3.
圧倒的霊威を前に、サンタさんは大きく飛び退る。これは容易く勝てる相手ではないと、超弩級聖人の本能が警鐘を響かせたのだ。
だが距離をとったその先で、サンタさんは腰を落として身構えた。それは断固たる闘争の姿勢、不退転の決意の表明であった。
そうして戦闘の気迫を漲らせるサンタさんに対し、ええじゃないか様は「ふむ」と頷き、軽く肩を竦めた。
「ほな、場所変えよか」
ぱちりと彼が指を鳴らすなり、周囲の風景が一変した。
かっつんも何もかもを置き去りに、舞台は夜の公園、噴水前の広場へと転じている。何の力の脈動も感じさせぬは空間転移であった。48の聖人技にも存在しない、それはまさに神技であった。
サンタさんは、じろりと周囲を睥睨する。
ここが日本に他ならず、また先ほどの場からさして離れていないとは聖人の勘の教えるところであった。
「人は除けてあるけ。何一つ憚らんと、好きに暴れてええんやで」
ええじゃないか様の言葉の通り、周囲には人っ子一人の気配もない。これもまたええじゃないか様の権能なのであろう。そこは外界から隔絶された、一種の異空間と化しているのであった。
サンタさんの全身に、ますますの緊張が張り詰める。
「わし、本来暴力は好かんのじゃけど」
にやりと笑い、ええじゃないか様は手のひら側を天へ向け、人差し指でくいくいとサンタさんを差し招く。「かかってこいよ」。そういう仕草であった。
「殴り合って芽生える友情いうんも、ま、乙でええじゃないか」
その台詞と同時に、サンタさんがずしんと地を踏み鳴らす。それが開幕の合図となった。
「君に聖夜の──」
サンタさんがとったのは、初手よりの屠竜聖拳である。
だがしかし、ええじゃないか様は鈍重なる巨体の竜に非ず。
如何に豪腕、剛力の一打とはいえ、当たらなければ意味がない。いきなりの斯様な力技が、果たして罷り通るか。
「──祝福あれ!」
答えは否であった。
ええじゃないか様は風に押される柳絮のように、拳の数ミリ先をふわりと行き過ぎる。転瞬、まるでスピードを感じさせない滑らかさで、しかしその実驚くべき速度を備えた逆襲の貫手を閃かせる。
身を捻ったサンタさんの喉が、皮一枚で裂けた。
それでも、サンタさんの動きは止まらない。
間合いに入ったええじゃないか様に対し、聖拳とは逆の拳骨が空を裂き走る。それもまた緩やかな動きで回避されるが、その時には次の拳がええじゃないか様へと襲いかかっていた。
それを避ければ次が。それも躱せば更に次が。決して尽きずにええじゃないか様を狙う、飛瀑の如きサンタさんのラッシュであった。
大技を見せ技に据え、サンタさんは得意のインファイトにええじゃないか様を誘い込んだのである。
尋常でない速度でサンタさんは突く。突いて突いて突いて突く。つんと焦げ臭い匂いが周囲に漂う。拳と大気の摩擦熱により生じた異臭であった。
右正拳、翻って右裏拳。左のジャブは牽制で、続いて丸太のような前蹴りが跳ね上がる。
どれも当たれば一撃必殺、ただひと打ちに景教へ転宗させられかねない聖気を帯びたその乱撃は、さしものええじゃないか様もドッジしきれない。最後の蹴りはガードせざるをえなかった。
受けるには受けたものの、体格によるパワーの差は圧倒的であった。サンタさんの強烈な一撃に、彼の体は大きく後方に跳ね飛ばされる。
──否。
ええじゃないか様は、飛ばされたのではなかった。自ら衝撃を受け流して飛んだのだ。ノーダメージである。
しかしサンタさんもまた歴戦であった。
手応えのなさからそうと悟っていたのだろう。ええじゃないか様の着地点へ向けて即座に猛進。わずかの余裕も与えずに間合いを詰めている。
にぃっと呑気な笑みを浮かべて、今度はええじゃないか様も迎え撃った。再びの始まるサンタさんの怒涛のラッシュを、彼もまた連撃によって対応する。
サンタさんの拳がええじゃないか様の手刀を、互いの蹴り足が蹴り足を弾き、噛み合い、腹に響く衝撃音を生む。
一瞬でもどちらかが力負けすれば、読み違えれば、それで一切合切の決着が着く。そんな薄氷めいた拮抗であった。
突く。蹴る。打つ。殴る。払う。
永遠に続くかと思われた無酸素運動は、やがて示し合わせたかのように双方が同時に飛び退って終結する。
すとんと膝のバネだけで軽く着地したええじゃないか様は、「ええ攻撃じゃないか」と微笑んだ。日本人であったなら、「そいつを捌くお前もな」と悪態をついてから、お互い肩を叩いて和解する場面である。
