第十一話 王妃様まで、お猫様に夢中です
翌朝から、何かが変わった。
侍従がミレイユの食事を運んできたとき、後ろにもう一人ついてきていた。
厨房担当の若い料理人だ。少しそわそわした顔で、けれど妙に誇らしげでもある。
「お猫様のお食事を、私が特別に用意させていただきました」
そう言って差し出されたのは、魚のすり身と鶏のスープだった。
昨日までより、明らかに手が込んでいる。
「ニャァ(え、いつの間に)」
「殿下のご命令ではありませんが……お猫様のお食事が毎日同じでは、と思いまして。昨夜考えました」
料理人の目がきらきらしていた。
ここまで期待に満ちた目を向けられると、さすがに少したじろぐ。
ミレイユは戸惑いながらも、差し出された皿へ顔を寄せた。
「ニャッニャニャ!(美味しい……!)」
魚のすり身には、おそらく少しだけ乳が混ざっている。
温かくて、口当たりがやわらかい。
鶏のスープも薄味なのに旨みがしっかりあって、猫の舌にもわかるやさしい味だった。
干し魚を齧っていた一週間前とは、まさに雲泥の差である。
「お口に合いましたか!」
料理人が身を乗り出す。
ミレイユは思わず、ごろごろと喉を鳴らした。
猫の体は、満足したときに本当に勝手に音が出る。
「よかった!では明日は白身魚のムースを」
「ミャァ(え、ムースまで作ってくれるの)」
どうやら、ただの一食では終わらないらしい。
こうして、厨房にも『お猫様ファン』が誕生した。
その日の昼。
殿下が午前の謁見から戻ってくると、執務室の前の廊下に侍女が三人立っていた。
「何をしている」
「あの……お猫様に、ご挨拶をと思いまして」
三人のうち一人が、緊張した面持ちで言う。
十代後半くらいの侍女たちで、手には小さな花束を持っていた。
「ミィに花を持ってきたのか」
「春の花は猫に有害なものも多いので、調べまして、ラベンダーにいたしました」
「無理強いしないなら構わない」
殿下が少しのあいだ侍女たちを見たあと、入室を許す。
三人がそろって執務室へ入ってくる。
ミレイユはソファの上から、その様子をじっと観察した。
「お猫様……!」
侍女の一人が小声で叫んだ。
「白くて……ピンクのリボンで……!なんと可愛らしい……!」
「肉球まで、可愛いピンク色!」
「ミャァ(ご挨拶はラベンダーかしら。猫への配慮があるのは嬉しいけど)」
差し出された花束から、やわらかい香りがした。
強すぎず、鼻に痛くない。ちゃんと調べてきたというのは本当らしい。
ミレイユはソファからゆっくり立ち上がり、端を歩いて侍女たちのほうへ向かった。
急に駆け寄ると驚かせる気がして、少しだけ慎重になる。
「あっ、来てくれた……!」
「ミャー(みんな、猫が好きなのかな)」
侍女たちが小声でざわめく。
ミレイユは三人の前で止まり、順番に顔を見上げた。
緊張した顔、嬉しそうな顔、今にも泣きそうな顔。
いや——それだけではないのかもしれない。
『猫は不吉』という宮廷の空気の中で、殿下に拾われ、しかもリボンまでつけてもらっている白猫。
そのこと自体が、何か特別なものとして映っているのだろう。
ミレイユは侍女たちの前に座り、ゆっくりまばたきをした。
すると三人が一斉に、胸を押さえるみたいな顔になる。
「いま……まばたきを……」
「こちらにご挨拶を……?」
「なんてお利口なの……」
(……まあ、悪い気はしない……かもしれない)
少なくとも、箒で追い立てられていた頃よりは、ずっといい。
そう思いながら、ミレイユはもう一度だけ、ゆっくりと目を細めた。
その日の夕方、ミレイユはピンクのリボンをつけたまま、ソファの上で丸くなっていた。
猫というのは、どうしてこんなに眠いのだろう。
元に戻る方法を調べないといけないのに、気づけば一日の半分以上を寝て過ごしてしまう。
暖かい場所にいると、なおさら抗えない。
扉をノックする音がして、見知らぬ女性が入ってきた。
ミレイユは顔を上げる。四十代ほどの、品のある女性だった。
落ち着いた紫色のドレスをまとい、白い髪を上品にまとめている。
歩き方ひとつとっても無駄がなく、部屋の空気が少しだけ改まった気がした。
侍女ではない。
服装もその佇まいには、侍女たちとは違う重みがある。
(誰だろう)」
「母上」
「ミャッ!?(……王妃様!?)」
ミレイユは飛び起きた。
いや、猫なので飛び起きるといっても、ぴょこんと座り直したくらいなのだが、気分としては完全に飛び上がっている。
王妃陛下。王太子の母親。この国の王妃。
(どうしよう、逃げた方がいい?でも逃げたら失礼?そもそも礼の仕方がわからない。カーテシーもできない。立って頭を下げるべき?でも猫の頭はどこ判定なの?前足?)
