愚賢問答
蛇のような顔に細長い体をつけた長月典太郎が寝室から起き出して身支度を整え、居間に顔を出すと、昨日遊びに来てそのまま泊まり込んだ真田康一が、持ち込んだノートパソコンを座卓に置いて何やら打鍵音を響かせていた。節制によらない不健康な痩せ方をした中背の友人がかけた度の強い眼鏡の向こうでは、眼が疲労と憤慨を示すように血走り、肌に染みついた隈の奥に沈んでいる。
長月は社会不適応者予備軍に「おはよう」と声をかけた。
客人である小説家は画面から目を離すこともせず、「おう、おはよう」と鬱陶しそうに応じ、それきり家主である魔術師に注意を払おうともしない。
長月は居間と一続きの台所に向かい、冷蔵庫から冷やした水道水を出した。一気に飲み干し、頭をすっきりさせてから、長月は面倒臭そうに問いかける。
「まさかとは思うが、仕事でもしてるのか」
「……いや」と深く息を吐き、真田が長月に顔を向けた。「作品はなるべく家で書くようにしてる。今はちょっと掲示板で議論をな」
真田の浮世離れしたまなざしが長月に茫漠と注がれた。それは眼前にいる長月を見ながらも同時に何か別のもの――それはおそらく視線の主自身の裡にあるもの――を眺めるようなものだった。悪く言えば夢遊病者の朧な瞳、良く言えば考え事をしていて上の空といったところだ。彼の目つきは精神の重心を現実と外界ではなく妄想と内界に置いていることを端的に示している。裡からの衝動か外からの刺激を受けたときのみ浮上する意識。それが真田康一という男だ。
視線を受け止めた長月は、友人が相も変わらずろくでもない人間であることを意図せずして再確認した。
「またか。君も懲りない奴だな。馬鹿じゃないのか」
彼は誰かに論争を挑んではストレスを溜め込む友人の生態に呆れ返らずにいられなかった。
「きっとそうなんだろうな。馬鹿は学習しないって言うし」
真田は悩ましげにかぶりを振った。その態度は長月の目に、まるで素面に返り、宿酔いの苦痛に耐えながら昨夜の過ちを悔む飲んだくれめいて映った。つまり、その場限りで決して後に反映されない真剣さだと、彼は友人の人間性を冷ややかに見抜いていた。真田康一は同じ間違いと反省を何度でも繰り返し、本質的部分において全く悔みも恥じもしない男だ。
真田はちらちらと質問を期待するようなまなざしを長月によこした。長月は嘆息した。
「……で、今度は何があったんだ」
「それがな」と真田がよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに語り出す。「得意気に『戦争という最も冷徹で厳密な領域に哲学なんて曖昧なものは存在しない』とか書いてる馬鹿がいてな。ほら、俺って馬鹿にお前は馬鹿だと言わずにいられない人だから、一言言わずにいられなくて……まあ座れよ、な」
また真田が発作を起こした。そう受け取った長月は、長話に付き合う覚悟を決め、座卓の対面に着いた。これは要するに看護のようなものだ。
「最初は優しく戦争哲学の存在を教えてやっただけなんだが、そしたら、今度は『それは戦争という行為にふさわしくない学問』とか言い出しやがった。で、それを訂正するために、孫子からクラウゼヴィッツから使って、戦争哲学の解説をして……」
「それで泥沼の言い合いになったってわけか」
「ああ」
「馬鹿じゃないのか」長月は呆れを隠さなかった。「本当に馬鹿だな。馬鹿と議論すると賢者も馬鹿になるとは言うが、そもそも馬鹿と議論するつもりになる時点でそいつも馬鹿みたいなもんだ」
「うるさい、一緒にするな」顔を顰めた。「俺も馬鹿だが、あいつらは理解力と思考力の欠如という意味で馬鹿だ。その馬鹿が同類の馬鹿どもと一緒になって、寄ってたかって俺に噛みついてきやがった。ピラニアじゃなかったらイナゴだわ、あいつら。態度も知性も人間にしちゃ動物的に過ぎる」
「落ち着けよ」と拳を握って憤慨する真田をなだめる。「噛みつかれる余地を作った君が悪いんだろう。議論ってのはそういうものじゃないか」
