第19話 人の痛みがわからない国 3
気を失ったわけではない。戦う意味をなくしたわけではない。身体が動かない訳でもない。
それでもロイは、身体を上げる事ができなかった。胸の中に渦巻くものはなんだろうか。危ういながらも勝ち続けてきたロイにとって初めての完全な敗北。それも相手が本気だったとは思えない。
圧倒的な屈辱感。その中で、ロイは戦意を失いつつあった。悔しさを覚えながら、エリナを助けなければと考えながら・・・。
しかし身体を起こすことはできない。叩きつけられた額が痛む。敗北とともにロイの身体に痛いほど残っていた。
「大丈夫かい?」
頭上から声が聞こえた。それでようやくロイは身体を動かし始めた。地面に座り込み、額を拭うとやはり袖に血がついた。しかも相当量出ている。声をかけてきた男を見上げると、男は驚愕し、すぐに家から包帯を持ってきて処置してくれた。
「ありがとう」
礼を言いながらも、ロイの視線はさっきからずっと城の方へ向けられていた。既に城門は硬く閉ざされ、動くものはない。いつのまにかロバートの姿もなくなっていた。
「あのお嬢さんのことは諦めた方がいい。間違いなくあの王子の妃になる」
「お姫様か。一介の軍人が大出世だな」
王子の姿を思い出しながらロイは皮肉気味に言った。その皮肉には自分に対する怒りがふんだんに込められていた。地面に手をついて重い身体を立ち上がらせ、服についた砂を払い落とす。血に濡れた袖が砂まみれになったが、気にはならなかった。
「諦める訳にはいかねえよ。ロマリアに頼まれちまったからな」
ロイは誰ともなく呟く。そして大きく伸びをすると、男を見た。
「ありがとう。じゃあ行くわ」
「待ってくれ」
足を踏み出したロイの肩を男がつかむ。そのまま振りほどこうかと思ったが、その力があまりにも強く、ロイは足を止めざるを得なかった。
「1人で自首でもする気か?言ったところで何になる?」
そう言った男をロイは睨みつけた。たったそれだけで、男は怯んで手を離す。ロイは笑顔に戻して片手を上げた。
「じゃ」
遠くの大きな城に向かって歩き始める。畑ばかり広がる風景の中に、ロイの行く手を阻むものはなかった。
「さて、と」
ここに来る間に、包帯は赤く染まっていた。だが、さっきの怪我の血は既に止まっていた。この血はロイが怒りを発散させようとした跡である。まるで身体から血を抜くかのようにロイは何度も拳で額を殴った。そうする事で何とか冷静さを保っている。そうでもしなければ今頃剣を抜いて、城の中で振りまわしていることだろう。
城をぐるりと一周する。大きいといっても、ドートリアを見た後では小さく見える。その城は周りの家々と違って、高い壁に囲まれていた。ここを跳んだりよじ登ったりするのは骨が折れそうだ。
その上、城の周りには堀が張り巡らされているので突破するのは難しそうだ。さっきまでの怒り沸騰中のロイならば術を使って壁を壊したりしたのだろうが、血と引き換えに冷静になってそれをしなかったのは大きな成果だろう。ロイは既にロバートとの力の差を認めていた。エリナを救出する事になるためにはロバートともう一戦交えなくてはならない。ここで体力を失うわけにはいかなかった。
―――万全じゃないけど、俺を犠牲にエリナを逃がすくらいはできるかな。
そんなことを考えて自嘲気味に笑った。ただ戦うのとは違って守るというのはなんて難しいことなのだろう。それでもロイはエリナを見捨てようとは思わない。そんなこと考えもしなかった。
一周したが、どうやら塀がないのは城門だけのようだ。しかし、そこには常に門番が立っていて、突破は容易ではない。
ロイは血のついた袖を引きちぎる。既に血は乾いていた。ロイは門番から身を隠し、布を縛って丸くした。集中して火をともす。壁よりも布に火をともすほうが圧倒的に容易い。布に十分火が付いたところで、城の前の道に向かって投げつけた。
「な、なんだ!」
突然死角から現れた炎に門番は驚愕し、駆け寄る。幸い門番は1人しかいないので、火に意識を取られている間に門をよじ登るのは手間ではなかった。
「よし、第一関門突破」
下に誰もいないことを確認して敷地内に入る。柱をよじ登って2階のテラスに上がると、ガラスの向こうから声が聞こえた。
「・・・うん、父上。だから結婚式は盛大にしてよね」
「はっはっは、わかっているさ、坊や。しかし二十歳になる前に決まってよかった」