だが地を揺らして着地したサンタさんは、即座にまた重い構えに戻っていた。
悲しいかな、彼は外国籍の方である。日本情緒は解さない。
加えてサンタさんは、一度決めた事をとことんやり遂げる主義であった。でなければ毎年、ただ一晩で世界中を駆け巡るなどという狂気の沙汰は続けられない。
「君に!」
弓を引き絞るように、ぎりぎりと腕が捻られた。
サンタさんの拳が握られた。強く強く握られた。圧倒的な力がそこに凝縮されていく。
またしてもの屠竜聖拳であった。
これまでの応酬から既に、ええじゃないか様に力技、力押しは通じないと知れている。だがそれでも戦いの佳境においてサンタさんが選択したのは、己が最も信頼するこの技であった。
その愚直を、果たして誰が笑えよう。それは彼の執念の形であり、信念の結晶である。
「聖夜の!」
恐るべき巻き舌であった。
めりめりとサンタさんの赤服が盛り上がる。パンプアップした筋肉の圧に耐えかねて、やがてサンタ服は内より爆ぜた。当然のようにズボンは無事だ。
生地を破り露わになったその肉体は、ご存知の如く鋼鉄めいて鍛え抜かれたそれである。たまらねぇ。
飛び散って四散する布切れ糸くずは、直後放射された聖気に打たれて純白の雪と羽毛とに変わる。
露わになった背筋がうねり、盛り上がり、嗚呼何たる事か、それは悪魔の顔を象るようであった。
今の彼は、高速回転する独楽さながらだ。動きのない静寂に似て、しかしその実、恐るべき運動を全身に充填させている。
聖上腕筋。
聖僧帽筋。
聖大腿筋。
聖腹直筋。
各所が脈動し、隆動し、その蠕動は振動として可聴音域に至る。
──聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
歌われるそれは、賛美歌隊数十万名にも匹敵する祈祷強度を持つ聖人の祈り。
限界を超えて空間に蓄積された神聖値が光となって周囲に降り注ぐ。即ち光背、光翼であった。圧縮された信仰心は一切の減衰なく物理エネルギーに置換され、サンタさんの拳を白熱させた。
力とパワーとストレングスを兼ね備えた三位一体がここに顕現する。
これを迎えてええじゃないか様は、胸の前でぱんと合掌の形に両手を打ち合わせ、そのまま拳を握らずに、腰を沈めながらゆるりと前方へ開く。
この戦いにおいてすら徹頭徹尾自然体であった彼が、初めて見せる構えであった。それはサンタさんの恐るべき一撃を逃れずに受けようという姿勢の現れに他ならない。
これもまた、本来ならば愚かとされるべき行為だ。
しかし、あらゆるものを優しく受け止め、そして「それもええじゃないか」と、「それでええじゃないか」と受け入れて微笑むのがええじゃないか様の神としての本質である。
斯様に鋭く、断固として研ぎ澄まされた意志に背を向けるのは、その本質に反する行いであったのだ。
「──祝福あれ!」
音は、後から聞こえた。
父と子と聖霊、尊き三位一体の名において、猛烈な聖気が爆裂した。
見よ。
信仰侵食により、踏み砕かれて飛び散った小石は片端から焼きたてのパンへと変じ、聖歌振動により波立つ噴水の水面は芳醇な香りを放つ葡萄酒へと変わった。
受けたええじゃないか様の手のひらで、膨大な熱が生まれた。衝撃波が爆裂し、二人をグラウンドゼロとして同心円状に大地を抉っていく。爆風がええじゃないか様の髪を、サンタさんのヒゲをはためかせる。付近の常緑樹が、葉を剥がれて揺れ撓った。
だが炸裂したサンタさんの破壊力は、ええじゃないか様を傷つけるには至っていない。
サンタさんの鉄拳は、彼の手の数ミリ手前で停止している。
ええじゃないか様の両掌の狭間に発生した受け流す力が、二者間に発生したエネルギーを捕えて引き込んでいた。
サンタさんのパワーは矛先を逸らされ変えられ、到達点を求めて終わりのない円運動を開始する。
信仰ロジックを経て発現したその力を、ええじゃないか様はそのまま掌中に作り上げた擬似六道にて超高速輪廻。ひと刹那に恒河沙回の回転を経て暴力は信仰へと再置換され、宗旨と方向性を上書きされて功徳に完全転化する。
これにより正方向の因果応報が連続して成立し成立し成立し成立。
結果、累乗的に膨れ上がり後光として可視化するに至った圧倒的にして爆発的な御利益が、ええじゃないか様と、そしてサンタさんへの反作用を無とせしめた。
やがて、風が止んだ。
とん、と。
