第四話 花嫁ではなく、白猫が追い出された
すぐに他の侍女たちも駆けつけてくる。
「猫……!」
「不吉だわ!」
「婚約式の当日に!」
ざわざわとした声が一気に膨らむ。
ミレイユはその輪の中で、ぐるぐると鳴き続けた。
耳を伏せ、尻尾を膨らませ、逃げ場を探して視線だけが忙しなく揺れる。
「ニャニャニャ!(違う!私よ!みんな、私の声を聞いて!)」
でも届かない。
侍女の一人が箒を取り出した瞬間、本能的な恐怖が背を走った。
居室の隅へ追い詰められ、さらに窓際へと追い立てられる。
ひげが壁に触れ、逃げ場のなさだけがはっきりわかった。
「出て行きなさい!」
「さあ、早く!」
侍女が窓を開ける。外の空気がどっと流れ込んできた。
高い。怖い。けれど、後ろからは箒が迫ってくる。
視界の端では、魔女が化けた自分が、怯えるふりをして、笑っているのが見える。
選択肢はなかった。
ミレイユは窓枠を蹴って、外へ飛び出した。
二階の窓から飛び降りるなんて、人間だったら絶対にしたくない。
猫の体でも、やっぱり怖かった。
けれど躊躇している余裕はない。ミレイユは思いきって身を躍らせた。
ふわ、と一瞬だけ体が軽くなる。
次の瞬間には四つ脚で草の上にシュタッと着地していた。
衝撃はあるのに、砕けるような痛みはない。
猫は着地が上手い。頭の片隅で妙に冷静な感想が浮かぶ。
でも感心している場合ではなかった。
ミレイユはそのままの勢いで走った。
どこへ行くかなんて考えていない。ただ走る。
後ろを振り返ったら、全部おしまいな気がして。
屋敷の裏庭を抜け、厩舎の横を通り過ぎ、使用人用の門が開いているのを見つけると、そこから外へ飛び出した。
石畳の道へ出たところで、ようやく足を止める。
振り向くと、ブランシュフォール公爵家の屋敷が、遠ざかっていく。
——いや、違う。
遠ざかっているのではなく、自分が離れてきたのだ。
五月の風が、白い毛並みをそっと撫でた。
風の通り道が、毛の流れに沿ってわかる。
そんなことまで感じ取れてしまう自分が、ちょっとだけ嫌だった。
(……これからどうしよう)
どうしようも何も、どうにもならなかった。
猫になって最初にわかったのは、世界がずいぶん大きいということ。
道行く人の足は柱みたいで、裾の揺れるだけで風圧を感じる。
荷馬車の車輪は岩のように巨大で、近くを通るたびに地面がどん、と震えた。
建物は天まで届く壁みたいで、石畳の一つひとつが、いちいちまたがなければならない段差に見える。
人間だったときには、気にもしなかったことばかりだ。
それが今は、いちいち障害になる。
その一方で、猫の体は人間が思っていたよりずっと機能的だった。
狭い隙間をすり抜けること。
少し高い塀なら、助走もそこそこに跳び上がれること。
物音に耳が勝手に反応して、危なそうな方向へは自然と体が引けること。
どうやらこの体には、猫としての本能がきちんと宿っているらしい。
ただ問題は、それだけでは生きていけないということだった。
(お腹が空いた)
最初の一時間は、状況の整理と脱出経路の検討に費やした。
公爵家に戻って訴える、という選択肢は真っ先に却下した。
あの様子では、戻ったところで追い払われるだけ。
むしろ、さっき以上に大騒ぎになるかもしれない。
魔法を解いてもらうには、魔女を見つけるしかない。
でも今その魔女は、ミレイユの顔で、ミレイユの声で、婚約式に臨もうとしている。
考えるだけで、胸の奥がざり、と痛んだ。
二時間目は、途方に暮れることに費やした。
三時間目に、空腹が牙を剥いた。
考えてみれば、今朝から何も食べていない。
支度に追われて朝食を取りそびれていたのだ。
人間の体でも空腹だったのに、猫の体になった今は、胃がきゅうっと縮むみたいに空腹が強い。
鼻が利くせいか、食べ物の匂いが余計につらかった。
(何か食べないと)
市場の方へ行けば、何か落ちているかもしれない。
猫なんだから、そのくらい——と思ったものの、ブランシュフォール公爵家の令嬢として育ったミレイユには、地面に落ちたものを拾い食いするという行為への心理的ハードルがあまりにも高かった。
でも、食べなければ死ぬ。
令嬢としての矜持より、いまは生き延びることのほうが先だ。
市場は人でいっぱいだった。
色とりどりの布地、山積みの野菜、魚の並ぶ台、焼き菓子の屋台。
匂いが幾重にも重なって押し寄せてくる。甘い匂い、塩気のある匂い、生臭い匂い。
鼻が良すぎるのも考えものだと、こんなときに知った。
見ると、いろいろなものが足元に落ちている。
パンの欠片。野菜の切れ端。魚の骨。
(骨は食べられない……いや、猫だから食べられる?でも喉に刺さったらどうするの?そもそも、生で?)