混乱しているうちに、王妃が部屋へ入ってきた。
「聞きましたよ、アドリアン。白猫を保護したというのは本当のこと?」
「はい」
「見せてちょうだい」
殿下がミレイユへ視線を向ける。
逃げなくてもいい、と言われた気がして、ミレイユはソファの上から王妃を見上げた。
王妃が近づいてきた。
その顔を見ると、先ほどの品のある印象はそのままに、目にはあたたかい光がある。
「まあ……本当に白い子ね。真っ白」
王妃がしゃがんだ。
殿下と同じように、ちゃんとミレイユと目の高さを合わせる。
「ピンクのリボンをつけているの?可愛いわね。誰が?」
「私です」
殿下が答えると、王妃が少し驚いた顔になり、それからふっと微笑んだ。
「あなたが自分でリボンを選んで、猫に結んであげたの」
「はあ……まあ」
「ふふ」
(あ、この親子、仲がいいんだ)
王妃が楽しそうに笑う。殿下がなんとも言えない顔をした。
殿下が『謹厳な御方』としてしか知られていないのは、公の場でそれ以外を見せないからなのだろう。
王妃の前では、ほんの少しだけ表情が違う。
「名付けたと聞きましたよ」
「はい。ミィと」
「不吉の逆、吉兆のような響きでいいわね」
王妃がミレイユを見た。
「いい名前だわ」
ミレイユはゆっくりとまばたきをした。
王妃の目が、やわらかく細くなる。
「……賢そうな目をしているのね」
「はい、賢いんです。言葉がわかっているように見えます」
「猫はそういうものよ」
王妃がそう言いながら、そっと手を差し出した。
(どうぞ)
ミレイユはその手の匂いを確かめるように、鼻先を近づけた。
香水はごく薄く、やわらかい花の匂いがする。
嫌な感じはしない。むしろ、落ち着く香りだった。
王妃が、ほう、と小さく息をつく。
それからやさしい手つきで、ミレイユの頭を撫でた。
指先は慣れていて、耳のつけ根を避けるあたりが絶妙だ。
嫌がらせない撫で方を知っている人の手だった。
「可愛い子ね……」
(王妃様も……猫が好きなのかな)
その声は、公式の場で発する王妃の声とはまるで違っていた。
肩の力が抜けた、素の声だ。
「母上も」
「え?」
「猫がお好きなのでしょう」
殿下がそう言った。
王妃が少し照れたように笑う。
年相応のやわらかい表情で、その一瞬だけ、王妃ではなくただの猫好きの女性に見えた。
「バレてしまったかしら。実は昔から好きなのよ。でも……ね」
「不吉と言われているから」
「そう。だから嬉しいのよ、この子が来てくれて。宮廷でも、こういう声があってもいいと思っていたの。猫は優雅で賢くて、人をよく見ている。不吉なわけがないわ」
王妃が改めてミレイユを見る。
ミレイユもまた、王妃を見た。
(素敵な方だ)
「しばらく、ここにいてちょうだい、ミィ」
王妃が言った。
命令ではなく、お願いのような、ひどく穏やかな言い方だった。
ミレイユは静かに、ゆっくりとまばたきをする。
猫なりの返事のつもりで。
その仕草を見た王妃の口元が、どこか祈るように、またふっと綻んだ。
「ミャァ(もちろんです。どこへも行きません——少なくとも今は)」
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