第五話 白猫のまま、王宮に潜り込む
二日目。
ミレイユは公爵家の周辺を探りに行った。
門の近くで気配を消すように様子を窺っていると、昼前に馬車が出てきた。
窓から見えた顔は、ミレイユの姿をした魔女だ。
婚約式は昨日終わった。では今日はどこへ向かうのか。王宮か、それとも別の挨拶回りか。
ミレイユは反射的に馬車を追おうとしたが、馬の脚はあまりにも速く、白い車輪の軌跡だけを残して、あっという間に見失ってしまった。
(どこへ行ったの……王宮?もう婚約が成立したということ?)
もっとしっかり、スケジュールを読み込んでおけばよかったと後悔しても遅い。
時間が経てば経つほど、魔女の偽装は固まっていく。
本物のミレイユが『私が本物です』と訴えたところで、魔女がミレイユの姿をしている以上、誰も信じないかもしれない。
そう思うと、背中の毛がじわりと逆立つような不安が走った。
(早くしないと)
でも、どうすればいい。
猫のまま王宮へ乗り込む?
誰に話せる?
どうやって魔法を解く?
問いばかりが増えて、答えはひとつも出てこない。
ミレイユは考えに考えたが、結局何もできないまま夜になった。
その夜も、教会の軒下で眠った。
三日目の朝、ミレイユは本格的に途方に暮れていた。
雨が降り始めたのだ。五月の雨は思った以上に冷たい。
毛並みが濡れると、体が急激に冷えていく。
何度かプルプルプルと水を弾いてみたけれど、水を含んだ毛が肌に張りついて、歩くだけでも重たい。
屋根のある場所を探して走り回ったが、軒下に陣取ろうとすれば先住猫に唸られ、物置小屋に潜り込もうとすれば使用人に追い出された。
濡れた耳を伏せ、ひげの先から雫を落としながら路地をさまよっていたとき、ふと気づく。
いつの間にか、王宮の外壁の近くまで来ていた。
王宮は街の中心にある。
高い石壁がぐるりと周囲を囲み、その中に王家の居所とさまざまな施設が収まっている。
ミレイユも婚約式当日に、初めて正門を通るはずだった。
——あの魔女に横取りされるまでは。
石壁に沿って歩きながら、ミレイユは考えた。
この中に、今ごろ魔女がいる。
ミレイユに化けた魔女が、王太子の婚約者として振る舞っている。
(誰も助けてくれない)
そのとき——ぐるるる、と猫の喉から腹の虫の音がした。
緊張感のない音なのに、今の自分にはやけに切実だった。
(……とりあえず、食べないと)
ミレイユは王宮の外壁を見上げる。
石壁の一部が古くなって、少し崩れているところがあった。
猫一匹なら通れそうな隙間だ。
王宮の中には厨房がある。
食べ物がある。
何より、屋根がある。
ミレイユは隙間を見た。
(……どうせ猫だし)
白いひげをぴくりと震わせて、隙間に頭を突っ込んだ。
王宮の庭は、思ったよりずっと広かった。
壁の中へ入ってみると、そこには整然とした庭園が広がっている。
幾何学模様に刈り込まれた生け垣と、色とりどりの花壇。
中央には噴水があり、石畳の小径が縦横に伸びていた。
(綺麗……)
五月の雨に濡れた庭は、それでも十分に美しい。
花びらには雫が乗り、生け垣の葉先からは細い水がぽたぽた落ちていた。
人間の目で見ていた庭より、今はひとつひとつが近く、鮮やかに見える気がする。
けれど、ぼんやり鑑賞している場合ではなかった。
庭師の姿が見えたのだ。雨合羽を着た男が、花壇の傍でしゃがみ込んでいる。
気づかれたらまずい。
ミレイユは急いで生け垣の陰へ潜り込んだ。
葉のあいだをするりと抜けるのは、もうずいぶん慣れてしまった。
生け垣の内側は思った以上に快適で、葉が雨を遮ってくれるぶん、中はさほど濡れていない。
土もほんのりあたたかく、鼻先を近づけると青い匂いがした。
一息ついてから、ミレイユは庭を観察した。
王宮の本棟は庭の北側に建っている。
石造りの威厳ある建物で、いくつもの塔が空へ突き出していた。
南側には別の建物がある。厨房か、使用人棟だろうか。
煙突の位置からして、そのあたりの可能性が高そうだった。
(悪くない状況……かな?)
ここにいれば、屋根の代わりに生け垣がある。
食べ物は——魚が泳いでいる池もあった。
猫に魚は定番だ。自分は令嬢だが、今は猫なので、致し方ない。
そう思わないとやっていけない。
そして何より、ここには魔女がいる。
近くにいれば、何か手がかりが掴めるかもしれない。
遠くの路地で震えているより、ずっとましだ。
(当面、ここにいよう)
そう決めた途端、雨が少し強くなった。
ミレイユは生け垣の中で丸くなる。
前足を胸の下へしまい込み、尻尾を体へ巻きつけると、猫の本能が「その形がいちばんあたたかい」と教えてくる。
なんだか悔しいけれど、実際その通りだった。
雨音を聞きながらじっとしているうちに、冷え切っていた体が少しずつ戻ってくる。
その日の午後から、ミレイユの『王宮潜伏生活』が始まった。
食料は池の魚。
最初は水に前足を突っ込んで掬い上げようとしたが、魚は素早く身を翻して逃げてしまう。
水しぶきだけが肉球を濡らし、ひどくみじめだった。
どうしたものかと思っていたら、今度は猫の体の本能が教えてくれた。
静かに待つ。
息を潜める。
影が近づいた瞬間、素早く引っ掻く。
何度か失敗した末に、小さなフナを一匹捕まえることができた。
跳ねる魚を前に、少しだけ達成感があったのが悔しい。
生で食べることへの抵抗は、もちろんあった。
若干どころではない。かなりあった。
けれど文明的な調理方法がない以上、選択肢はない。
ミレイユはぎゅっと目をつむり、意を決してかぶりついた。
「フニャッ!(……美味しい)」
自分でも驚いた。
猫の舌は本当に正直だ。悔しいけれど、鮮度のいい魚はちゃんと美味しい。
水は噴水の縁から飲んだ。
これは令嬢としての矜持を大いに傷つけたが、渇くよりはましだった。
夜は生け垣の中か、庭の端にある石造りの東屋の陰で眠った。
東屋の下は石が冷たかったが、雨をしのげるだけでもありがたい。
王宮に忍び込んだ次の日の朝。
ミレイユは日課として、魔女の動向を観察することにした。
昼頃、ミレイユの姿をした魔女が馬車で王宮へやって来た。
生け垣の隙間からその様子を窺って、ミレイユは思わず目を細める。
(……私、あんな顔してたの?)
他人の目で自分の顔を見るというのは、奇妙な体験だった。
確かにあれは自分の顔だ。けれど、表情が違う。
口元のかたさも、目つきの冷たさも、あれはミレイユではない。
あの魔女は、ひどく機嫌が悪そうな顔をしていた。
(うまくいってないのかしら)
そう思うと少し複雑で、でも少しだけ安堵した。
どうやら、何もかも思い通りというわけではないらしい。
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