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【短編】Werewolf:Strike

作者: 樊城 門人

残酷なシーンが一部あります。ただハードボイルドを逸脱するほどの描写ではありません。

万が一のためにR15制限をかけましたので、どうぞご理解願います。


 マキエミリは、そのうらびれた場末の酒場に入ってきた二人組をじろりと睨めつける。二人組はカウンター席に腰掛けると、彼をいないもの扱いにして喋り始めた。もしかしたら気付いていないのかもしれない。

 どちらでもいいことだった。借りは返すだけの話だ。マキエミリはのっそりと立ち上がると、中身が入ったままの容器を片手に引っ掴み、二人組の背後へと廻った。

 虚無的な双眸をしたバーテンが、彼をうすぼんやりとした瞳で見つめた。酒の臭いがする。強張る身体を解さなければならなかった。

 容器に唇を付け、エールを腔内に入れる。やっと二人組の片方がこちらを振り向いた。怪訝そうな瞳。見方によっては酷く純粋そうにも見える。

 マキエミリは静かに嗤った。「お前は知ってるか」

「何を」

 男が言った。もう一人も首を回して、こちらを見た。蒼い瞳が合計四つ。マキエミリは口笛を吹いた。

「借りというものは、返さなければならないもんだ」

 彼はガラス製の容器を左側の男に叩きつけた。ガラスが砕け散る硬質な音と共に、男は顔を血まみれにして床に倒れこむ。もう片方の男が奇声と共に殴りかかってきた。マキエミリはよろけるように後退した。拳が空を切る。男の脚を引っ掛けると、彼は転んだ。股間に蹴りを叩きこむ。その部分に血が滲んだ。

 場に、水を打ったような静寂が満ちる。

 バーテンが物言いたげな視線を向けてくるのを感じて、マキエミリは懐から紙束を放り投げた。バーテンはそれを受け取り、また仕事に戻る。よくあることだと、態度で示すようだった。

 自然と、客たちも興味を無くす。マキエミリは倒れこんだ男から、煙草の紙箱を取り出すと、一本抜き出してライターで火を付けた。

 流れていく紫煙に目をやりながら、彼は目を細めた。

 酒場を出る。路上に重苦しい影がたちこめ、湿気を含んだ風が頬を撫でた。空は、天蓋を覆うような鉛色だった。

 彼は歩き出す。どこへ行こうというものでもない。用は果たした。それだけのことだ。

 両側に並ぶ建築物は時代の名残を表すように、古めかしい。観光者はこの景観を有難がる。長く住んでいるものとしては、よく分からない。三角窓が人の口に見えた。

 石畳で出来た川沿いの道を歩いている内に、彼は水面へと映し出された自らの顔を視界に入れた。

 疲れたような男、というのが第一印象だった。人生に、仕事に、闘うのに。何でもいい。そういう顔だ。先程痛めつけた連中とは対照的。

 それでいて体付きは歴戦の戦士のような雰囲気を醸し出している。広い肩幅。無駄な場所には付いていない引き締まった筋肉。

 顔貌と相まって、マキエミリは“タイアード・ウルフ(疲れた狼)”と呼ばれることが多かった。忌み名だ、と彼は思っている。嬉しいことなど何一つもありはしない。

 疲れた狼はその身体をしっかりと構えながら、川沿いの道を下って閑静な住宅街に入ると、ある一軒家の門を叩いた。

 木製の扉が外に開かれ、白いドレスシャツと黒のスラックスに身を包んだ青年が出てくる。彼は表情を歪めると、言った。

「終わったんですね」

 マキエミリは茫洋とした瞳を青年に向けた。何もない。何も、そこにはなかった。青年が俯く。疲れた狼は答えを返した。

「劇はお終いだ。役者は退場するとしよう」

 青年は重く頷き、脇に抱えていた紙袋を彼に差し出した。狼はそれを、導火線に火が付いたダイナマイトに触れるかのような慎重さで受け取った。青年が怪訝そうな顔をする。

 マキエミリは嗤った。自分に対して。青年に対して。そして報いを受けた二人組に。青年はこの空と同じような、重い声を発した。

「罪深いのかも知れません。僕は」

「俺には、分からない。それは君の行いだし、俺はこういうことに関して迷うことはない」

 彼はすっかり縮んでしまった煙草を片手で地面に落とすと、続ける。

「しかしそれでもと。“それでも、と”。君は思ったんだ」

 青年はその言葉に少し考える素振りを見せると、空を見上げた。変わらなかった。相変わらず見ていると気分が悪くなるような曇り空だった。

「そう、ですね。そうなんだろう」

 かぶりを振ると、二人は最後に握手をして別れた。木製の扉が閉まる。マキエミリは嘘を吐いたことを少し後悔した。

 ――救いは、ない。恐らく希望もない。迷走と絶望が迫りくる壁のような圧迫感で迫ってくる。

 確かな実感だった。生きているからこそ迷っていた。何もかも捨てることができず。マキエミリは強くなかった。背を向けられるほどには、切り捨てられるほどには。

 彼は歩き出した。求めるように。棄てるように。子羊のように。




  【WEREWOLF(ウェアウルフ)STRIKE(ストライク)