「いや、そりゃそうだが……」と調子が弱まったのも束の間、反論が始まる。「でも、言葉尻捕らえてくだらないいちゃもんつけてくるんだぜ。ちょっと曖昧な書き方するとなんでも悪いほうに曲解したり、全然関係ない問題をさりげなく絡めたりとか……挙句の果てにはちょっと専門用語使っただけで衒学扱いして叩いてきやがる……おかげで話が本筋から離れる一方で議論にならない。引用してる史実が不正確で恣意的だからって『戦争論』を荒唐無稽扱いしたり、分厚い『戦争論』を中身も読まずに、長いからだめだ要約しろって喚いたりするようなもんだ。大事なのはそこじゃない。もっと考えて物を言え。そういう話だ。そもそも学術的議論ってものを理解してないんだ、あいつらは。考えて読むってことができないんだよ。直観できるだけの理解力もないくせに直観的に把握できる表現を求めやがるんだ。ちょっとでも思考が必要なものに出くわしたら、もう自分に考える脳味噌があることも忘れて――実はそんなもん持ってないのかもしれないが――単語を――精々文節単位で――拾い読みして勝手に解釈するか、最初から結論ありきでまくし立てるだけだ。あいつらは先天的にか後天的にか知らんが、絶対に脳味噌か心に障碍がある」
「だから落ち着けって。俺んちで発狂するなって言ってるだろうが、鬱陶しい」静かに始まって激しく終わる独裁者の演説のような調子になってきたので、長月は適当なところで友人の激情に水を差した。「……一つ訊くが、君はもしかして、人々ってものを高く評価してたのか」
「なんだって?」
「だから、君はその不特定多数の人々という集団を、そんなに高く、真面目な議論ができるほど利口な連中だと評価してたのかって訊いてるんだよ。俺からしたら、まずそれが理解できないんだが」
「そりゃ俺だって、人間集団ってもんが賢いなんて思ったことは一度もないよ。人間ってのは個人はそうでもないのに、集団になると途端に馬鹿になるからな。経験と歴史が保証してくれる」
「そこまでわかってて、なんでまた馬鹿に道理を説くような真似をするんだ。対牛弾琴とまでは言わないが、似たようなものだろう」
真田は不満そうに唇を尖らせた。
「言ったろ、俺は王様は裸だって言わずにいられないんだよ。何遍首斬られたってな」
「子供みたいな態度で子供みたいなことを言うなよ」
「上手いこと言うもんだな、お前。『裸の王様』だけにか」
感心したように指摘してくる友人の躁鬱じみた態度の起伏に、長月は微かな頭痛を覚えた。自我肥大が極まって自壊に向かいつつある悪魔と対話しているような気分だった。あの手の存在は首尾一貫というものを知らず、そのときそのときの瞬間を捉えて反射的な思考と反応を示し、話し相手を困惑させるのだ。
「そういう意味で言ったんじゃない。結局はそうなるのかもしれないが……それにしても、『愚者は教えたがり、賢者は学びたがる』って言葉くらい知ってるだろうに」
眼鏡の奥の血走った瞳が不快そうに揺れた。
「お前、俺が『寝床』の大家だって言いたいのか……下手糞の分際で他人に義太夫聞かせたがったあの大家だ、と」
「そう悪く取るなよ。俺はこの言葉の別の解釈の話をしたいだけだ」
「……じゃ、その解釈とやらを言ってみろよ」
真田の目つきは自分を丸め込もうとする詐欺師ではないかと相手を疑う老人のようだった。疑い深くて頑固。成熟を欠いた老衰。二十代半ばの自分と同い年のくせにそのような精神的在り様に至った友人の姿を目の当たりにし、長月はただ苦笑するしかなかった。
「おい、何がおかしい。やっぱり馬鹿にしてるんだろ、お前」
「違う違う。ちょっと思い出し笑いをしただけだ。気にするな」澄まし顔でごまかして話を進める。「君がパソコンの前で発狂してるのを見てきた中で思いついたことが今さっきまとまったんだよ。人間なんて物分かりの悪い連中に物を教えること自体が愚行なのかもしれないなあ、と」
真田は一転、思慮深い顔つきになって小さく何度か頷いた。
