17. 熱と言葉(ジョーヌ視点)
その日は朝から体調が悪かった。
「昨日のバイトもハードだったからかな…」
花屋のバイトはそれほど重労働ではないけれど、レストランの方は最近SNSで人気になっているらしく、ひっきりなしにお客さんがやってくる。
おかげでシフトはギチギチで、パスタの重い皿を持ってフロアを走り回るせいで手足は筋肉痛だ。
でも時給はいい。ハードすぎる労働に文句を言いたいところだけど、人間関係は決して悪くはないし、頑張って働けばその分だけ稼ぐことができるので文句は言えない。
「熱…いや、気のせい…うん、気のせいってことにしよう…」
少し体がほてっている感覚はあったけれど、あえて体温は測らなかった。テスト期間に入ったらシフトは減らさないといけないし、今月はもう少し稼いでおきたい。
明日は学校もバイトも休みだし、今日さえ乗り切れば大丈夫なはずだ。
そこまで考えて、私は重い身体を動かし始めた。
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あ、かなりヤバいかもしれない。そう自覚し始めたのは、バイトが始まってすぐだった。
学校ではぼんやりと授業を聞き流していれば済んだけど、バイト先ではそうはいかない。しかも運の悪いことに今日は特に忙しい日だった。
目が回るほど忙しいなんて言うけれど、本当に目が回って来た。頭がグルグルする。
あ、と思った時には遅かった。トレーの上には既に皿をのせているというのに、足元の注意がおろそかになってつまづいてしまったのだ。
皿が床に激しくぶつかった音がして、遅れて「マリアちゃん?!」と女性の悲鳴のような呼びかけが聞こえる。
やってしまった、と視界が真っ暗になった気がした。パスタのスープをお客様に被せるなんて、クレームどころの話じゃないし、あんな熱いんだ、怪我をするに決まってる。
あぁ、頭がグルグルする。ミスをしたショックも相まって吐きそうだ。
…だけどこんなところで座り込んでいる場合じゃない。
「お客様! 申し訳ございません!」
すぐにテーブルへ駆け寄って、深く頭を下げる。
怒られると思っていた。怒鳴られて、叱られて。あと火傷もしているだろうから、治療費とか慰謝料とか…。
そんな悪い考えばかりが頭に浮かんでいたから、「私は平気ですわ」なんて落ち着いて返されるだけでなく、「そちらこそ、お怪我は?」とこちらのことを心配されて、私はひどく驚いてしまった。
自分が謝罪の途中であることも忘れて、頭を上げてしまう。
そこには花屋で会ったお客さんがいた。怒った様子もなく、前と同じように穏やかに微笑む彼女の姿。
相手も私のことを覚えていてくれたのか、私を見て、少しだけ目を丸くすると、周りをキョロキョロと見回す。
おそらく花屋にいたはずの自分が何故ここにいるのかと不思議に思ったのだろう。
「あっ…私、ここでもバイトをしてて…」
「…なるほど。そうでしたの」
私がそう言えば、彼女は目を伏せて納得したように静かに頷く。
やはり、怒っているようには見えない。
「あの…火傷は…」
「心配ありませんわ。こう見えて体は丈夫な方なんですの。少し熱いだけで、どこも痛みなど感じていませんわ」
思わず、嘘だ、と言いそうになった。このバイトをずっとしてきたから分かる。
ここの料理は基本的に出来立てを運ぶから、器も料理のスープもひどく熱いのだ。最初の頃に何度、その熱さで火傷をしそうになったことか。
指先でも耐え難いのに顔まで被って平気だなんて嘘に決まってる。
「その顔は信じておりませんわね。ほら、この通り。どこも赤くなどなっていないでしょう?」
信じられないという気持ちが顔に出てしまっていたらしい。お客さんは笑って他のスタッフから受け取ったタオルで顔や腕のスープを拭きとる。
そこには変わらず、白くて綺麗なままの肌があった。
「ね?」
そう言って悪戯が成功したかのように微笑む彼女は、やっぱり不思議なほど穏やかだった。
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平気だと言い続ける彼女を家へ呼んだのは、自分のせめてもの罪滅ぼしのためだ。
被害者である彼女が許しても、こんなことをやらかした自分を自分自身が許せない。
だけど謝罪も償いも目の前の彼女は不要だと受け取ってくれないから、せめてこれくらいは、と思って無理を言って読んでしまった。