 天気予報は当てにならない、とその女は言った。肩口まである銀髪。瞳は切れ長だが、鋭い印象はない。眉目自体は整っている。女はウェザー・リポートと名乗った。

 ウェザー・リポート(天気予報)。男――マキエミリはふざけた女だと思った。彼女がカフェの手洗い場から出てきたのを見て、彼は眉を歪める。女は近づいてきて、言った。

「今度は、何を言われるんだろうって思ってるでしょ?」

 マキエミリはコートの懐から煙草の紙箱を取り出すと、そこから一本引きぬいた。女の視線が所作に絡みつく。マキエミリは答えた。

「いや、もっと酷いことだ」

「例えば」

「俺は頭のおかしな女を拾ってしまったのではないか、という疑念さ」

 眼前の女、ウェザー・リポートは肩を竦めて微笑んだ。静謐さが似合う女だった。彼女は言った。

「自分で自分のことを把握できている狂人なら、別にいいと思わない?」

 疲れた狼は口に挟んだ一本に火を付けようと、懐を探った。瞬間、その顔が歪む。女はそれを見越してパンツスーツのポケットからマッチを差し出した。

「はい」

 マキエミリは首を傾げながらマッチを擦った。妙に気が利く女だ。煙草に火が付く。肺に目一杯煙を吸い込んだ。

「そういう狂人は、大抵はとんでもないことをやらかす。自分の理性と獣性が混ざってしまった奴は、もう生きていけない」

「詩人さんみたいなことを言うのね」

「ただの経験則さ」

 煙を吐き出す。ウェザー・リポートは両手を組み合わせ、こちらを友好的に見つめていた。彼はなんとなくバツが悪い思いを味わい、まだ半分も吸いきっていない煙草を灰皿に押し付けた。

