お望み通り、消えて差し上げましょう。
あまりに書類を睨み続けたせいか、視界がぼやけてきて、イザベラはペンを置いた。
疲れた目の間を揉んでいると、下の階から家族の笑う声が聞こえてくる。一層疲れが増したようで、深々とため息をついた。
いつからかはもう覚えていないが、クレアモント侯爵家の財務は、長女であるイザベラの手によって支えられていた。
表向き、侯爵家の顔となっているのは社交界で評判の妹、カミーユだ。愛らしく儚げで、誰もが守ってあげたくなる理想の令嬢。
そんなカミーユに対し、イザベラは意志が強く、そつがない、自立した令嬢と評されていた。
褒め言葉に聞こえるが、要は可愛げがないと言われているようなものである。
「イザベラは健康だから大丈夫だ」
「カミーユは体が弱いから、無理をさせては可哀想だわ」
「お前は姉なんだから、わかってくれるな?」
「イザベラはしっかりしているから助かるわ」
それが昔からの両親の口癖だった。屋敷の使用人の官吏も、領地の農作物の収穫や税収の計算も、社交に関わるあらゆる手配も、気づけばすべてイザベラの仕事になっていた。
カミーユが体調を崩したと聞けば、代わりにお茶会を断る手紙を書き、両親が夜会で疲れて帰れば、翌朝の予定を調整する。それらをイザベラが一手に引き受けている。
(別に、家の仕事が嫌いなわけじゃないけれど……)
家族のことは、長女として大切には想っている。
ただ、家族がイザベラを同じように想ってくれているかは疑わしい。イザベラのしていることに感謝がないのは、イザベラが尽くすことが当たり前になっているからだろう。
去年の夏、領地で開いた収穫祭でのことをよく覚えている。
新たな水路の工事計画、取引する商人たちとの交渉、祭り当日の段取りまで、すべてイザベラが取り仕切った。おかげで例年より収穫、売上ともに大きく伸び、収穫祭も大成功。領民たちからも感謝の声が上がった。
けれど、祝いの席で両親が真っ先に褒めたのは、会場に飾る花を選んだカミーユだった。
「今年の収穫祭はいつも以上に華やかだったな。カミーユが選んだ花のおかげか」
「カミーユは昔から、こういうセンスが必要なことが得意なのよねぇ」
収穫量自体の話は、当然ふたりの口には上らなかった。
(別に、褒めてほしくてやったわけじゃないもの)
そう自分に言い聞かせながら、少しだけ苦い夜を過ごした。
***
イザベラには祖父同士の約束で決まった婚約者がいる。
コリン・ヴィレット子爵令息。幼い頃からの顔見知りで、恋文めいたやりとりこそなかったが、穏やかな信頼関係を築いてきたつもりだった。
少なくとも、半年前までは。
「お姉様! コリン様が、私の刺繍を褒めてくださったの」
カミーユが頬を染めてそう報告してきたとき、イザベラは特に気に留めなかった。コリンは誰にでも優しい人だからだ。
だがそれから顔を合わせるたびに、カミーユの口からコリンの名前が出るようになっていったのだ。
「コリン様が体が弱い私を心配して、毎日お見舞いの手紙をくださるの」
「昨日はコリン様が私のために、薬草を摘んできてくださったのよ」
最初は微笑ましく聞いていたが、段々と自分よりカミーユのほうがコリンと交流しているような気がしてきた。同じ家にいるはずなのに、なぜ自分よりカミーユと会っていることのほうが多いのだろう。
気にはなったが、何だか聞いてはいけない気がして、カミーユにもコリンにも確認することが出来なかった。
そしてある日の夜会で、コリンがカミーユの手を取り、壊れ物でも扱うように優しく歩調を合わせて歩いているのを見たとき、ようやくイザベラはふたりの関係に気がついたのである。
(そういうことね……)
胸に鈍い痛みが走ったが、それを表に出すことはしなかった。
しかし、ふたりが話しているのを偶然聞いてしまったときは、さすがに表情を取り繕えなかった。
夜会の終盤、廊下の陰で抱き合うようにして寄り添っていたカミーユとコリンを、よりによってイザベラは目撃してしまう。彼らは悲劇の恋人たちのように嘆いていた。
「どうしてコリン様はお姉様の婚約者なの? お姉様さえいなければ……」
「カミーユ、それは」
「わかっています! こんなことを考えるなんて、最低な妹ですよね。でも私、いつも強いお姉様と比べられてつらくて……」
「最低なんかじゃないよ。僕だって、婚約者がイザベラじゃなくてカミーユだったらと、ずっと思っていたんだから」
イザベラさえいなければ。
そんな風に思われていたとは知らず、良い姉でいようと努めていたなんて。愚かな自分が可哀想で、けれどここで泣いてはいけないと、ぐっと涙をこらえた。
