第八話 不吉な白猫は、王太子に拾われる
この日、事件が起きた。
几帳面さんが倉庫の屋根の上のミレイユを見つけ、侍従三人がかりでの追いかけっこが始まった。
屋根から木へ飛び移り、そこから庭へ下りて全力で走る。
花壇を飛び越え、生け垣の中に飛び込み、一度は撒いたと思ったのに——気づけば庭の端まで追い詰められていた。
背後は外壁。左右も塞がれ、逃げ場がない。
三人の男が、じりじりと扇形に広がる。
足音が近づくたび、耳の奥がきんと張った。逃げたいのに、逃げ道が見つからない。
毛が逆立ち、尻尾がぶわっと膨らむ。
「シャーーーッ!(囲まれてしまった!どうしよう!!怖い!男の人大きい!!)」
自分でも情けないくらい、威嚇の声が必死だった。
けれど三人とも怯まない。猫の威嚇など慣れているのか、それとも相手がミレイユだからか、じわじわ距離だけを詰めてくる。
そのとき、低い、落ち着いた声が聞こえた。
「何をしている」
三人の男が、ぴたりと動きを止めた。
ミレイユも止まる。
空気の流れが、そこで一度すっと変わった気がした。
声の方向を見ると、そこに一人の男が立っていた。
年齢はミレイユと同じか、少し上。二十歳手前だろうか。
整った顔に、深い青灰色の瞳。やや長めの黒髪が、夕暮れの風に揺れている。
着ているのは、仕立てのよい濃紺の上衣。
無駄のない立ち姿なのに、不思議と目を引いた。
夕暮れの光の中でも、その顔はよくわかった。
(……あの窓の人?)
だとすると——
几帳面さんが、はっとしたように背筋を伸ばした。
「殿下!」
やはり。
この人が——王太子アドリアン・ド・ヴェルモン殿下。
『謹厳な御方』という評判から想像していた通り、近寄りがたい雰囲気はある。
けれど今の殿下の顔にあるのは、冷たさではなかった。
侍従たちに向けた、静かな怒りだ。
声を荒らげるでもなく、威圧するでもない。
ただ、それだけで誰も逆らえなくなるような節度のある怒り。
「猫を追いかけているのか」
「はい。ミレイユ様のご命令で、不吉な猫を庭から追い出すようにと」
「三人がかりで一匹の猫を囲んで、それが庭の安寧を守ることになるのか」
几帳面さんが言葉に詰まった。
その沈黙だけで、十分だった。
殿下がミレイユを見る。
ミレイユもまた、殿下を見る。
青灰色の瞳が、まっすぐにこちらを捉えていた。
値踏みするでもなく、面白がるでもなく、ただ静かに見ている。
(なんだろう、この人……)
心配?
それとも——好奇心?
殿下がゆっくりとしゃがんだ。
そこでようやく、目の高さが近づく。
近くで見ると、殿下の目は思っていたより深い色をしていた。
青でも灰でもなく、その中間。
曇った空の色に似ているのに、不思議と冷たくはない。
「おいで」
小さな声で、殿下が言った。
「ミャ?(え?私に……?)」
差し出された手は大きく、きれいな手だった。
けれど捕まえるための手ではない、とすぐにわかった。
指先に力が入っていない。
無理に来させるつもりのない、待つだけの手だった。
ミレイユはためらう。
さっきまで追いかけてきていた三人の男が見ている。
几帳面さんも見ている。
殿下も見ている。
でも。
この人なら、信用できる気がした。
「おいで」と言いながら、来なくても責めないような声。
触れようとしているのに、少しも乱暴ではない手。
逃げてもいい、とどこかで許してくれているような距離の取り方。
(……信じてみてもいいのかもしれない)
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
ミレイユは一歩、また一歩と近づき、殿下の手に頭をそっと押しつけた。
こつり、と額が触れる。
自分からこんなことをしたのに気づいたのは、触れてからだった。
大きな手が、ゆっくりとミレイユの頭を包む。
耳のつけ根を避けるように、やさしく撫でられる。
乱暴に掴まれなかったことが、ただそれだけで胸にしみた。
温かい。
それだけで、もう少しで泣きそうになった。
喉の奥がきゅっと詰まって、危うく変な声が出るところだった。
「この猫はしばらく、私が預かる」
そう言い渡すと、几帳面さんが何か言おうとした。
けれど殿下が一瞥すると、それだけで黙り込む。
有無を言わせないのに、押しつけがましさのない視線だった。
そのまま殿下に抱き上げられる。
(うわっ!高い!)
