12. マリアの夢
夢を見た。
親戚のお兄ちゃんが使っていた黒のボロボロのランドセル、何度も洗ってしわしわになったTシャツに、丈が少し短いズボン。
髪はお母さんが切ってくれていたから、いつもどこか不揃いで、不格好だった。
「貧乏菌が移る〜!」
クラスの男の子がそうケラケラ笑いながら、横を通り過ぎていく。その声に感情を動かされることももうなくなった。
クラスに着いて自分の席に座って、引き出しの中を開けると、たくさんのゴミが入っていた。
それを見て少しほっとする。よかった。今日は家庭ごみとかは入っていないみたいだ。腐ったやつは異臭が酷くて嫌だったんだよね。
「くせぇんだよ。風呂入ってねぇんじゃねえの?」
まさか。湯舟には使っていないけど、毎日ちゃんとシャワーは浴びてるよ。
「見た? あの態度。ちょっと顔がいいからって、男子にも色目使っちゃってさ。調子にのってるよね」
ただ普通にしているだけなのにね。それにこの扱いを羨ましいというのなら、いくらでも代わってあげるよ。きっと一日で嫌になると思うけど。
「藤原さんってなに考えてるのかわかんなーい」
分からない? 私の方がもっと分からない。
どうして私は皆からこんな扱いを受けているんだろう。
帰り道、近所のおばちゃんに声をかけられた。手には煮物が入った大きなタッパーがある。
お節介な人で、私の家庭事情を知ってからはこうして手料理を手渡してくる。
「あぁ、マリアちゃん。ちょうどよかった。これ、作りすぎたからもらってくれないかしら。ほら、マリアちゃんのお母さんは忙しいでしょう?」
その目には、同情とか憐みとか、そんな感じの感情が宿っている。
あぁ、そうか。まだ生温いタッパーを受け取った時、私は理解した。
貧乏だからか。私が、母が、貧乏だから馬鹿にされる。哀れまれる。
そう思うと、今までなんとも思っていなかったはずのこの状況が、なんだかとても恥ずかしいもののように思えた。
「マリア。遅くなってごめんね。すぐご飯作るからね」
「ううん。平気」
「あら、このご飯どうしたの?」
「近所のおばさんがくれた」
「まぁ…今度、お礼をしにいかなくちゃね」
もらった煮物は妙にあまったるくて、それがおばさんの生温い親切心みたいで、すごく、すごく気持ち悪かった。
それでも一食分浮くんだからと口に押し込んで、ふとさっきまで背負っていたランドンセルとボロボロのアパートを見て、あぁ惨めだな、と思ったのだ。
お米をといでいる母の小さな背中を見る。朝早くから夜遅くまで、必死に働いている母の姿はとてもくたびれているように見える。娘の前では疲れた様子を見せない母だが、どれだけ隠されても、まとう空気である程度は分かってしまうものだ。
お金が欲しい。この惨めな生活から、この惨めな気持ちから解放されたい。
「進路どうする?」
「え~まずは大学には行くでしょ。今時、大学に通わないなんてヤバいもん」
「ねー。文系?」
「実は美術系行くのもありかな~なんて」
「え? 将来食っていけなくない?」
「ま、その時は親の脛でも齧りながらニートかな~」
「ヤバすぎ!」
高校生になって、進路の話が出始めた時、クラスの皆のほとんどが進学を考えていた。
私は無理だなって思った。だって私の家にはそんな余裕ないもの。
でも、もし、もしも、私の家が裕福だったら。
大学っていうところに行ってみたいな。帰り道で見た大学生たちがとても楽しそうに見えたから。
あとは、もし叶うなら、心理学とかも勉強してみたいかもしれない。この前、図書館で借りた本が面白かったから。将来、仕事になるか分からないけれど、そんな贅沢な勉強をしてみたい。
あとね、一人暮らしもしてみたい。お母さんのことは大好きだけど、やっぱりね、あの人の疲れた姿を見ると、自分は惨めな家に生まれた存在なんだなってことを思い出すから。
「お前、なにか叶えたい願いがあるか?」
そのためだったら、多少のリスクとか、罪悪感とか、そんなもの簡単に飲み込めるから。
だから、ねぇ、お金をちょうだい。
「マリア、ごめんね。お母さん、馬鹿やっちゃった…」
せっかく手に入った大金も、友達の連帯保証人になったとかで全部なくした母を見て、私は心底この女に失望した。
なるべくして私たちは貧乏になったのだと理解した。
頭が弱い人間は後先のことを考えない。だから手元にあるお金を簡単に使えてしまう。あぶく銭で気を大きくして、人からの頼み事も受け入れて、騙されて、またあの貧乏生活に逆戻り。
私はこの女みたいになりたくない。だから賢く生きなくちゃ。
■
藤原マリアの幼少期の記憶。ノワールと契約して変わった、昔の生活。