「ウェザー・リポート。君は腹は減ってないのか」

「ん、そうね。直裁的に言えば、その“言葉を待っていた"というところかしら」

「まったく」

 マキエミリは目を細めて、皮肉げな笑みを浮かべた。女はそれに怒りもせず、ただ月光のような微笑みを口に貼り付けているだけだった。

 彼はメニュー・ボードを彼女に差し出す。女は言った。「あなたは」。男は答えた。「いらない」。

 ウェザー・リポートが幾つか注文すると、男はウィンドウを見た。晴天。ここから睥睨できる街並みは、古めかしくもそれなりの風情があった。

 視線の焦点を内側に絞ると、自らの顔が見えてくる。嫌いな男だ。特に面が気に入らないなとマキエミリは思った。それでも、もう何十年と付き合ってきた。

「雨が降るわね」

 不意に、女が言った。男は顔を曇らせた。

「TVの天気予報では、そう言っていなかった」

「あら、そう。でも“天気予報は当てにならない”のよ?」

 ウェザー・リポートはそう呟いて、くすりと笑った。マキエミリはその笑みに、路地裏に射す一筋の光を連想する。

 やはりそういう女なのだ。日光のような華やかさがある女ではない。晴れ晴れとした心地よりも、心安らぐ感じを送ってくる女だ。

 彼は嫌いではなかった。

 やがて運ばれてきたメニューを彼女は優雅に、軽く平らげた。女でも腹が空けば沢山食うものだ。狼は気怠そうに椅子へ背を預けた。

「部屋へ戻るか」

「他に行きたいところは無いかって聞かないの?」

「タクシーを拾ってやる」

「甲斐性なし」

 じゃれ合いのような会話だった。マキエミリは伝票を持って立ち上がる。その後を数歩遅れて女が追った。

 会計を済ませてレストランを出ると、路肩に停めてあった彼の愛車のワイパーに、小さな紙が挟んであるのをマキエミリは見つけた。

 辺りを見渡しながら、そろそろと近づき、紙を取る。

 ――事件屋への依頼。報酬はたっぷり。ウェトランド中央広場の噴水にて一四時ちょうどに会おう、ミスター。

 堅苦しい筆記で妙におどけた内容が書かれている。男は紙をくしゃくしゃに丸めると、懐へと突っ込んだ。背後から女が話しかけてくる。

「どうしたの」

「なんでもない。君には関係ない話だ」

 片手で口をなぞる。ケチな仕事ではない。本格的な依頼だ。事件屋の血が騒ぐ。

 彼はひとまず自動車の運転席に乗る。助手席にウェザー・リポートが乗り込んできた。男はカー・ステレオを付けた。ジャズが流れる。

 そしてアクセルを踏み込んだ。丘の上を道路に沿って下っていく。それにつられるようにして、景色が身近になっていった。

 しばらくして景観が移り変わる。欠けた櫛のような街並みから、並列した比較的近代的な街並みへ。

 マキエミリはその一角に愛車を停めた。隣には古びたコンドミニアム。六階建てだ。彼が停めたのはそこの駐車場だった。

 車から降りると、男はコンドミニアムに入り、ロビーからエレベーターへと乗った。女も一緒だ。エレベーターは音を立てながら急上昇し、四階で止まる。

 一室の前で立ち止まると、彼は鍵を差し入れて扉を開けた。簡素な調度品でまとめられたモノトーン調の部屋だ。

 中に入る。そのままリビングのテーブルからオイルライターを取ると、彼は出ていこうとした。ウェザー・リポートが声をかける。

「せっかく帰ってきたのに」

「仕事さ」

「何時には戻ってこれる?」

「分からない」

 素っ気ない調子で返答し、彼は一呼吸置いてから続けた。

「携帯電話は持ってるな。あとで連絡するよ」

 女が頷いたのを確認するとマキエミリは部屋から足早に出ていった。

 エレベーターで駐車場に降り、愛車に乗り込む。キーを差し込んで捻ると、エンジンが猛牛の雄叫びのような音をあげ、発進した。

 それから二〇分。街の中心部に辿り着く。ここからは自動車の進入は禁止になっていた。近くの路肩に自動車を停めると、彼は石畳の道を人に紛れるように進んでいく。

 中央広場はそれなりに観光客で賑わっていた。中央の噴水を中心に屋台や教会、カフェテラスが並んでいる。彼は腕時計を見た。時間まではあと一五分ほどある。

 噴水近くのベンチに座りながら、マキエミリは辺りをさりげなく観察した。軽薄そうなバックパッカーにカメラを持った東洋人、品のいい老夫婦は教会の尖塔を見上げていた。

 特に、おかしいところはない。広場はいつも通りだった。

 懐から一本煙草を取る。口にくわえてライターで火を付けた。紫煙が心地よい。片手で挟み、煙を吐き出す。

 しばらくマキエミリが人の群れを見ていると、広場の端から品の良いネイビーブルーの三つ揃えを着た中年男性がベンチへと歩いてきた。彼はマキエミリを視認すると、軽く会釈する。

「こんにちは。良い日和ですね、ミスター」

「そうかな。お天気について話すより、もっと大事なことがあると思うな」

 無礼な物言いに、しかし怒気も発せず男性は肩を竦めた。彼は同じベンチに座り込むと、マキエミリと同じく懐から煙草を抜き出す。よく見てみれば、疲れた狼が吸うものよりは幾らか上等だった。

「火はありますかね」

「あるとも」

 自分のジッポ・ライターを手渡す。男性はどうもと受け取ると、それでゆっくりと火を付けた。煙草を燻らし、煙を肺に吸い込む。彼は少しして言った。

「依頼の内容ですが、ここでお話するわけにはいかないのです」

 マキエミリの眉が僅かに上がる。「どうして」と彼は問うた。「そういう内容なのかね」。

「あなたがご想像なさっているのが何かは分かりませんが、人に知られるには少し憚れられまして」

「ふうむ。報酬は幾つ?」

「一五〇」

「驚いた。それならもっと腕の良いのに頼んではどうだい」

「ご謙遜を。貴方は充分に優秀でしょう」

 男性は温和そうな笑みを見せて、言った。マキエミリは煙をふうと空気に溶けこませると、少々思案して返答する。

「いいよ。一五〇だ。滅多にない」

「ありがとうございます」

 男の笑みが広がる。彼は立ち上がった。マキエミリは煙草を落とすと、足で踏み潰す。男性は付いてくるようにと言うと歩き出した。疲れた狼もそれに続いていく。

 それなりに歩き通し、人通りが少ない通りに入る。太陽が住宅の壁に鋭角に切られた影を形作っていた。男は雨避けに張られた布が特徴の、一軒のシャッターが閉まっているパン屋まで行く。