突然の高度に思わず爪を出しかけたが、すぐに引っ込めた。
殿下の腕はしっかりしていて、抱き方も意外なほど安定している。
落とされる心配はなさそう。
胸元に収まると、聞こえてくる心音まで落ち着いていた。
「軽いな。何日も庭にいたな。随分と痩せている」
「ミャウ(そりゃあ、魚と干したパンで生きてたからです……)」
言い返したところで通じない。
でも、少しだけ気が緩んだ。
殿下に抱かれたまま、ミレイユは本棟へと連れていかれた。
日が暮れていく庭を、人目を気にして怯えながらではなく、ただ静かに揺られながら進んでいく。
さっきまで逃げ場のない場所だった庭が、同じ景色のはずなのに少し違って見えた。
殿下の上衣の匂いがする。
ほんのりとした石鹸の、清潔な香り。
それに混じって、外気と紙のような、乾いた落ち着く匂いもした。
(……悪い人じゃない、と思う)
根拠のない確信だった。
でも今のミレイユには、その根拠のなさごと信じてみたかった。
目を閉じると、撫でられたところがまだじんわり熱い。
ミレイユは殿下の腕の中で、そっと体の力を抜いた。
連れ込まれたのは、本棟の執務室だった。
広い部屋には書棚がずらりと並び、大きな執務机があり、暖炉では火が穏やかに燃えている。
窓際には細長いソファ。明かりは蜜蝋の蝋燭で、やわらかな光が部屋の隅々まで満ちていた。
外の雨と土の匂いに慣れていた鼻には、その部屋の空気はひどく落ち着いて感じられる。
乾いた紙の匂いと、木と、火の匂い。人の住む場所の匂いだ、とミレイユは思った。
殿下がミレイユをそっとソファに下ろした。
「まず、体を拭かないといけないな。随分汚れている」
「ウミャ(それは否定できないです……)」
見れば、白い毛はだいぶ薄汚れていた。
庭の土と埃と、何日も外で暮らした証拠が、そのままこびりついている。
令嬢としての品位がずたずただ。
もちろん今は猫なので関係ないのだけれど、それでもちょっとへこむ。
殿下は扉を開け、廊下に控えていた侍従へ声をかけた。
「温かい湯と、柔らかい布を持ってきてくれ。それから魚と、できれば鶏肉を少し」
「……はい」
侍従の返事には、わずかな戸惑いが混じっていた。
だが逆らいはしない。王太子の命令なのだから当然だ。
それでも、猫一匹にそこまでするのか、という顔はしていた。
殿下が戻ってきて、ソファの上のミレイユを見る。
「逃げないか」
「ニャァ(逃げません)」
ミレイユはゆっくりまばたきをした。
猫の体では、まばたき一つで気持ちが伝わるような気がする。
殿下がわずかに目を細めた。
「賢い猫だ」
その言い方が、少しだけやさしかった。
ミレイユはソファの上で丸くなり、暖炉の火を眺めた。
あたたかい。
じんわりと体の芯までほどけていくようなぬくもりだった。
何日ぶりだろう。雨をしのげて、火があって、追い払われる心配をしなくていい場所なんて。
(ここ、なかなかいいかも……)
いや、だめだ。
慣れてはいけない。
ここにいるのは一時的なことで、自分は早く人間に戻って、魔女を告発して、本当のことを伝えなくてはいけないのだから。
「怖かっただろう」
そう思っていたところへ、殿下がぽつりと言った。
「三人の男に囲まれて、追い詰められて」
「ミャ?(え?)」
「なぜ、私の手を取った?猫が人間に手を差し出されて、近寄ってくるのは珍しい。警戒するものだ。それとも、余程腹が減っていたか」
声が少し和らいでいた。
笑っているわけではないけれど、昼間のような張り詰めた硬さもない。
(なぜ、って……なぜだろう。信用できそうだと思ったから……と言えないし、そもそも言葉が通じないし)
ミレイユはソファから立ち上がり、殿下のほうへ近づいた。
毛足の長い敷物に足が沈む。こんな感触も久しぶりだ。
殿下の前まで行って、顔を見上げる。
青灰色の瞳が、すぐ近くにある。
昼間の庭で見た目とほとんど変わらない。
ただ今は、もう少しだけ、やわらかい気がした。
「ニャア」
呼びかけてみた。特に意味はない。ただ、何か言いたかった。
大丈夫ですとか、助かりましたとか、そういうことを。
でも出てくるのは猫の声だけだ。
殿下がゆっくりと手を伸ばし、ミレイユの耳の後ろを撫でた。
指先がそっと毛を分ける。その手つきがあまりに丁寧で、肩から背中にかけてふっと力が抜ける。
次の瞬間、喉が勝手に鳴った。
「ゴロゴロゴロゴロゴロ(えっ!?何これ???)」
しまった、と思ったのに止まらない。
むしろ撫でられるたび大きくなる。
殿下の指が耳のつけ根から首筋へ移ると、気持ちよすぎて目が細くなった。猫、正直すぎる。
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