「だってあんな卑しい国民の中から選ぶなんてやだもん」
「ふむ、それは仕方無い。結婚式には金がかかるな」
「もっと税を増やせば良いんじゃない?」
「そうだな。王子のためなら嫌という国民はいないだろう。それで、結婚式はいつにする?」
「うーん、できるだけ早い方が良いな。早く結婚したいな。そしたら今エリナがいる最上階の部屋に一緒に住むんだ」
「はっはっは、意気込んでいるな。しかし準備というものがあるからな。どんなに急いでも3週間といったところか」
「うん、じゃあ3週間後でいいや。ありがとう、父上」
「なあに、パパは坊やのためなら何でもやるさ。はっはっは・・・」
ロイは呆れて首を振った。こんな何も困窮している民から更に奪い取ろうというのか。まるで2人は箱庭で遊ぶ子どものようだ。
そしてそれはカルコンだってそうだ。ただ箱庭かテェスの駒かの違い。そして一国か世界かの違い。
話を聴いて怒りが増してしまった。だが、エリナが城の最上階にいる事だけは把握できた。そこだけは幸せなバカ親子に感謝しよう。
そんなふうに考えていると、突然王がテラスの方へ歩いてきた。その体格は息子をはるかに凌駕した肥満で、どれだけ民から搾取しているかをうかがわせる。ロイは咄嗟にテラスを降り、一階の開いている窓から城内に忍び込んだ。どうやらセキュリティーのほとんどを門に費やしているらしく、城内への侵入は思いのほか簡単だった。
そこは客間のようだ。豪奢なベッドが中心に置かれ、大きな机があった。部屋の中を一瞥し、ロイは足音を立てないように廊下に出た。
だがしかし、肝心なのはここからいかにして階上に行くかだ。廊下に敷かれた赤いカーペットが鮮やかだったが、これも税金で成り立っているものだと考えると、素直に感動できなかった。真っ白な壁には等間隔で燭台がついている。昼間の今は火がついておらず、城の中は閑散としていた。
一階には人の気配がない。恐らく国の規模も雇っている人数も何も考えず馬鹿みたいにでかい城をつくったせいだろう。あるいは昔は聡明な王がいて、栄えていたのかもしれない。
一階は全て客間でほとんど使っていないようだ。
幸いにして、玄関の正面に大きな階段があった。赤いカーペットに沿って階段を素早く上るとその正面の部屋から二人の声が聞こえてきた。さっきのテラスがある部屋だろう。ロイがそちらの方へ近づいた時、角から黒服を着た男が現れた。
ロイは踵を返し、階段の陰に隠れた。ロバートではない。護衛だろうか。なるほど、全く人がいないというわけでは無さそうだ。
足音を殺し、白い壁づたいに先に進む。角は慎重に伺う。何度か遠くに見える人影がよりいっそう緊張感を募らせ、ロイに慎重さを要求する。お陰で壁の燭台に4回頭をぶつけた。うち一階は傷口に当たり、ロイは声にならない悲鳴をあげた。
階段を見つけて3階に上がる。ここでは2階よりも人が多い。コックの格好をした人間が行きかっているから調理場があるのだろう。そういえば腹減ったな、と一瞬考えたが、すぐにそれどころではないと思いなおした。
次の角で向こうを伺うと、最も見たくはない男の姿があった。ロバートだ。1人でこちら向きに歩いてくる。とはいえ距離があるのでさすがにこちらには気付いていないだろう。ロイは顔を引っ込めて壁に寄りかかり、一つ息をついた。
「ここで何をしている」
「!!」
耳元で声がして、ロイは反射的に壁から遠ざかった。あれだけの距離を一瞬にして移動し、ロバートが角の向こうから現れた。
何の感情もない表情。ただ鋭い眼光だけがロイを見ていた。
「なるほど、あの娘を助けに来たか」
ロイは何も言わない。精霊術ではない得体の知らない力に相対し、その警戒心と緊張感で話すことを忘れた。
「よほど私に怯えていると見える」
先ほどと違い、ロバートは口を開く。どうやら無口というわけでは無さそうだ。しかしどこにも隙はない。どこから攻めても切り返されそうだ。
「当たり前だ。貴様とではキャリアが違う」
「なっ!」
ロイは更に1歩下がった。おかしい、口には出していないはずなのに。
「それくらい分かるさ」
鍵括弧とモノローグで会話をするという奇妙な図式が成立してしまっていた。だが、この感覚には覚えがあった。
「・・・読心術ってやつか」
スナグモを思い出す。敵に自分の心が読まれている。こんなに不愉快なことはない。