「イザベラお嬢様……」
そばにいた女中頭が、気遣うように声をかけてきたが、イザベラは何ともないと笑ってその場を後に下。
その夜、両親から呼び出しを受けた。
「イザベラ、話がある」
応接間に入ると、両親は揃って重々しい顔をしていた。
何を言われるか予想はついていた。あとは表情を変えないよう努めることに集中するだけだ。
「落ち着いて聞いてほしいのだけど、コリン殿が、カミーユを想っていらっしゃるようなの」
やっぱり。そう呟きそうになるのを耐えて、イザベラは黙って両親を見つめた。
「お前とコリン殿の婚約は、祖父たちが決めたもので、お前たち自身が望んだものではないだろう? カミーユは……あの子は体も弱いし、コリン殿がいなければ、きっと心を病んでしまう」
「そうでしょうか。わたしは大丈夫だと思いますが」
「お前は昔から強いからな。だがカミーユは違う」
父の言葉にイザベラは静かにため息をついた。
(またそれですか。私とカミーユの、何がそんなに違うんだろう)
いつもそうだ。イザベラが我慢すれば丸く収まる。イザベラが引けば誰も傷つかない。そうやって、これまですべてを引き受けてきた。
カミーユに大切なぬいぐるみを欲しいを奪われたときも、カミーユが怪我をして誕生日パーティーが中止になったときも、文句を言うのは許されなかった。
子どもの頃からずっと、大人になったいまも、そしてきっとこれからもそれは続くのだろう。
「婚約を解消してほしいということですね」
「……すまない。お前には、悪いと思っている」
本当に悪いと思っているなら、最初からこんなことを頼みはしないだろう。カミーユとコリンの身勝手な要求を、跳ねのけていたはず。
そう思ったが、口には出さなかった。
「わかりました」
あっさりと頷いたイザベラに、両親は少し拍子抜けした様子だった。
それでも「さすがイザベラ」「あなたがカミーユの姉で良かったわ」と労いのようなものを見せたのは、多少の罪悪感はあったのだろうか。
だが結局両親も、イザベラさえいなければと思っているに違いない。
イザベラはこの日、家族への愛を胸の奥にしまい、硬く蓋をした。もう永遠に開くことはなと、しっかりと鍵をかけて。
***
婚約解消の話は、驚くほど速やかに進んだ。
翌月クレアモント家で開かれた夜会で、コリンとカミーユの新たな婚約が発表されることになったのだ。
その日までの数週間、イザベラは表向き何事もなかったかのように過ごした。
領地の収支報告書をまとめ、商会への支払いを済ませ、夜会の招待状の返事まで書いた。
イザベラの中の変化を、誰にも悟られないように。
使用人の年配の女中頭だけが、ある晩そっとイザベラに紅茶を運んできて言った。
「お嬢様はいつも誰かのために動いていらっしゃいますね。たまにはご自分のために動かれてもよろしいのではございませんか?」
イザベラは少し驚いてから女中頭の顔をまじまじと見たあと、静かに微笑んだ。
「いま動いているところよ」
「……左様でございましたか」
女中頭はそれ以上何も聞くことはなかったが、どこか安堵したように微笑むと、深く頭を下げて部屋を出ていった。
部屋に自分以外誰もいなくなったのを確認し、イザベラは引き出しから銀のプレートを取り出した。
そこには『商業ギルド所属 緑陰の会計士』と彫られてある。
実はイザベラには、誰にも明かしていない裏の顔があった。
三年前から、王都の商業ギルドに「緑陰の会計士」という名で登録し、複数の商会の経営立て直しを裏で手伝ってきたのだ。
圧倒的な計算力、公平な判断力。家では誰にも評価されなかった力だが、商人たちは賞賛し、重宝してくれた。
そして半年前、緑陰の会計士の仕事を通じてひとりの人物と知り合った。
「緑陰殿の腕を見こんで、折り入って頼みがある」
そう言って現れたのは、隣国との商路を持つ大商会を率いる、ジークハルト・レーヴェン公爵だった。
王族の流れを汲むやんごとない身でありながら、物腰は柔らかく、平民のふりをしている緑陰の会計士を見下さない。そして何より、イザベラの仕事ぶりを正しく評価してくれる人だった。
「あなたのような人がなぜ正体を隠して働いているのか、いつか聞かせてほしい」
初めてそう言われたとき、イザベラは驚いた。誰にも緑陰の会計士の表の姿は、知られていないはずなのに、と。
万が一でも知られないよう、緑陰の会計士として働くときは、眼鏡をかけてカツラをかぶるようにしていた。もちろんドレスは地味で質素なものにし、宝飾品の類も身に着けていない。