道中でこれさえも彼女の迷惑になってしまうのではないかと気づいたけど、もう後には引けない状態で、私はただ謝罪の言葉を繰り返しながら道案内するしかなかった。
「シャンプーはこれで、トリートメントはこれです。安物なんですけど…」
こんなものしかなくて申し訳ない。そう思った私の気持ちを読み取ったのか、「伊藤さん」と名前を呼ばれる。
呆れたように笑う彼女。代わりに「はい! どうぞご自由にお使いください!」と言えば、よろしい、とでもいうかのように頷いてくれた。
「姉ちゃん。あの人、誰?」
「バイト先のお客さん。私がドジっちゃてさ、スープをかけちゃったの」
「あれ、姉ちゃんがやったの? やば~!」
「いいから、あっちで宿題をしてなさい。お客さんがいる間はお行儀よくね」
弟たちに軽く事情を説明して、着替えの服を用意し、そのまま手持ち無沙汰だったので夕食の準備を始める。
本当は来客がいるのにこんなことをするなんて失礼なんだろうけど、そのお客さん自身が謝罪も丁重なもてなしも不要だと拒否しているから、いつも通りのことをすることにしたのだ。
ふう、と軽い溜め息が漏れる。ひと段落がついて落ち着くと、まためまいと倦怠感が襲って来る。
それでも体を動かしていると、いつの間にか後ろにシャワーを終えたお客さんが立っていた。
「どういたしましたの?」
「…え? あ、すみません」
「お店でも思っていたですけれど、伊藤さん、貴方、少し疲れておりませんこと?」
「そんなことは…ちょっとぼーっとしてただけで…」
いつもように明るく笑う。笑えた、はずだ
あ、ヤバい。そう思った瞬間に、世界が回る。
そして私の意識はブラックアウトした。
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ふわふわしている。思考も上手くまとまらない。
それでも自分が今、布団の上で寝かされていて、天井を見上げていることだけは分かる。
「…あれ、私…」
「あら、目が覚めましたの?」
家族の誰でもない、聞きなじみのない声に一気に記憶が蘇る。
そうだ、私、キッチンで倒れて…。
「…っ!! すみません、私ったら…!!」
「あぁ、起き上がらないでくださいな。更に熱が上がりますから」
急いで起き上がろうとする私を見て、お客さんは優しく肩を押し布団の上に戻す。
料理の片付けも、親への連絡も、弟たちの面倒もすべてやったから心配ないと言われて、私は罪悪感に死にそうになった。バイトのミスに加えて、そんなことまでさせてしまうなんて。
せめてこれ以上は迷惑をかけるわけにはいかないと再度、布団からの脱出を試みるけれど、今度はデコピンで沈められてしまった。
「…なにがそれほどまで、貴方を焦らせるんですの?」
そう尋ねられ、私は唇を噛みしめる。
体が引きずられてメンタルも不安定になっているみたいだ。
いつもならこんな質問、明るく笑って流せるはずなのに今日は上手くいかない。
それとも、彼女が相手だからだろうか。柔らかくて穏やかな彼女の雰囲気が、この人ならば話してもいいんじゃないのかと、心の中の警戒心のようなものを溶かしてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい。今の言葉は忘れてくださるかしら」
黙り込む私を気遣ってくれたのか、彼女はそう逃げ道を作ってくれる。
だけど、私は言いたいと思った。何故だが分からないけれど、彼女に聞いて欲しいと思ったから。
「…だって、私がしっかりしないといけないから」
しっかりとしないと。今まで自分自身を奮い立たせるために使ってきた言葉。
だけど、今だけは違った響きに聞こえる。まるで不満を吐露しているような声色だった。
ずっと、ずっと、見ないようにしてきた本音。
どうして私ばっかり。いつも、いつも、頑張らなくちゃいけないんだろう。
我が儘な子供のような気持ちが、心の奥底からあふれてくる。
どうして私はこんなに頑張っているんだっけ。どうしてだっけ。どうして。どうして…。ねぇ、誰か教えてよ…。
じわじわと目に涙がたまっていく。そんな私を慰めるように、彼女は頭を撫でてくれた。
「…自分自身の大切なものを見失っては駄目ですわよ」
優しい声色だったけど、その声はどこか力強くもあって。彼女の言葉は妙に耳に残った。