「……なるほどな、言いたいことはなんとなくわかった。つまり、あれだ、馬鹿に道理を説くのはそれこそ馬鹿のすることで、賢い奴は磨けば磨いただけ光る自分を磨いて他人なんかほっとくってことだろう」
「まあ、そんな感じだ。とにかく、大衆なんてものに期待するのはよせよ。みんながみんな君ほど無駄な知識を頭に詰め込んでるわけじゃないし、無駄な考えに耽る時間に恵まれてるわけじゃない。知識も時間もあったとしたって、君ほど考えを煮詰める忍耐力があるとは限らない。君はみんなじゃないしみんなは君じゃない」
「そんなことはお前に長々説教されなくたってわかってる。そうだ。どうせ俺はただの衒学だ。労働も現実も投げ捨てて妄想の世界に浸りきって、金に困ると妄想の欠片を切り売りするクズだよ」
真田は投げやりに言い、眼鏡を取って目頭を揉んだ。不貞腐れ始めているのだと長月にはわかった。自分が間違っているのだと薄々理解しながら認められず、勝手に雁字搦めになって、何一つとして建設的な動きをできずにいるのだ。
優しくなだめ、励ますような声を渋面の友人に投げかける。
「まあ、君がクズかどうかはさておき――評価は多面的だからな――わかってるんならわかってるなりの振る舞いをしたらどうだ。行動に反映しないならどんな理解も無理解と一緒だぞ。俺を見ろよ。素人なんかに何も期待してないから、頼まれなきゃ魔術の深い話なんかしないし、頼まれたって、難癖つけたいだけの奴と理解力のない奴はさっさと切り捨ててる。理解されなくても、怒りも悲しみもしない。俺が自分から魔術の話をするのは、同業者や君みたいに知識のある奴や本気で興味を示してくれる奴だけだ。大衆の啓蒙なんてのは、本気でそれに人生傾ける気のある奇特な奴に任せとけ。そういう意味じゃ、真剣に大衆を導こうとしたイエスなんかは愚かだった。尊敬には値するが、豚に真珠の価値を理解させようとがんばったのはやっぱり徒労だった。真理を得てそのまま入滅しようと考えたシッダールタは賢かったと言わざるを得ないね」
「大袈裟な奴だな。キリストや釈迦まで持ち出さなくたって、お前の言いたいことくらいわかるよ」眼鏡をかけ直すと、難しい顔で壁を睨んだ。「わかる……わかってるんだが……俺は馬鹿が識者面してるのが我慢ならないんだ」
「……君はあんまりいろんなことに興味を見せないせいでリアリストかプラグマティスト、そうでなかったらニヒリストに見えるが、実は関心のあることに関しては、ポル・ポトやヒトラーも真っ青のイデアリストなんだよな。理想に反するものが許せないんだろう。過激派だ」
「誰だって、自分が思いどおりにしたいと思ってるところじゃ、思いどおりにならないものに憎悪を燃やすだろうよ」
「そりゃそうだ。でもな、普通の人はそこで理性と自制心を働かせて踏み止まるだろ。内心の自由を行動に反映させない。他人が何を考えて口に出すのも自由、他人に考えを変えさせるのは難しい、自分の言葉には何の強制力もない、とでも納得して合理化してな」
「俺の知的生物としての生理的問題なんだ。本能なんだよ。理性じゃないんだ」
「本能?」長月は冷笑した。「おいおい、馬鹿なこと言うなよ。本気でそうなら、君はただの気違いだ。医者にでも相談しろ。そういうのはパラノイアの発想だからな。先天的か後天的か、天然か演技かは他人には関係ない。それらしく見えるってことはそれと見做すのに十分な根拠だ」
真田がレンズの枠外から視線を投げかけ、長月の顔をいやらしくねめつけた。
「なら、熱血教師はみんなパラノイアか。つまり、教育に理想を持ってて、子供をそれに沿って育てようとする教師のことだ」
友人の態度が癇に障り、長月も睨み返した。血走った視線と冷ややかな視線が見えない火花を散らす。腕っ節で言えば発育旺盛な中学生にも劣り、霊的位格ではある意味見習者にすら劣る真田は、しかし魔術師の眼光に怯みもしなかった。見つめられた者の精神を不快にざわつかせる淀んだ瞳は、何事もなかったように、依然として長月をいやらしく見据えている。
