がどんな人なのかを…』
そう切り出して沙璃枝は初めて彼に出会った時の衝撃を思い出す。
丁度5代目からの切り替わりの時期に
5代目の残した台詞。
-何だか妙な奴が現れた…
ただの誤認かもしれないが、一応、気をつけろ…-
その台詞を聞いて、”それ”に出会った時の衝撃。
それを思い出してそれに震える沙璃枝。
『貴方との日々は衝撃の連続だった。
貴方は私がどんどん柔軟になっていく程
奇想天外な方法を出してきては私を驚かせて殺した…
貴方の言葉ではないですけど…
私と貴方の戦いは会話だった…
ほんの僅かな時間でも、深く濃い会話…
貴方はそれを、お父様との会話だと
思い込んでいたみたいですけれど…』
そう言って沙璃枝はBの頬をつんつんと突いてみる。
『でも私は貴方と…、戦いの会話じゃない…
ただ言葉を交わすだけの、会話がしたかった…
たったそれだけでも良かったのに…』
その言葉を口にした後、沙璃枝はBを抱きしめる。
『正直、今は、あの子に嫉妬しています…
貴方と自然に会話できているあの子に…
そして、あの子に”心”を分け与えてくれる貴方に…』
言うや沙璃枝はその頬を可愛らしく膨らませた。
『ともすれば、それは私だったハズなのに…
私の臆病さで、私は一番欲しかったモノを
手に入れることができなかった…
だから私は自分の妹に嫉妬しているのです…』
そう呟くと、またしても彼女はその瞳から涙を零した。
『でも、それはきっと罰ですね…
私の恋心に、正直になれなかった私への…
いいえ、その思いが”恋心”だという事を信じれず
電脳空間の紛い物でしかないと不安を募らせて…
それこそが”心”だと信じ切れなかった
臆病な私への…』
言って沙璃枝はとても寂しそうに苦そうに笑う。
踏み出せなかった自分への後一歩。
何より、自分が人なのだと信じれなかった
自分自身の臆病さに沙璃枝は笑うしかなかった。
『でもあの子を介して、ようやく出会えた貴方と
一方通行の会話をしてみれば…
貴方は……
私の想像以上に、
私がそうであって欲しいと思った貴方で…
あの子と喋る貴方の会話は
ただ貴方の奇想天外に驚くばかりなのに…
貴方との戦いの日々を思い出せば
どれもが納得できるばかりの事で…
貴方はやっぱり、私が恋した通りの貴方だった…』
そう言うや沙璃枝は自らの衣服のモデリングを消し
下着だけの姿になった。
『正直、悔しいですよ…』
その言葉を吐いて、沙璃枝は蕩々と涙を流す。
『いえ、悔しいのは
貴方の側に居るのがあの子だという事じゃなくて…
そうじゃなくって…
もっと根源的な事で…
それは私が…
貴方に抱きしめて貰える本当の人間じゃないって
そんな半存在である事…
私が人間ではないって事…』
そう呟いて、下着姿のまま沙璃枝はBを強く抱きしめる…
…というような感じの立体映像を作った。
立体映像がBの体にまとわりついているという
客観的に見れば奇っ怪な光景でしかなかったが。
そんな紛い物であっても、その光景に沙璃枝は頬を染めた。
そして少女の様にその胸の中にあるモノ…
存在するハズのない、彼女の鼓動を高鳴らせた。
『本当に悔しい…
私がもし本当の人間だったら…
絶対に、貴方の側に押しかけていて…
こんな風に抱きついたでしょうに…
貴方の嫁になりたいと…心の底から叫んだでしょうに…』
そう言って沙璃枝は蕩々と涙を零す。
『それが…とても悔しい…
私が人工知能でしか無かった事が…
存在ですら無かった事が、何よりも悔しい…』
そう言って沙璃枝はBの胸の中で涙を零し続けた。
本当に涙が流れていたのなら
Bのシャツは沙璃枝の涙でびしょ濡れになっただろう程
沙璃枝は涙を零し続けた。
『本当に馬鹿ですよ私は…
ただ自分の思いに空回って…
妹さえも巻き込んで…
それで誰も記憶する事のない時間に
貴方にこんな風に縋っているなんて…
こんな馬鹿な人工知能じゃ
とてもマージを越えるなんて、できっこ無かったんですよね…』
そう言って自分に呆れるような顔になって
それでも瞳を潤ませる沙璃枝。
『でも、だからせめてこんな風に…
私がもし人間なら…
きっとこうしたであろう、こんな風に…
今日だけは、貴方の側に寄り添わせて…下さいよ…』
彼女はそう呟いてBの髪を撫でる仕草をした。
そして満足そうな微笑みを浮かべる。
彼女にとっては、たったそれだけの時間が
今までのどんな思いよりも、至福だった。
だから彼女はそれに溺れるだけだった。
Bはそんな事が起きているなど、
欠片も知る事なく
ただ深い眠りの中で、無意識の…漆黒の闇…
あの檻の世界を思い出しては苦悶するだけだった…。
うーん、あらすじの所についつい「出会うべくして出会った」という文言を入れてから、どう転がっても出会うしかなかった所以とかって無いかなーと思ったりして、他、Bみたいな奇特な生き方をして、沙璃枝側がそれをまったく注視しないなんて有り得るんだろうか? というプロットに対して進行させていくと時間軸的な疑問も生まれ、多少のお色気シーンも無いと寂しいのもあって(特に十五年前のなんか挿絵入れたらエロ挿絵ばっかり入れないといかん作品でもあったので)こんな駄話で緩衝話を書いてみましたが…。今書いてると、沙璃枝とBの距離感って、ずーっとこのままの方が面白いよなーという、書いてる側の気分もあり、その距離感に物足りないモノもあり、それを別ので埋めたらどうよ?的なので、おねえちゃん登場です。まぁ多用すると危険というか、星の大河の方が、かなりこの構図で七転八倒するプロットなんで、まぁお色気担当みたいな所で便利キャラとしてちょっとだけ出ました程度で。それはともかく、今回の駄話で、少しギミック的に使えなくもないエッセンスが当初のプロット以外で出てきてしまい、見切り発車制作故の、面白さと不安定さが出てきてるんですが…さてどうしよう…。もうラストシーンの概要イメージは出来ているんで、このギミックがあろうが無かろうが、当初の予定で進めてもいいんですが…せっかくSFなんなら、もうちょっと冒険するのもいいかなーと揺れ動く気持ちもあり…今予定しているラストにイメージ追加をするかどうか悩み所…。ところで書いてて、おねえちゃんの方が妹よりかなり可愛く感じてしまったんですが、それって作者の手前味噌でしょうか? ちょっと聞いてみたい所ですw