「ここです」

 男性が指差した先には、地下へと下る階段があった。パン屋の脇だ。男を先へと行かせると、マキエミリも階段を下った。

 階段の先には木製の古びた扉。男が扉を開くと、内にこもっていた臭いが逃げていく。仄かな酒の匂い。ここは地下BARかと推測しながら、中へと入った。

 ぼんやりと漂う照明。木製のカウンターにテーブル、椅子。埃が目立つその部屋を見て、背後の男が言った。

「潰れたBARですよ」

 ふむと頷くと、男があちらに座ってと示す。マキエミリは眼光を鋭くして答えた。

「座らない。立ったまま話をしよう」

「何かこちらの無作法でしょうか」

「いや、ただのポリシーさ」

 男から数歩離れる。男性は笑った。

「なるほど」

 そう言うと、懐から何か取り出す。トンファー・バトン。艶のない黒で塗装されたそれを、彼は腰を落として構えた。口笛を吹く。

 するとBARの奥からドタドタと男たちが現れた。みな、目付きが良くない。獣のような感じだった。彼らは素早く展開すると、マキエミリをじろりと見る。数人が嘲笑した。

 男性が言う。

「申し訳ない。こういうことのようで」

「ああ、うむ――騙されたな」

 辺りに殺気が満ちる。じりじりと、包囲が狭まっていく。マキエミリの額に一筋の汗が流れた。そして、彼は椅子のひとつに手をかける。

 それが合図となった。

 男たちが数人、わっとマキエミリへ襲いかかる。マキエミリは掴んでいた椅子を投げつけると、すぐに身構えた。椅子が命中。向かってきた内のひとりの行動に、遅れが出る。

 彼は椅子が当たった方へと視線をやった男の喉元を掴むと、気管支を握りつぶした。あっと悲鳴をあげる前に腹に膝打ちを決め込む。崩れ落ちた。もう一人が迫る。

 大振りなブロー。威力はあるが、鋭くはない。腰を落としてブローを避けた。隙ができる。そこを狙って顎に掌打を叩きこむ。衝撃に後退る男。舌を噛んだらしい。血が口端から流れている。

 マキエミリは飛び掛かるような勢いで膝蹴りをぶち込んだ。思わず前に背が曲がる。足を戻し、強い金的蹴り。咄嗟に両手で急所を抑えながら、男は身体を揺らした。頬に平手を張る。崩れた。

「次は」

 息も切らさずに、マキエミリはつぶやく。不敵な微笑みが浮かんでいた。男のひとりが何かを咄嗟に構える。それは拳銃、リボルバーだった。男が言う。

「クソ野郎め、ハジキには敵わねえだろ」

 血走った目を向けながら、男は数歩前へ出る。彼は怒りと片手に所有する鉛色の死に酔っていた。引き金を絞る。場に沈黙が満たされる。

 瞬間、マキエミリがジャッカルの如く突進し、弾倉部分となる穴が開いた鉄の輪を掴んだ。畜生と叫び、男は引き金を引く――いや、引けない。男は驚愕した。

「シリンダーが回らなきゃ、撃てん」

 恐慌する男に鉄球のような拳を叩きこむ。男が鼻から血液を撒き散らしながら、背後へ吹っ飛んだ。どさりと音がする。辺りは静寂が漂っていた。誰も動けない。

 不意に、トンファーを構えていた中年男性が言った。

「進め。全員で取り押さえろ」

 ぶつ切りの、感情が込められていない無気味な声。それに背中を押されるように、数人が足を踏み出す。撃鉄を倒す音がした。男たちは踏みとどまる。

 マキエミリがリボルバーで狙いを付けていた。ピタリとも動かない、手慣れた仕草。真っ直ぐに、胸部へと照準が付けられている。中年男性が舌打ちした。

「いやはや、ここまでとは予想外」

「何が狙いだ」

「答えることは叶わいませんな」

 彼が何やら片手で合図を送ると、男たちが整然と、けれども少しずつ退いていく。マキエミリも追わなかった。装弾数は六発。残りの人数に一気に襲いかかられでもしたら、どうにもならない弾数だ。