「お前の言った定義から言って、他人が自分の理想に反することが許せないってのはパラノイアなんだろう。だったら、子供を枠に嵌め込もうと躍起になる教師なんて、まさにそれだろうが」
「つまらない屁理屈捏ねるなよ。それは君がいつも敵視してる連中と同じやり口だぞ」
正当化の言葉を探しあぐねたのか、あまりにも屈辱的な指摘で思考が麻痺してしまったのか、真田は言葉に詰まった様子で空しく口を開閉させた。その隙を衝いて長月は諭すように続ける。
「教師は報酬や名誉のある――責任もある――社会的要請有っての仕事だ。権威もある。だがな、教師だって、教育対象以外を啓蒙するのが自分の使命だと思い込み始めたら、君の言うとおりただの気違いだ。教師でなくたってそうだ。誰だってそうだ。本分に外れない限り、理想の追求も強制も好きにすればいい。君の在り方がパラノイアじみてるっていうのはな、いつも言ってるように、何の権限もなければ権威もない君が、どこの誰かもわからない他人の『間違い』に勝手に腹を立てて、頼まれもしないのに正しにいくその姿勢の話なんだよ」
「ぐうの音も出ないってのはこのことだが……」真田は唇を苛立たしげに引き結び、言葉を探すように目を泳がせた。「だが、そういう奴がいなきゃ世界はそのまま腐ってくだけだろう」
「世界」長月は失笑した。「大きく出たな、そいつはまた」
「まあ聞けよ。ブラフマーやヴィシュヌだけじゃだめだ。要らんものを破壊するシヴァも必要なんだ。本人の自覚の有無を問わず、単なるシステムとしてな。違うか、長月」
口にする本人からしていくつも存在する穴を自覚して弱気な顔をするような理屈に、曲がりなりにも魔術師として知性と精神を磨いた長月が動じるわけもない。
「お説はごもっともだな」と冷淡に言い返す。「しかしだ、シヴァがパラノイアである必要は……もっと言えば、シヴァが怒りに任せた破壊者である必要がないだろう。そうであるかもしれない、だがそうでなければならないわけではない。そうじゃないか、え? シヴァが何か君の気違いぶりの正当化になるのか」
真田は懼れていた指摘を受けたというように顔を引き攣らせたが、まだ悪足掻きを続けるつもりのようだった。目が負けを認めているが、態度はまだ抗戦意志を失っていない。
魔術師として培った人間観察力からと言うよりは、むしろ長いとは言えないかもしれないが決して短くはない付き合いから、長月は真田がどういう気持ちでいるのかを察した。真田は負けたがっている。真田康一は負けるために戦いを続けているのだ。
機能を失って形骸と化した砦を名実ともに叩き潰すべく、長月は更に攻勢をかける。
「それに、どうせ君のことだからな、そんな使命感で動いたんじゃないだろう。そうに決まってる。君はただ気に食わない奴を観念的に殴りにいっただけだ。そういう奴が全体を持ち出して自己正当化するのは見苦しい限りだな」
「……確かに、それは自分で言うべきことじゃなかったな。そこは認めるしかない。我ながら馬鹿なことを言ったもんだ」長月の指摘に真田が追い詰められた偏執狂のように口元をひくつかせた。ずれてもいない眼鏡の位置を直し、神経質な顔で爬虫類的な顔を力なく睨む。「だが、行為の是非は動機だけで決まるものじゃないだろ。人を騙そうとしてる詐欺師を追い払うのが正義のためだろうと単にそいつが気に食わないからだろうと、それで詐欺師が失せるならどっちだっていい。そういうことじゃないか」
「それで追い払えるならな。だが、君の場合はどうだ。したり顔でしゃしゃり出て、余計に話をややこしくするだけだろうが。詐欺師の仲間みたいなもんだ。君は正しい。だが正しいだけだ。それを伝える能力も、理解を強いる権威も、君は持っちゃいない。そんな奴が人々に向かって何を訴えられるって言うんだ」
「だがな、話の中身をちゃんと見れば――」
長月は往生際の悪い反論を遮り、苛立ち混じりに言い返す。
「見られないから大衆なんだよ。わかってるだろう、君だって。自分で考える頭があるようなら、そもそも君が何か言うまでもないんだから。大体、相手を見縊っておきながら、いざ都合が悪くなるとそうやって相手の無能を責めるってのは、ダブルスタンダードがどうとか言うまでもなく卑怯だぞ」