迷っているあいだに、先客の存在に気づいた。
灰色の猫が一匹、素早く魚の骨をくわえて走り去っていく。
まるでためらいがない。この街で生きてきた猫の動きだった。
(ああいう風にすれば……)
「おい、猫!」
怒鳴り声が飛んだ。
ミレイユはびくっと飛び上がる。
耳が反射的に伏せられ、尻尾が膨らんだ。
市場の魚屋が、こちらを睨んでいた。
「うちの台に近づくな!あっちへ行け!」
(そうだ……この国では猫は嫌われものだった)
胸の奥がすうっと冷たくなる。
白猫は不吉。さっき魔女が言っていたことを、最悪の形で思い出した。
ミレイユは走って逃げた。
人の足のあいだを縫い、木箱の脇をすり抜け、なんとか路地へ転がり込む。
息が切れ、小さな胸がせわしなく上下する。
(なんでこんなことに……)
路地の隅にしゃがみ込み、ミレイユは初めて本気で泣きそうになった。
婚約式は、もう始まる頃だろう。
魔女が自分のふりをして、王太子殿下と向き合っている。
自分は路地の隅で、空腹に耐えながら小さくなっている。
「……ゥミャウ……(……笑えない)」
かすれた鳴き声しか出なかった。
泣いても仕方がないし、そもそも猫が泣いたところで、誰もミレイユの絶望だとは気づかない。
それでも、ここでうずくまっているわけにはいかなかった。
(まず食べること。それから考えないと)
結局その日、ミレイユが口にできたのは、パン屋のゴミ箱に捨てられていた廃棄のパンの欠片と、お惣菜屋の前で若い女の子がくれた煮魚の切れ端だけだった。
女の子は「白猫だ!」と目を輝かせ、自分の食べかけの煮魚をちぎって分けてくれた。
しゃがみ込んだその手は小さくて、少しぬくかった。
ミレイユが恐る恐る近づくと、逃がさないようにではなく、驚かせないようにそっと差し出してくる。
人間にも、こんなふうに優しい人はいるのだと、猫になってから初めて知った気がした。
けれど、恵んでもらったものを食べながら、ミレイユの胸の内はなんとも複雑だった。
人から施しを受けるという経験を、生まれて初めてしたのだ。
公爵令嬢として何不自由なく生きてきた自分が、猫の姿で地面に座り、人から食べ物をもらっている。
しかも、差し出された魚に思わず鼻先が寄ってしまった自分が、少しだけ情けない。
(……ありがたいけど、どうにも心に刺さる)
でも、食べなければ死ぬ。
だから食べた。
煮魚は思ったよりずっと美味しかった。
舌に触れた瞬間、塩気と旨みがぱっと広がって、骨の気配まで妙にはっきりわかる。
猫の舌は正直だった。悔しいくらいに。
夜になると、ミレイユは隠れるように教会の軒下へ潜り込んだ。
石の上は硬く、夜風は冷たい。
昼のあいだに少し乾いた毛並みも、夜気に触れるとすぐ頼りなくなる。
体を丸め、尻尾を体に巻きつけるみたいにして目を閉じたが、なかなか眠れなかった。
「ミャ……(今頃、婚約式は終わったかな)」
魔女は式を終えてしまっただろうか。
王太子殿下は何も気づかないままだったか。
ブランシュフォール公爵家の使用人たちは、主人が入れ替わっていることに気づかないのか。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。
それでも、そこで思考を止めるわけにはいかなかった。
(でも、諦めない)
軒下から夜空を見上げると、星が出ていた。
五月の空は透き通っていて、ひとつひとつの光がよく見える。
令嬢だった頃、よく夜の庭に出て星を見上げていたことを思い出す。
侍女頭には「夜露に濡れますから」と怒られていたけれど、あのひんやりした空気も、静かな庭も、ミレイユは案外好きだった。
(もう一度、あの庭で星を見たい)
そう思った途端、喉の奥が少しだけ詰まった。
泣くまいと目を閉じて、ミレイユはようやく眠りに落ちた。
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