 男たちの一部が倒れた数人を引きずっていく。ふと、その内の一人のジャケットのポケットから、ぽろりと薄い板のようなものがこぼれ落ちた。誰も気付いていない。

 大部分がBARから退却すると、中年男性がマキエミリに言った。

「一筋縄ではいかない。恐ろしい方だ。しかし詮索はしないことですね」

「どうだろう。そちらがまだ来るならば、首謀者は突き止めさせてもらうよ」

 中年男性はその切り返すような言葉に、酷薄そうな笑みを漏らすとゆっくりとした足取りでBARを出ていった。最後まで様子を見ていたものも立ち去る。

 マキエミリはそれから五分ほど警戒を解かなかった。BARの奥を調べ、注意深く通りの様相を確かめておく。またBARに戻ると、壁に寄りかかって煙草を吸おうとした。そういえば、ライターを返してもらっていない。

 少々腹が立ち、次には苦笑が襲ってきた。彼は慎重な動作で撃鉄を戻すと、安全になったリボルバーを、薄汚いテーブルに置く。

 そして、彼は思い出す。

 先ほど襲撃してきた男たちの一人からこぼれ落ちた落し物を。

 彼は灰銀色で塗装されたカードを腰を屈めて拾うと、それを目の前まで持ってきた。ANGEL(エンジェル)。浮き文字でそうある。クラブ・カードのようだ。

 マキエミリは舌打ちした。彼はこの店を知っている。人伝にだが、あまり評判が宜しくない。裏で犯罪に手を貸している、なんて噂話もある。

 しかしまあ、と彼はつぶやいた。少なくともこのANGELに脅迫行動を行ったり、爆弾を仕掛けたり、あとはここのオーナーの家族を誘拐したりなんてことは一切していない。

 要は、直接的には恨みを買う真似に覚えが無かった。彼は首を捻る。間接的にならばあるかも知れないが……。

 疲れた狼は困ったなと苦笑すると、仄かに鉄サビの臭い漂う店内から出ていった。



 都市の中心からほど近くあるマンションの一室へと戻ると、マキエミリは眉を八の字に寄せた。何かがおかしい。解析不可能な第六感が警告を加えていた。言い直すならば、死線をくぐり抜けたもの特有の勘だろうか。

 男は扉に鍵を差し込むと、蝶番が付いている反対側の壁へと身を隠した。ノブを捻ると、力を加減してドアを押し出す。

 そのまま二〇秒待つ。物音一つしない。彼は人知れず頷くと、顔を出した。いつも通りの廊下。しかし何かがおかしい。彼は唐突に気づいた。壁に架けられた絵画の角度がずれている。

 そろりと足を出して、部屋の中へと入る。いつもなら気にしないことが一々気に触ったが、それを極力無視する。彼はリビングに続く扉を開けた。

「クソが……」

 リビングは酷く荒らされていた。チェストは下から順繰りに開け放され、ソファは中身が思い切り出ている。コード類は引っこ抜かれ、電話は巨人が踏んだかのような有様だった。

 ウェザー・リポートは、何処に。

 リビングを出ると他の部屋に行く。何処もかしこも同じだった。唯一救いだったのは彼女の部屋には抵抗の形跡が見られたが、血片はなかったということだけだ。

 ――始めからあの女狙いだったか。

 彼は即座に自分の浅慮を悔やむ。状況からいって明白だった。あの待ちぶせは自分をおびき寄せるための罠だったのだ。

 マキエミリの内面に、焼き付くような怒りがこみ上げてきた。俺を狙うならば構わない。しかし俺の背後にいる人間に手を出すならば、容赦はしない。

 拳を握り締める。力が腕から肩へ、そして脳へと伝わってくる。彼はくるりと振り返ると、両手からこぼれ落ちてしまったものを取り返すべく、歩を進めた。



 クラブ『ANGEL』はそれなりに盛況なようだった。若い男女から柄の悪い壮年まで、その腹の中に招き入れている。辺りは夜。不健康な闇が往来を抱きしめている。月は無気味に、そして無情にうすぼんやりと光り輝いていた。

