第十六話 ベッドの端から、腕の中へ
それは、十五日目の夜のことだった。
ミレイユはクッションの上で丸まっていた。
いつものように。
殿下はベッドに入り、いつものように穏やかな寝息を立てている。
けれど今夜は、暖炉の火がいつもより少し早く落ちていた。
体中を毛で覆われているとはいえ、五月の夜は思ったより冷える。
ミレイユはさらに体をぎゅっと縮こめ、自分の体温を逃がさないように尻尾を鼻先へ巻きつけた。
(寒い……)
ソファよりは少しいい寝床でも、クッションはベッドほど暖かくない。
毛布もない。暖炉の火も、もう頼りない。
(ちょっとだけ、ベッドの端に近づけば……)
ミレイユはそろそろとクッションから立ち上がり、ベッドの端へ近づいた。
そこからは、毛布の匂いと、殿下の体温がほのかに流れてくる。
近づいただけでわかる。こちらのほうが、比べものにならないほど暖かい。
(もう少しだけ……)
ベッドの端に前足をかける。
(乗ってしまえば暖かい。でも、殿下のベッドに勝手に乗るのは……)
(ただの猫がベッドに乗るのは行儀が悪い。でも寒いし、凍えそうだし……いや、凍えてはいないけれど、猫の本能が『暖かいところへ行け』と叫んでいる)
(令嬢としての矜持と、猫の本能が激しく戦っている……!)
前足をかけたまま、ミレイユは真剣に迷った。
そのときだった。
「……寒いのか」
殿下の声がした。
眠っていたと思ったのに、起きていたらしい。
「乗っていい」
「ニャア(え?いいの?)」
「端の方でじっとしていなさい」
「ニャ(は、はい)」
ミレイユは、おそるおそるベッドに乗った。
言われた通り、端の方。殿下の足元に近い場所へ静かに丸まる。
毛布が近い。寝台そのものが温かい。何より、人の体温がある。
「くわっ……(暖かい……)」
ほう、と小さく息が漏れた。
猫の安堵の息は人間より小さいけれど、たしかに体の力が抜けていくのがわかる。
強ばっていた肩も、背も、前足の先までほどけていく。
「それでいい」
殿下が呟いた。
もう目を閉じているのか、声が少し眠たげだった。
ミレイユは丸まったまま、ゆっくり目を閉じる。
(これが当たり前になってはいけない。でも今夜だけは……)
今夜だけ。
そう思いながら、ミレイユはあっという間に眠りに落ちた。
翌朝、殿下が目を覚ましたとき、ミレイユは殿下の腕に抱え込まれるような格好で丸まっていた。
移動した記憶はない。眠っている間に、暖かい方へ暖かい方へと寄っていったらしい。
「ミャ(え、いつの間に……!)」
ミレイユは飛び起きようとした。
けれど殿下の手が、そっと背に置かれる。
「動くな、落ちる」
落ちる、というのは寝台から落ちるということだ。
それはミレイユにとっても困るので、素直に動きを止めた。
殿下がミレイユを見下ろしている。
半分眠そうな顔で、それでもどこか——
(怒っていない)
むしろ、少しだけ気が抜けたような、やわらかな顔だった。
『謹厳な御方』が朝一番に見せる顔は、夜の執務室でも見たことがないほど柔らかい。
「暖かいな。猫というのはこんなに暖かいものか」
殿下がぽつりと言う。
「ニャア(当たり前です。猫ですから)」
「そうか」
何がそうか、なのかはわからない。
けれど殿下はそのまま、もう一度だけ目を閉じた。
(え、また寝るの?)
殿下は王太子なのだから、朝から公務があるはずだ。
いつもならもう起きていてもおかしくない時間だった。
でも今日は——ミレイユが腕の中にいるせいで——起き上がる気をなくしているのかもしれない。
「ミャ?(下りましょうか?)」
そう思ったのに、背中に置かれた手が温かくて、なんとなく今はこのままでいてもいい気がした。
ミレイユは再び丸まる。
すると殿下の寝息が、また少しずつ穏やかになっていった。
つられてこちらも鼻先がゆるみ、気の抜けた音が漏れる。
「スピスピスピ……(こういう顔もするんだ……この人)」
令嬢だった頃に想像していた『謹厳な御方』は、今目の前にいる人とずいぶん違う。
たしかに公の場では隙がなく、判断は速く、言葉は正確だ。
でも、朝一番に猫を腕の中へ抱えたまま、二度寝しようとするこの人は——
(私が人間だったら、どんな話をしていたかな)
本の話。
庭の花の話。
夜の庭に出る星の話。
変身魔法の本を一緒に読んだみたいな、ああいう静かな時間の話。
(……どうせなら、ちゃんと会いたかった)
もう何度目かわからない、その思いが胸をよぎる。
けれど、すぐに打ち消した。
感傷に浸っている場合ではない。まず元に戻ることが先だ。
(頑張らなければ)
ミレイユはもう一度目を閉じながら、静かに決意を新たにした。
それから『ベッドの端に乗せてもらう』は、ほとんど毎夜の習慣になった。
クッションは形式上、まだそこに置かれている。
けれど実際のところ、ミレイユは毎夜ベッドの端から始まり、朝になる頃には布団の中へ入り込み、殿下の腕の近くで眠っていた。
「またこちらに来ていた」
朝、殿下が言う。
困っているというより、確認するような口調で。
「ニャア(私もいつ入っているのかわからないんです)」
「そうか」
このやり取りも、いつの間にか日課になった。
侍従が朝食を持ってきたとき、殿下の腕の近くで丸まっているミレイユを見て、毎回のように感動した顔になるのも変わらない。
そのたびに殿下が「報告するな」と釘を刺すのだが、
侍従は「はい」と答えながら、明らかに誰かへ話していた。
(侍従は嘘がつけない人ね……)
ミレイユはそれを、少し微笑ましく思った。
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