呆れるほどに弱い力で、サンタさんの拳がええじゃないか様の手に打ち当たった。
固く一念を以て握り込まれていたその鉄拳は、今やすっぽりとええじゃないか様の両手のひらに包み込まれていた。曲がれども決して折れない、それは柳に似た強さを宿していた。
「……」
サンタさんが、膝から崩れる。
彼は負けを悟っていた。著しく消耗してしまった。戦闘続行は不可能ではないが、もし仮にそうしてこの難敵を降したとしても、それで力を使い果たしてしまう公算が高い。
もしそうなれば、一体誰が子供たちにプレゼントを配り歩くというのか。本末転倒甚だしかった。
「ま、そんなに気張らんでもええじゃないか」
ええじゃないか様は、うな垂れるサンタさんににっこりと微笑む。
「過ぎたるは及ばざるが如し、なんて言うての。張り詰め過ぎれば、自分も他人も追い詰めるばっかじゃけ。良い加減が一番じゃ。いい加減やのうて、良い加減。ちょうど良い加減が、ま、一等ええんじゃないかの?」
語りかけに、サンタさんの反応はない。
無論ええじゃないか様も、この難儀にして尊敬に値する聖人を、説破しようは思っていない。
だが、伝えておきたい事はあった。
「ひとつな、ひとつだけええ事教えたる。かっつんはな、あの子は我が身可愛さで逃げたんやない。『誰か助けてください』『誰かクミを助けてください』。そう思いながら走っとったんよ。自分が敵わんのを悟って、クミちゃん助けられそうな人探してたんよ。その『誰でもええから』ゆう祈りが、わしを呼んだんじゃ。それくらい、強い願いじゃったんじゃ」
そう。
あの時、間一髪でええじゃないか様を降臨せしめたのは、かっつんのその切なる願いであったのだ。
ここでようやく、サンタさんが動いた。膝は突いたままだが俯いていた顔を上げ、ええじゃないか様を見る。
彼は思い出していた。
昔──まだ小さな二人の枕元へも、サンタさんはプレゼントを届けている。かっつんはミニカーセット、クミは大きめのテディベアだった。自分が愛した子供たちを、彼が忘れる事は決してない。
だから翌朝、それを見つけた時の二人の無垢な喜びようも、また覚えている。
幼い時分に確かにあったあの輝きは、今はもう失われてしまったのだと思った。
宝物だった玩具が、長ずるに連れ色褪せる仕組みにも似て。時間が人からやわらかな心を奪ってしまったのだと思い込んでいた。
だが、そうではなかった。
決め込んで光を見失っていたのは自分の方だ。自分こそだ。
「皆な、皆失敗して、ちょっとずつ学んでいくんや。少しずつ成長して、上手く歩いてけるようになるんや。転んだ経験のない大人なんておらへん」
そう言って、ええじゃないか様は手を差し出した。
戦いの最中ですら、ただの一度も拳の形を作らなかった手のひらであった。
「あんじょう、肩の力ァ抜きなんし」
サンタさんの巌のような顔から険が抜け落ち、変わりに太く優しい、いい笑みが浮かんだ。
──汝の隣人を愛せよ。
己の欲するを人に求めるあまり、最も肝心な事を忘れていた。それに気づいた瞬間であった。
サンタさんは自らがっしりと、ええじゃないか様の手を取った。
そこへしゃんしゃんと夜空から、澄んだ鈴の音が舞い降りてくる。
サンタさんとええじゃないか様が揃って見上げると、必死の形相で駆けてくるのは真っ赤な鼻を煌々と輝かせたトナカイと、その引くソリに座した一羽のペンギンであった。
このトナカイの名はルドルフ。サンタさんの右足の尊称を持つ偶蹄目シカ科の女の子である。
走力持久力は元より、ソリの微細なコントロールから鼻照明までの全ての技術において、ここ半世紀、他のトナカイに遅れ知らずの才媛であった。
「お迎えやな」
ええじゃないか様が指を鳴らすと、そこにサンタさんのバイクが現れる。
「こいつは後で届けたるさかい、今夜は仲良う帰るとええ」
全トナ連名誉連隊長でもある騎士、ニルス・オーラヴ氏の報告によれば、この年以降、サンタさんのハードトレーニングに適度な休みが加わったという。休日は趣味のバイクに打ち込んでいるのだとの事である。
「今までのミスターは生真面目すぎて息が詰まった。これで少し楽に呼吸ができるよ」
コメントを求められたルドルフは笑って鼻を明滅させ、当のサンタさんは、
「ちょっとくらい休んでも、ま、いいじゃないか」
と、茶目っ気たっぷりにウィンクをした。
うるさ型で知られる全トナ連野党であるが、藪蛇を恐れてか、この件に関しては固く口を噤んでいる。