「致し方ない。私には聞こえてしまうのだから」
「・・・・・・?」
ロイは眉根を顰めた。しかし、ロバートはそれ以降、口を開かなかった。それを戦闘の合図と見て、ロイは剣を抜く。この相手だけは全力を尽くして倒さなくてはならない。そうしなければエリナの下にはたどり着けない。
剣を構えて突進する。目にも留まらぬ速さで剣を突く。しかし、剣の先にロバートの姿はなかった。そんなことはロイも承知で、すぐさま剣を横薙ぎに切り替える。常人ならざる剣の軌道変化。全身の移動スピードを殺すことも、突き出した剣を横に薙ぐことも精霊術がなければ不可能なことだ。ただの人間に対応できるとは思えない。
「微温い」
だが、その剣先はロバートを捕らえていなかった。確かにロバートはロイの左側に動いたはず。ロイは剣を左側に薙いだはず。それなのにいつの間にか姿を消していた。ロバートの姿が何処にもない。自分以外誰もいない廊下に、声だけが響いていた。
頭上で音がして、咄嗟に後ろに下がった。同時に、ロイがいた床の石が割れた。ロバートが降ってきて、床をふみ砕いたのだ。
「なかなかいい反応をしている。しかし、愚か。このような狭い回廊で長得物を振るとは」
再びロバートが跳び上がる。次の瞬間には天井に床のように足をつけている。次には壁に。そして天井に、床に、壁、壁、床―――。
「そんなばかな・・・」
踏みしめた場所は陥没していく。それだけの力と速さで跳んでいるにもかかわらず、次の場所にはちゃんと足をつけている。加速し続けるロバートの姿を既にロイは視認出来なかった。パラパラと砕ける石が一瞬前にそこに誰かがいたことを教えてくれるだけだ。
それだけの速さで飛べば、頭や体を打ちつけるのが普通じゃないのか、とロイは焦る。
確かに、壁や天井を使って加速することはロイにも出来るかもしれない。しかし、これだけのスピードで、しかも次の着地点がランダムならばパニックに陥ってしまうだろう。最終的に自滅するに決まってる。
つまり、ロバートというロイの敵は、ただ速く、力があるだけではない。その状況処理能力、判断力は常人のそれではない。
「終わりだ」
その声が聞こえたのは背後からか、頭上からか、それとも足元からか、ともかくも、一瞬後、身体に衝撃が走った。
「がっ・・・ごほっ!」
狭い回廊を最大限に利用した加速に次ぐ加速。そのエネルギーを凝縮した拳がロイを襲った。
「・・・・・・!」
だが、攻撃の際に驚いたのはロイだけではなかった。ここまで何一つ表情を変化させなかったロバートもまた、驚愕の表情を表していた。
ロイとロバートの間に構えられた剣。お互いに刀身の腹が向けられ、ロイを守るように立てられていた。あのスピードの中、反応できたはずがない。反射的に、まるで本能のようにロイは自身の身体を守ったのだ。
しかし、いかに守ったといっても、これだけの圧力の中では、防御にすらならない。剣はへし折れ、ほんの少しだけ減速した拳はそれでもなお超然たる力を持ってロイの身体に突き刺さった。
身体が貫かれるような衝撃を感じた。いや、剣がなければ本当に貫かれていたかもしれない。それぐらいの衝撃。一体何本残ったのか、体内に肋骨が折れる音が響いた。
足は簡単に支えをなくして後方に吹き飛ぶ、ちょうど背後にあった窓を突き破り、城の2階分くらいの高さの塀を悠々と越えた。
もし街道に落ちていたら間違いなく潰れたトマトの仲間入りだっただろうが、幸いなことに―――というよりもこの国内ではそのほうが多いのだが、柔らかい畑の一つに落下した。いや、落下したというよりも突き刺さったと言った方が正しいだろう。それでも身体がばらばらになったような痛みを感じる。拳に襲われた瞬間、ロイは死を覚悟した。ザバンにくらったときには感じなかった死の恐怖。
しかし、痛い。ということはまだ生きているということだ。
それでも安堵はできなかった。凍えるように寒い。そして、しだいに痛みも麻痺してきた。身体を動かすことは出来ない。まるで全身が凍っているようだった。目が霞んできた上に皮膚感覚もなくなってきている。見ることも感じることも出来ないが、血を流しすぎたのかもしれない。
だんだんと意識が遠のいていく。風前の灯の意識の中で、ロイは確かに走馬灯の存在を感じていた。
―――ごめん・・・エリナ。
薄れゆく意識の中で思う。死は思ったよりも簡単だった。