ここまではアニメで知っている。
だけど、夢は知らないシーンを見せてきた。場面が移り変わり、背景が今度は現実味のない殺風景な場所に変わる。
雪が降っている。
「妹ができるわ」
白銀の真っ白な世界で、知らない赤ちゃんを抱いた母が、優しそうな男性の横で、幸せそうに笑っている。なんだかそこだけ光に包まれていて、暖かそうだ。
自分の手を見ると、高校生だったはずの体はいつの間にか小さな子供のものに変わっていた。口が勝手に動く。
「ねぇ、お母さん。私ね、悪魔と契約したの」
マリアらしくない、ぶっきらぼうな言い方。そうだ。小学生まではこんな口調だった。
どうやったって人から馬鹿にされて軽蔑されるから、できるだけ他者への興味関心を薄くして、人から好感を得られるように振る舞うなんて、考えもしなかったな。
中学、高校に通うようになって、制服を着るようになった。パッと見の外見で家庭事情を察する要素がなくなった。
だから私は貧乏なことを隠すようになった。図書館からマナーの本を借りて、当たり障りのないコミュニケーションの仕方も練習して。
そうしたらいつの間にか、周りは勝手に自分のことを褒め出して、「上品」だの「育ちがよさそう」だのと言い始めた。
思わず笑っちゃいそうだった。馬鹿みたい。本当は正反対、「貧乏菌」なんて言われていたのにね。
「不思議に思わなかった? ある日、偶然拾った宝くじが大当たりして、急に一億円が入ってくるなんてさ」
でも取り繕って、演じて、努力しているうちに、本当にチャンスがやってきた。
あの日のことはよく覚えている。数字を確認した母がびっくりして固まって、私は本当に願いがかなったんだって興奮しっぱなしだった。
「そのお金が全部なくなっても、契約のおかげで、私と貴方はお金持ちのままでいられた」
まぁ、そのお金は馬鹿なお母さんのせいでほとんど溶けちゃったんだけど。
でも黒の魔女は「お金持ちになりたい」という契約をちゃんと守ってくれた。宝くじの他にも、色んな方法で私たちに大金が届けられた。
そのおかげで大学に通えて、私は今、好きなように生きている。
「その人も、事業が成功したお金持ちなのよね」
お母さん。本当に、腹立たしいくらいお人好しで、善人で、気持ちが悪い人。
「もしも、私が契約を破ったら、口座にあるお金も全部消えちゃうのかな。そうしたら、もしかしたらお母さんの横にいるその人もいなくなっちゃうのかな。愛想をつかされて、捨てられちゃうのかな」
横にいるその男だって、黒の魔女が用意してくれた贈り物なのかもしれないのに。
それなのに、なにも知らないまま、馬鹿みたいに幸せそうに笑っている。
「いいわね。貴方は」
知らずのうちにそんな言葉が漏れる。視線はいつの間にか、母からその手に抱かれた赤ん坊へと移っている。
「最初から両親がいて、お金もたっぷりあって、たくさん愛されて生まれてきて。なんでもあるのね」
三人に私の声は聞こえない。それはそうだ。だって私はずっと前に、他人に自分の本音を話すことを止めたのだから。
彼女たちから見た私は、きっと、いつも通りニコニコ笑っているのだろう。心のうちにはこんな醜い感情が渦巻いているのにね。
「来てちょうだい、マリア。今日から貴方はお姉ちゃんなんだから」
母が幸福そうに笑っている。
地面には白い小さな花々が咲いている。その花を摘み取って、私はにこやかに笑いながら、母に抱かれた赤子へと駆け寄った。
「幸せで愛らしいお姫様。私から貴方へ心のこもった贈り物よ」
その花は私が触れるとドロリと溶けて、形を変えて――それから―――。
■
そこで目が覚めた。ベッドの中でパチリと目を開けた私は、そのまま瞬きをする。
「これがマリアの思い…ね。なるほど、こんな気持ちだったのかぁ」
その記憶と感情を夢の中で追体験した私は、知らずのうちに流していた涙をぬぐった。
ベッドから起きて、ぐっと伸びをする。
アニメで過去回想シーンとしてそういう展開があったから、悪夢を見ることは分かっていたけど、ここまで気持ちが引っ張られるとは思わなかった。
それでも、うん。意外と大丈夫そうだ。鏡の前に立って自分自身ににこりと微笑む。
「ごめんね。でも私はやっぱり、貴方に共感できないや」
貴方のことはキャラクターとしてちゃんと好きだけど、私は私のやりたいようにやらせてもらうよ。
せっかく生まれ変わったんだから、自分らしく楽しんだ方がずっといいじゃん。
「推しを愛で、推しを愛し、そんでもって適度に私生活も楽しむ! さ、やるぞ!」
ふんっ、と意気込む鏡の中のマリアは、夢と違って明るく笑っていた。