それにも関わらず、ジークハルトはイザベラの正体を見抜いたのだ。
それから月に一度ほどの頻度で、ジークハルトとは商会の一室で顔を合わせるようになった。
「この赤字は輸送費の見積もりが甘いのが原因です。こちらの航路を使えば、三割は削減できるかと」
イザベラが示した資料に、ジークハルトは目を見張った。
「遠回りに見えるが?」
「潮流と事故率を考えると、こちらのほうが日数を短縮でき、かつ安全に運べます」
「なるほどな。……緑陰殿は全体を見通す能力に長けているようだ」
「買いかぶり過ぎです。わたしは過去から続く数字の蓄積を見ているだけ。数字は嘘をつきませんから。ただ、それを見ようとする人が少ないだけです」
淡々と答えるイザベラに、ジークハルトはふっと笑った。
「見ようとしても見えない人間が大多数なのだ。緑陰殿も、自分のことだけは見えていないようだ。実にもったいないことだな」
そんな何気ないやりとりの中で、これまで誰からも向けられたことのない眼差しを、ジークハルトから感じるようになっていった。
仕事の成果を当たり前のことのように、けれど確かに認めてくれる。それがどれほど得難いものか知ってしまった。知らなかった頃にはもう戻れない。
それから幾度か仕事の相談を重ねるうちに、イザベラはジークハルトから受ける信頼以上に、彼を信頼するようになっていた。同時に、この人の元で働いてみたいと思うようにも。
ある日その思いをこらえることが出来ず、声に出していた。
「レーヴェン公爵。どうかあなたの元で働かせていただけないでしょうか?」
ジークハルトは「働く?」と珍しく驚いた顔をした。
「緑陰殿を正式な会計士として雇えと?」
「どのような肩書でも構いません。必ずお役に立ってみせますので」
「そうか。……では、私の妻という肩書でも良いだろうか?」
「もちろんでございま――……え?」
今度は驚くのはイザベラの番だった。
ジークハルトはフッと魅力的に微笑むと、イザベラの手を取り口づけを落とす。
「あなたが望むなら、正体を隠す必要のない場所を私が用意しよう」
それが求婚の言葉だと気づいたのは、上機嫌でジークハルトが帰って行ったあとだった。
***
夜会の当日。大広間には大勢の貴族たちが集まっていた。
彼らの前にコリンとカミーユが堂々と腕を組んで並んで立っている。それを見てひそひそと囁き合う貴族たち。
奇妙な雰囲気の中、父が高らかにふたりの婚約を発表した。
「両家の合意のもと、コリン・ヴィレット子爵令息と我が娘カミーユの婚約が正式に成されました!」
拍手が沸き起こる中、父がイザベラの方を見た。
目配せの意味は明らかだった。姉として快く祝福してみせろと、そう言いたいのだ。
ひどい話だが、これも予想していたことだった。両親にとって大切なのは妹のカミーユただひとりで、慮るのはカミーユの体面だけなのだ。
イザベラは静かに前へ進み出た。
周囲の好奇の視線が集中するのを感じた。誰もが婚約者を妹に奪われた哀れな令嬢の顔を見たがっている。
だがイザベラはもう、自分を憐れだとは思っていない。嵐の海のように荒れていたふたりへの気持ちも、いまやすっかり凪いでいた。
「コリン様、カミーユ。ご婚約おめでとうございます」
深く一礼したイザベラに、コリンは少し戸惑ったように瞬いた。
「イザベラ……その、すまない」
「まぁ。謝る必要はありません。わたしはあなた方の選択を、心から祝福いたします」
その言葉に嘘はなかった。本当に、悲しみの欠片も存在しないのだ。
そう思えるのはきっと、もう彼らに関わる必要がなくなったからだろう。
「ですが、ひとつだけ」
イザベラは、扇をそっと閉じた。
「これまで領地の運営も商会との交渉も、侯爵家の財務に関わることは全てわたしが担ってまいりました。今日からはその役目もカミーユに引き継いでもらうことになります。大丈夫。妹ならきっと立派にこなせることでしょう」
イザベラの言葉に、広間がしんと静まり返った。
「な……」
両親の顔がみるみる青ざめていく。
カミーユは何を言われているのか、まだ理解していないようできょとんとしていた。
「何を言っているの、姉様? 私、お金のことなんてちっとも……」
「大丈夫よ、カミーユ。必要なものは書斎に揃えてあるわ。わからないことがあったら商会の担当者に聞けば良いし、お父様たちも力になってくれるでしょう」
にっこりと笑うイザベラに、両親は言葉を失っていた。
周囲の貴族たちの間にも、戸惑いとざわめきが広がっていく。
「クレアモント家の財務を、姉君がひとりで回していらしたの?」