雪崩のような指摘に長月は反撃もままならない様子だった。論駁の言葉を探すように口を閉じては開き、血走った眼を躍らせるのみだ。
長月は更に攻め込む。
「大衆は口の上手い奴に丸め込まれるか権威に保証されるかしなければ、自分で何かを見極めることさえできない。つまり、大部分の人間には自発的な判断力なんてありはしないんだ。まあ、悪いことじゃないがね。君はよくわかってると思うが、世の中の人は俺達と違って忙しいから、余計なことを考える暇がないんだ。だから、本当に人々を啓蒙したいと思ってるんなら、どんなくだらない発言でもとりあえず真面目に聞いてもらえるだけの権威を持つか、どんなに疑い深くて反抗的な奴でも丸め込むコミュニケーション能力を身につけるかしろ」
長月は言葉を結んで真田の反応を待った。座卓を挟んだ対面で沈黙するその青白い顔をじっと眺める。
「無茶言うなよ……」
意味もなく眼鏡をいじりながら、真田はようやくそれだけを言った。
「コミュニケーションは、まあ、無理だろう」長月はあっさりと同意して笑った「本当の意味で他人と話す気がろくにないような奴が、そんな能力を鍛えられるはずがないからな。今だって、君は俺と話してるんじゃない。俺を通して自問自答してるようなものだ。そうだろう」
真田は答えない。生白い顔に浮かぶ表情は相変わらず苦々しい。
「君の場合はペンネームでも明かせば少しくらいは権威が出るだろ。俺は康田真一だってな。やってみたらどうだ」
「冗談じゃない」真田は忌々しげに吐き捨てた。「そんなことして何になる。権威が出ても本当に少しばかりの上、逆に『その程度の奴が偉そうに』って馬鹿にされるのがオチだ。せめて五代さんくらいじゃなきゃ身元明かしても逆効果だ。俺は社会に認められた専門家じゃないんだ」
「五代さんってのは、ミリタリー小説の人だったか。いつだったか、君に何冊か貸してもらったっけ。結構面白かったから、新しいの出たらまた貸してくれ」
「ああ、わかった。貸してやるから話の腰を折るな……話を戻すが、あの人なら一応看板があるし、まだ話くらいは聞いてもらえるかもしれない。でもな」とまた吐き捨てるように語気を荒げる。「結局な、あの愚民どもは、こっちが仮に防衛研究所の所員だったって、真面目に話なんぞ聞くわけねえんだよ。ああいうとこで敵対的に権威を持ち出す奴は、そもそも馬鹿にされると決まってるんだから。あとになって冷静な連中から、あいつはいいこと言ってた、なんてありがたい評価のお言葉をいただいたって、そのとき話しかけてる相手に理解されなきゃ何の意味もありゃしない」
ひとまず言いたいことを吐き出し終えたか、それとも普段人と喋っていないことが祟ったか、真田は演説をやめて息を整え始めた。息遣いの荒さと肺呼吸の激しさを見るに、きっと後者であると思われた。
「つまり」と長月は対照的な平静さで総括する。「丸め込む努力をする気もなければ、身元を明かす意思もないが――要するに理解させる努力は欠片もしたくないが――俺のことを理解しろって言いたいんだな」
「……そうだ」軽く咳払いをして調子を整え、真田は悪びれもせず認めた。「そうやって悪しざまに言うからわがままに聞こえるが、実際、人間ってのは理解する努力をすべきなんだ。せめて、相手に何か意見をぶつけるときくらいはな。相手が何を言ってるのか考えもせずに言葉をぶつけるんじゃ、キャッチボールどころかドッジボールにすらなりゃしない。語りえぬことならぬ解しえぬことに、それをどうにか理解しようとするんじゃなければ、人はおとなしく沈黙すべきなんだよ」
「それは理解されたい奴の勝手な言い分だな」長月は鼻で笑って切り捨てた。「甘ったれるなよ。少しでも理解されたいんなら、理解されるように振る舞え」
「そうじゃない」苛立たしげに真田がかぶりを振る。「そうじゃない。違う。俺が言いたいのはだ、理解できないなら無視しろ、何か言い返すなら最低限内容を理解してからにしろ、ってことだ」