 五色のネオンが毒々しく煌めく中心街。クラブ『ANGEL』はそこに位置していた。男、マキエミリは夜まで待った。彼は今や獲物を狙う夜行獣と化している。

『ANGEL』の正面入口には、ガードマンが一人背筋を伸ばして屹立している。長身の、鍛えあげられた肉体を持つ男でサングラス越しでも視線の鋭さが伺えた。

 マキエミリは見張っていた路地の影からふらりと歩き出す。もういいだろう。時は来た。よほど信頼されているのか、この時間帯にはあの男しかいないのだ。

 ちょうど列の最後にいた客が中へと滑り込んだところで、ガードマンは近づいてくるマキエミリを見た。彼は組んでいた腕を外し、だらりと沿うように垂らす。

 マキエミリが言った。

「こんばんは。中へ入りたい」

 ガードマンは顔色一つ買えずに低い声で返した。

「カードを拝見します」

 マキエミリは昼間に奪ったカードを差し出す。そしてガードマンの男はそれを受け取り、壁に設置されているリーダーへと通す。途端にその表情が歪んだ。

「リャコブ?」

「あいつはリャコブと言うのか」

 せせら笑った狼を、ガードマンは静かな瞳で睨みつけた。狼は肩を竦めて囁いた。

「間抜けな奴だったな」

 辺りが静寂に包まれる。マキエミリもガードマンも一言も発しない。ガードマンが言った。

「お客さん。ちょっとこちらへ」

「いいよ、何処へでもいく」

 ふざけたように語るマキエミリを誘導するような形で、二人は固く閉ざされた裏口があるはずの、路地裏へと入っていった。

 暗い、湿った空気が漂っている。ガードマンが手始めにと、呟いた。

「お客さん。そいつを何処で手に入れられましたかね」

「潰れたBARだよ」

「ふむ。拾ったんですか」

「いいや、もらったんだ。リャコブに」

 そこまで言った途端、唸りをあげて拳が襲いかかってきた。マキエミリは素早く後退すると、ガードマンに視線を合わせる。ガードマンはどっしりと両手を構えていた。

「ふざけるな。お前、何の目的があってここへ来ている」

「お客様に随分な態度だな。教育してやらないといけない」

 マキエミリが足を踏み出した。ガードマンが構えていた両手から、待ってましたとばかりに銃弾のようなパンチを繰り出す。それをくぐり抜けると、マキエミリは掌打を放った。避けられる。そして重い鈍痛が響いた。

 すぐに下がると、形勢を整える。マキエミリが薄く笑った。

「凄まじいな。あれで牽制か」

「次で潰す」

 単純な返答とともに飛び込んでくるガードマン。その風体からは想像もできない身のこなしで、脇腹にブローを叩き込もうとした。それを弾く。驚く間もなく、ガードマンの喉から爆ぜるような音が伝わった。右の掌打。

「あっ、が」

 体勢を崩すガードマンにマキエミリは隙を逃さず、肘打ちを叩き込んだ。膝から落ちる。最後に踵落しをぶち込むと、周囲は途端に静かになる。マキエミリは息を付いた。

「なかなか骨があった。久しぶりに楽しかったよ」

 彼はガードマンを置き去りにしたまま、裏路地から出て、門番がいなくなった夜の城へと入っていく。まず下り階段があり、それを進むと、両開きの扉があった。開く。すぐに喧騒が飛び込んできた。

 煙が、天井で点滅する球体の光線を阻害し、漂う汗と香水と酒の混合臭に彩りを加える。打ち鳴らされる音楽は下卑だが、力強かった。

 踊り狂う男女をちらりと見ると、狼はカウンター席の一つへと男女の間を縫うように進んだ。カウンター席では孤独な、それでいて人に話を聞いてもらいたい寂しがり屋がたむろしている。