「あの家の商会取引は以前から評判が良かったが、姉の手腕によるものだったか」
「では、これから先はどうなるのかしら……」
誰の目にも届かずにいた真実が、光の下にさらされる。
その中でカミーユだけが、まだ事の重大さを半分も理解していない様子で、助けを求めるようにコリンを見上げている。
しかしコリンもまた、青ざめた顔で立ち尽くすばかりで、何も言葉を発っせずにいた。
その時、広間の入り口がわずかにざわめいた。
「――失礼。夜分に押しかけて申し訳ない」
現れたのは、隣国風の装いをした長身の男だった。物腰は穏やかだが、その圧倒的とも言える存在感に、広間の空気が一変する。
「あれは、レーヴェン公爵……⁉」
誰かが小さく叫んだ。隣国の大貴族、そして名の知れた大商会の主がなぜこんな場に。
ジークハルトは真っ直ぐにイザベラの元まで歩み寄ると、恭しく手を差し出した。
「イザベラ嬢。約束通り、迎えに来た」
「緑陰殿、とは呼ばないのですね」
「伴侶となる人にその呼び方は無粋だろう?」
苦笑するジークハルトに、イザベラも小さく吹き出した。
ふたりが笑い合う光景に誰もが呆然としていたが、父が慌てて口を開く。
「イ、イザベラ。これは一体どういうことだ……?」
「お父様、お母様。きちんとご報告できておりませんでしたが――」
イザベラは振り返り、家族の顔をひとりひとり見つめた。
「私、こちらのジークハルト・レーヴェン公爵様から求婚をいただいております。これから隣国へ行き、新しい生活を始めるつもりです」
「求婚⁉ いつの間にそんな」
「皆様が私のことを『あなたは強いから大丈夫』とおっしゃっている間に、少しずつ」
静かな声だったが、その一言に両親は返す言葉を失った。
イザベラは最後にもう一度、コリンとカミーユに向き直った。
「私はこの家から消えますから、どうぞお幸せに」
それは皮肉ではあったが、当てつけではなかった。もうこれ以上彼らのために、自分の時間を使うつもりはないという、静かな決別の言葉で。心からの安堵によって出た言葉でもあった。
ジークハルトの手を取り、イザベラは広間を後にした。
家族に名前を呼ばれても、一度も振り返ることもなく。
***
それから数か月後。
隣国で暮らすイザベラの元に、クレアモント家の深刻な経営難の噂が流れ始めた。後継者として運営管理を任されたカミーユは数字に疎く、商会との交渉も散々なもので、子どものように癇癪を起し仕事を放棄しているのだとか。
コリンはというと、愛らしくか弱い婚約者が、ただそれだけの存在であったことにようやく気づき始めたらしい。誰かに管理してもらわなければ、まともに生きてすらいけないカミーユの代わりに、必死に経営を立て直そうとしているそうだ。
両親は今更ながらイザベラが担っていたものの大きさを思い知り、頭を抱える日々を送っているという。長年仕事をイザベラに押し付け、自分たちは何もせずにいたおかげで、貴族としての仕事を忘れてしまったようだ。
ある日、クレアモント侯爵家の紋章が入った手紙が届いた。差出人は母。
『あなたにはとても感謝しているの。だからイザベラ、お願いよ。一度でいいから帰ってきて、帳簿だけでも見てくれないかしら。お父様もカミーユも、とても困っていて――』
便箋にはこれまで一度も向けられたことのない、縋るような言葉が並んでいた。
イザベラはその手紙をしばらく眺めてから、静かに封筒へ戻した。
「返事は書かないのか?」
隣で書類を整理していたジークハルトが、そっと尋ねる。
「……恨んでいるわけではないんです。ただ私にはもう、あちらに戻る理由がないだけで」
そう言って、イザベラは手紙を引き出しの奥へしまった。読み返すことはもうないだろう。
家族への愛は永遠に開かない箱に閉じこめた。愛のない相手に尽くす必要はない。
「確かにな。そもそも私は、君を実家に戻す気はない」
ふふんと笑うジークハルトに笑い、イザベラはまとめた書類を差し出した。
「今日の報告書を確認していただけますか、旦那様?」
「……ああ、ありがとう。見せてくれ。愛しい人」
微笑みとともに、ジークハルトの口づけが降りてくる。
誰かに尽くすためだけの日々にはもう戻らない。
これからは自分自身のために生きていく。ジークハルトとともに。
短編集に入れる予定でしたが、短編は短編のままにしてほしいとのお声をいただき再掲しました。
よろしければ★★★★★評価をしていただけると嬉しいです^^
(※9/1、書籍『代筆令嬢リゼットはくじけない』が発売されました! 第2巻発売決定&コミカライズ企画進行中です!)