長月は今度は声を上げて笑った。たっぷり十秒以上も静かに冷笑した。その間、真田は口を開かず、疑い深いまなざしを向けながら憮然としていた。
「悪い悪い」と笑いを噛み殺して誠意のない謝罪をして応じる。「本当に、君は人間なんてものを随分高く買ってるんだな。石を投げて、それができる奴とできない奴のどっちに当たる率が高いかで考えればわかるだろ。君の言い分はないものねだりだ。現実を見ろよ。人々に何かを語る者は、当たり障りのないことを言うか、理解されるように手を尽くすか、理解させるだけの権威を持つか、大勢に石を投げられながら一握りに語りかけるか、注意深い相手だけが気づくように表面にメッキをかけるか、だ」
「俺に都合の悪い現実なんか知るか。糞喰らえだ」真田は鼻を鳴らした。「都合の悪い現実なんか無視だ。都合のいい理想に溺れて生きて、現実から目を背けて死んでやる」
「君のそういう後ろ向きな覚悟で凝り固まったところは割と好きだが、物事の結果は非情だからな。結局、諦めて黙らないと言うのなら、君は石を投げられるかメッキをかけるかを選ばなきゃならない。と言っても、石のほうはネットの匿名議論で、メッキのほうは作品で、もうやってるな。所詮は小説っていうのは、昔から便利な方便だと思わないか」
真田は頷いた。
「物語も、音楽も、絵画も……およそ創作物なら何だって昔っから、主義主張を密かに広めたり、逆に大っぴらに言えないことをこっそり伝えたりするのに使われてきた。だが、それじゃ曖昧だし、馬鹿馬鹿しい話だが権威――重み――が足りない。どこそこの教授が言ってるってのと、漫画に書いてあるってんじゃ、やっぱり印象も変わる。前に実験したことがあるが、ある学説をネタにした漫画を参考資料として示してみたら、案の定馬鹿にされた。それに手間もかかる。お前だって魔術師なんだから当然知ってるはずだが、寓話ってのは読むのは楽でも作るのは大変なんだ。だから結局、重みや正確さのためにはどこかの段階でそのものを論じなきゃならないし、楽な作業じゃないからちょっとした議論でいちいちそれをやってなんかいられない」
「その辺りをいちいち講釈してもらう必要はないが……なんにせよ、理解されるように手を打つか、石を投げられながら喚くかしかない。それが語る者の宿命だろ……まったく、話を何度堂々巡りさせたら気が済むんだ、君は」
「手を打つ気はないが、石を投げられたくもない。この虫の良すぎる希望を上手く満たす答えが欲しいんだよ。馬鹿のために努力なんかしたくないし、馬鹿に馬鹿にされるのもまっぴらだ。ついでに言えば、馬鹿にお前は馬鹿だと言いたい」
熱病に浮かされたような言葉に長月は冷ややかに応じる。
「解なしって言葉を聞いたことないか」
「聞いたことがあるし、肉筆で枠の中に書いたことだってあるよ」
「なら、そういうことだ」
真田は口元を歪めて舌打ちした。
「厭味な奴だな」
「そう言われてもね」長月は友人の悪態に肩を竦めた。「結局のところ、匿名対匿名で言葉をぶつけ合うなら――そうでなくてもだが――条件は大体五分五分だ。相手に理解されることを期待するなとは言わないが、まず理解されるための努力が必要だ。これはどうやっても否定できない。それをしないなら、とどのつまり、君なんかは単なる口下手な名無しでしかない。そりゃ叩かれるし馬鹿にもされるさ。諦めろ」
「馬鹿のために努力する……馬鹿に馬鹿にされる……」
顰め面で呟いた。何か考え事をしているときの真田の癖だ。
微かな声を捉え、長月は目配せで先を促した。真田が気づき、応える。
「結局さ、馬鹿に何かを語るなんてことは、それこそ馬鹿のすることなんだな。馬鹿らしすぎる」
「だから最初からそう言ってるだろう。愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。つまりは尊敬すべき愚者とそうでない愚者がいるだけだ。賢者のほうもそうだ。尊敬に値するのとそうじゃないのがいる」