 席に座ると近づいてきたバーテンにジン・ライムを頼んだ。少しして、カクテルが置かれる。それに軽く口を付けると、マキエミリは言った。

「ちょっといいかい」

「はい?」

 彼は寄ってきたバーテンにクラブカードを渡す。怪訝そうな顔をするバーテンに狼は微笑んだ。

「ここのオーナーに、カードとともに伝えてくれ。リャコブは元気か、とね」

 バーテンが硬直する。そしてすぐに彼は何でもない様子を繕ったまま、奥の扉へと引っ込んでいった。バーテンが屈強な男とともに帰ってくる。片方が言った。

「オーナーのジェルドリッチさんがお前と会いたいそうだ」

「分かった。行こう」

 ジン・ライムをテーブルに置くとそう微笑んだ。屈強な男は片眉を下げながら、奥の扉へと連れ添う。

 廊下を抜けると、男が扉を開けた。部屋の照明が少々眩い。まさしく応接室と云った風体の部屋だった。そこに、一人の男が佇んでいる。

 削ぎ落としたような頬。厭らしく吊り上がる口。ぼんやりと光る双眼。紺色の背広を身に纏わせたその壮年の男はマキエミリを見て、微笑んだ。

「こんばんは、事件屋」

「あなたがジェルドリッチ?」

「そう、ナイーグ=ジェルドリッチだ」

 両手を拡げて親愛の意を示すジェルドリッチに、マキエミリはふっと嘲りの笑みを漏らした。

「そんなお芝居は虚しいだけだ。さあ、女が何処にいるかを教えてくれ」

「女、女ねえ。うちはそういう店じゃないんだよ。自分で拾っておいで」

「ウェザー・リポートのことだ」

 低く呟く狼に、ジェルドリッチは一瞬怪訝そうな顔を見せると、次の瞬間にはその顔を皮肉そうに歪めていた。

「ああ、彼女のことか。ウェザー・リポート……。ふふふ。そうか、そうだな。確かに彼女はウェザー・リポート(天気予報)だ」

 噛み締めるように笑う相手に、マキエミリは痺れを切らす。数歩近づいた。背後に控えていた屈強な男が、警戒する。

「言えよ」

 何ということはない、ただの一言。しかしオーナーは眉を顰める。凍り付くような、無気味な威圧感があった。彼は眼を逸らし、言う。

「知らないね。しかしまあ、何かこちらで不手際があったのは確かだろう。そうだな、マークス?」

「恐らく」

 背後の男が頷くのを見て、ジェルドリッチは温和に微笑んだ。

「つまりだね、事件屋。三〇〇、いや六〇〇払おう。これで手を引いてはくれないか」

 彼は親指を鳴らして、首を傾げる。小粋な仕草だった。マキエミリは感情のない瞳で辺りを見渡す。

「いい部屋だな」

「それはどうも」

「ぶっ壊したくなる」

「それはどういう――」

 ジェルドリッチが言い終える前に、彼は竹とんぼのように背後へと吹き飛んだ。背後の男――マークスが咄嗟に動く。

「貴様ッ!」

 肩を掴み、首に握り拳を叩き込もうとした彼は逆に手首を掴まれてぐるりとひね回された。苦痛の表情を浮かべながらも、残った左手で巻き取ろうとする。

 瞬間、マキエミリが右手をパッと離すと小気味良い音を立てて、マークスの顔面にストレートが打ち込まれた。回転しながらのパンチ。

 仰け反ったマークスは体勢を立て直すと、足にコンパクトなローキックを放ってきた。すいっとスケート選手のような足捌きでそれを避けると、前へ幽鬼のように接近し、腹部に力が入った掌打を叩き込んだ。

「がっ……」

 崩れ落ちるマークスを尻目に、彼は倒れたジェルドリッチへと首を向ける。それがいけなかった。彼は油断していた。背後から奇声が轟く。咄嗟に回避行動をとる前に、マキエミリの後頭部に凄まじい衝撃が走った。

 膝が笑い、立てなくなる。マークスと同じように自らが崩れ落ちる。その最中に彼が見たのは、割れた酒瓶片手にギラついた眼を輝かせているバーテンだった。

 意識が、落ちる。



 マキエミリが最初に感じたのは手首を縛る鉄の感触と、後頭部から響く鈍痛だった。そして、髪の毛を強く引っ張られると彼は眼を開けた。

「――大方、BARの地下室というところかな」

「大当たりですよ」

 湿っぽい空気が漂う中、彼は後ろ手に縛られて椅子に座らせられていた。三つ揃えの中年男が相変わらずの温和な笑みを浮かべている。

「君等は囮だったわけだが。どうだ、自分の部下のヘマで騒ぎになるというのは」

「減らず口を。大変でしたよ、まったく」

 三つ揃えが微笑む。それは去り際に見せた酷薄そうなものだった。

「しかしまあ、あなたも最後の最後でドジをしましたからね。我々と同じですよ」

「果たしてそうかな」

「強がりは止めることですな」

 途端に三つ揃えの声が低くなった。彼は鋭く頬を叩く。マキエミリはかぶりを振ると、血が絡まった唾を吐き捨てた。それを見て三つ揃えが言う。

「マークスがあなたにやられましたのでね。私が執行役だ。オーナーが来たら、あなたはもうお仕舞いですよ。ほら、噂をすれば……」

 固い扉が開かれ、陰険な容貌のジェルドリッチが中へ入ってきた。二人のガードマンもいる。彼はその顔に嗜虐的な表情を刻んでいた。

「事件屋、よくもやってくれたな。お前はここで終わりだ。いくらベテランで、腕っ節が強かろうが、それじゃあどうにもできまい」

「ああ、その通りだ。俺はどうにもならない」

「状況をよく理解しているようだな、ええ?」

 ゆっくりと椅子の周囲を歩きまわるジェルドリッチ。ガードマンの一人が懐から軍用ナイフを抜き、白刃を弄り回している。ジェルドリッチが言った。

「死にゆく君に最後の話をしてやろう」

「そいつはどうも」

 皮肉げな口調で呟いた狼に、三つ揃えが笑みを張り付けたまま、拳を振るった。口が切れる。ジェルドリッチが続けた。

「いいか。君が拾った彼女、ウェザー・リポートの本名はな。キャスリン・ウェリントンという。知っているかね?」

「知らないな」

「意外と世間を知らないんだな。彼女はまあ、あるテレビ局の人気キャスターといったところだ。天気のね。さて、それがどうして我々みたいな悪党に追いかけられているかということだが……。いいかね、フォッシュ」