真田はいかにも疲れたように溜息をつき、からかうように笑った。
「なんだよお前、話の堂々巡りがどうとか偉そうに言ってたくせに、お前のほうこそ着地点が出発点じゃないか」
長月はつまらない軽口には付き合わなかった。小馬鹿にするような目つきで真田を眺めた。
「満足したか」
「……まあ、な。すっきりはした。うん。ありがとう」
長月はわざとらしく嘆息した。
「論破されるために議論を吹っかけるってのは随分とたちが悪い……と言うより、あまりにも人を馬鹿にしてるな」
「わかってて付き合ってくれるんだから、お前はいい奴だよ」小さく笑った後、言い訳がましく続ける。「でもな、実際、人間ってやつは、自分が間違ってるって気づくのは簡単なんだ。つーか、気違いでもなけりゃ、最初からわかってるんだよ、自分がおかしなことやってるなんてことは。そして、深層心理じゃそれを正したいとも思ってる。間違いだと証明してほしがってる。ところがだ、わかってはいても、自分で自分を正すってのはなかなかできない。たとえそれが長期的な自己肯定につながるんだとしても、自己否定ってのは難しいんだ。わかるだろ」
「遠回りな自殺に付き合わされるほうはたまったものじゃないがね。俺達は君の踏み台じゃないんだぞ」
「そこは悪いと思ってるよ。だが、お前はお前で何か得るものはあったんじゃないか。お前も含めて、俺とつまらないことで話し込んだ奴はみんなそう言うだろう」
「否定はしない。癪に障るが、君が俺を通じて君と話すように、俺は君を通じて俺と話してるのかもしれない」
事実、この会話からも、長月は己の精神の奥底で何か新しい洞察が萌芽しつつあることを感じていた。否定されることを目的とすることと相俟って、真田の主張はしばしば極論と呼ぶのもおこがましい愚論と化すが、一定の価値観を持つそれは、弁証法の一方を担うにふさわしいものを内包してもいるように思えた。
真田は笑った。
「なんだそれ、結局、本当の意味じゃ俺は誰とも話せないってことか。ひどいこと言いやがる」
「今のところ、それが君という人間の本質なんだよ。さしずめ君は丘の上に住む愚者だ。根本的なところで君は、誰の声にも耳を傾けず、誰にも耳を傾けてもらえない。そのくせに、時々人恋しくなる寂しがりやだ。本当に嫌なら、少しは改善してみたらどうだ」
真田が少し真面目に考える顔をし、首を振った。
「そこまでするほどのことじゃない。魅力はあるがな……牡丹餅が降ってくるのを口開けて待つよ」
長月は表情を緩めた。
「結局、君はどこまでも自分本位なわけだ。わがままだな、本当に」立ち上がる。「朝飯食べようか。何かリクエストあるか」
「そうだな……ホットケーキ食いたい」
「ああ、シャケがあるから、あれ焼こう。ご飯は冷凍しといたやつでいいか」
面倒な注文を無視し、長月は勝手に結論を決定した。
「おい」と真田が目を剥くが、長月は意に介さず台所に向かった。わざとらしい舌打ちが長月の背に当たって撥ね返った。
冷蔵庫から食材を取り出して振り向くと、自分だけの現実を生きる友人は再びパソコンに向かい、軽快ではありながらもどこか鬱陶しい打鍵音を響かせていた。
ごはんの冷凍パックを電子レンジに放り込み、換気扇を回し、フライパンをコンロに載せて火にかけてから、冷たいまなざしを向ける。
「……何やってんのよ」
「さっきの馬鹿がまた偉そうに演説始めたから、ツッコミ入れてやろうと思って……」
長月は盛大な溜息をついた。
「君は実に馬鹿だな」
「馬鹿で結構」真田は鼻で笑った。「結局、俺はこれが楽しいんだ。賢者になってつまらん思いするくらいなら、馬鹿になって楽しい思いするほうがまだましだ。俺は賢く在りたいんじゃない。楽しく在りたいんだ。もっとも、性格や態度の話であって知能の話じゃないが」
「そうかよ」
呆れを隠さず応じ、長月は温まったフライパンに切り身を二切れ載せた。鮮やかな紅色をした身の焼ける音が微かに響き、香ばしい匂いが一筋上る。
唇の裏側で呟く。
「……まるでキリギリスだな」