「ええ、つまりですね。事件屋さん。彼女はうちの得意様の一人の、お子さんを刺したんですよ」

「どうせ事情があったんだろう」

 三つ揃え――フォッシュの言葉に顔色一つ変えずに言い返す。ジェルドリッチがにんまりと微笑んだ。

「まさしく。彼女はそのお子さんから度を超えた交際の申し込み、というか。そのようなものを送られていてね。そこで直接決着を付けようとしたところで、彼が何か暴力を振るったんだろうな。それで揉み合いの末に、ドンと」

「なるほどね」

「まあ、そのような事情などは正直関係ないのだよ。我々にはね。要はお得意様のご機嫌を取らなくてはいけないというのだ。だから“あれ”を捕まえたわけだが」

「下衆だな」

「何を言われようが気にしないね。さて、話は済んだろう。君はここで死ぬんだ。未練なんか残すなよ」

 肩を竦めたジェルドリッチに呼応するように、ナイフを弄っていた男が片手に持ったそれをフォッシュに渡した。彼が近づく。マキエミリが言った。

「なあ、どうして俺が“狼”なんて異名で呼ばれていると思う?」

「知らんですね。時間稼ぎか?」

「いや、そうじゃない。俺は狼みたいに剽悍な面じゃないし、勇敢さもない。精々この腕っ節だけだ」

 ナイフの刃を、彼は静かにもう一人のガードマンが差し出したライターで炙りながら、何となしに返した。

「ではどうして?」

 この期に及んで、と彼は嘲笑した。マキエミリもそれに応じて笑った。

「それは言葉通りだからだよ。間抜け」

「あ?」

 次の瞬間、マキエミリの身体は膨張した。そして太い腕が無理矢理に手錠を引き剥がすと、ガードマンの一人を弾き飛ばし、フォッシュからナイフを奪い取ると、それを横一文字に引く。

 ごぽりという声ならぬ声を漏らし、フォッシュは倒れこんだ。一種の所作だった。あんぐりと口を開ける全員の前で、マキエミリの全身から灰色の体毛が続々と生え渡っていく。彼の口から凶悪な牙が剥き出た。

「ありえないと思うか。今の光景が? それなら所詮お前らは小物ということだ」

「う、うわあああああああ」

 残ったガードマンが腰から引きぬいた拳銃を発砲する。正確な照準で火を噴いたそれは確かに胸板へと命中した。しかし、マキエミリは笑っている。

「豆鉄砲だな。せめてライフル弾を持って来い」

 彼はナイフを投げつける。凄まじい速度で放たれた刃は眉間を貫き、ガードマンを絶命させた。ジェルドリッチの腰が抜ける。全身は電気ショックを浴びたかのように震え続けていた。

「あ、あ、あ」

「女はどこだ?」

「こ、殺すな。殺すんじゃない!」

「なるほど。じゃあBARを引っ掻き回すよ。どうもありがとう、ミスター」

 冥府の底が顔を覗かせたとしか形容できない凄絶な笑みが“狼"の顔に浮かび、それと同じく罪人の断末魔が地下に響いた。



 夜が明けようとする時、その車は街を見下ろす小高い丘の上にあった。彼女はその助手席で覚醒する。眠気眼を軽く擦りながら、辺りをぼうっと見渡す。

 静まり返った車内。隣に一瞬巨躯を誇る獣がいた気がして、彼女はぎょっとするが、そこにいたのは彼女のよく知る人物だった。

「マキエミリ」

「起きたか」

 狼は口に火の付いていない煙草を咥えていた。

「私、その貴方に……」

「言うなよ。もう終わったことだ。俺が首を突っ込んだだけの話さ」

 しばらく経つ。夜が明ける。暁が地平線の向こうから顔を出した。眩いばかりの光。車内が照らされていく。

「好きよ」

 呟きが、朝霜に掻き消える。狼が目を細めていた。



【了】


天気予報をテーマに書いたハードボイルド風味です。

テスト投稿がてら、他のサイトで書いたものを流用しています。


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