15.最後の選択 ―鍵は消えて、光だけが残る
放課後の教室は、まだ夕陽の残照に染まっていた。
机の上には、初回の課題で出した魔力制御のノートが散らばる。
新任教師・スチュワード・レオンは、窓辺に立ち、静かに生徒たちの顔を見渡していた。
再びやり直した世界――だが、彼の胸には前の世界の記憶が重く残っている。
「今日はよくやった。皆、魔力の基礎は掴めてきたな」
その声は温かく、しかしどこか遠くから響くようでもあった。
だが、遠くはやがて近づいてきた。
廊下の扉が破られる。黒い風塊のような塊が、教室へと流れ込む。
生徒たちの歓声は叫びに変わり、机が飛び、窓ガラスが砕け散った。
外套を翻した影が二つ、ゆっくりと教室の中央へ歩み寄る。
Λ(ラムダ)の残党――十年前の狂気を受け継ぐ者たち。シグマの手による残滓が、ここにも牙を剥いたのだ。
「退避だ!」
レオンの一声で、生徒たちは反射的に魔力回路を閉じる。だが、相手は魔力そのものを“侵食”する術を持っていた。術式は短剣のように刺さり、結界を浸食し、ただの接触で魔力を奪っていく。
黒い影は生徒の一人、二人を掴み、血も泣き言もなく吸い尽くしていった。教室の空気が凍りつく。
レンは、叫んだ。
「やめろ! 離せ、離してくれ!」
彼の拳が震える。胸中で、例の紋が微かに疼く。世界の記憶—過去の自分の断片が、時折夢のように彼を揺り動かす。だが今、目の前の現実はそれを許さない。仲間が、目の前で消えていく。
「レン、下がれ!」
レオンは前に出ようとしたが、その腕が何かに捕らえられるように重くなった。世界の端の感覚――彼は完全には物理に戻ってはいない。だが教師の本能が、若い生徒を守れと叫ぶ。
黒い影がレンに触れる瞬間、何かが違った。
レンの胸の紋が一瞬、金色に強く光る。影は凍りついたように震え、吸い寄せた魔力を吐き戻す。だが同時に、紋章の輝きは不吉なほどに膨らんでいった。
「レン、離れろ――!」
レオンの声が、宇宙の底を揺らすように届いた。だがレンは後ずさらない。むしろ前に出る。彼の瞳は金色に染まり、あの“鍵”の名残の光を宿していた。
「僕が――僕がやる!」
その叫びは、幼さと決意が混じる。レンは仲間たちを見回した。傷ついたユナ、震えるクラスメイトたち。彼の胸に、かつての世界でも抱いた答えが押し寄せる。――自分は“鍵”であり、もし自分が動けば何かが変わるかもしれない。
黒い影は再び動き出した。触れた者の魔力を一瞬で奪い、身体さえも朽ちた形で還してしまう。レンはその中心に立ち、両手を胸の前で組む。魔力が、彼の身体から噴き上がった。暖かく、そして異様に重い力。
「止めてください! これ以上、誰も!」
レンの声に、何かが応えた。胸の奥に眠る“アーク”の残響が、抵抗しようとする意志を押しのける。だがその上で、レオンから受け継いだ“神位構文”の一端が、ひらりとひらめいた。幼い手の中で、禁術の一部が呼応する。
「今だ、レン!」
レオンの声が届いた。彼はここで何を為すかを知っている。自分が世界を再構築した意味、そして生徒を守るという教師の役割。そのすべてが、今という一点に重なる。
レンは、目を閉じた。瞳の金は燃え上がり、胸の紋が光輪のように広がる。彼は手を差し出す。黒い影たちは吸い寄せられるように集まり、その中心で一つの巨大な渦を成した。渦中で、黒の本能のような咆哮が上がる。レンはその咆哮を全て受け止めた。
「――行け!」
レオンの意思が届く。彼は全身を光で満たした。物質的な身体はここにはなくても、教師であるその意志はレンの背に置かれた。レンは一歩前へ踏み出す。
そして彼は、手のひらで渦の核を掴んだ。触れた瞬間、世界の時間が引き伸ばされたように感じられた。黒い力はレンの中に流れ込む。だが同時に、レンの紋は“逆位”へと転じ、吸い込まれた呪力を反転させる作用が働き出した。
その反転は、周囲の生徒たちに向けて放たれた。黒い渦は光の嵐へと変わり、吸い込まれていた者たちの魂と魔力はゆっくりと還されていく。倒れていたユナは息を吹き返し、泣きながら息を整える。教室にあった闇は、奇跡めいた逆流で消えていった。
だが――代償はあまりにも大きかった。
レンの身体は、光の中心で静かに溶けていった。彼を包んでいた紋章の輪郭が、ひとつ、ふたつと欠けていく。顔の表情は安らかで、恐れも苦悶もない。仲間の顔を最後に一度だけ見渡し、薄く微笑んだ。
「……先生、さよなら」
その声は囁きのように届き、レンの体は光に還った。光は一瞬、教室全体を金色で満たした後、散って行った。残されたのは、静けさと深い、胸を締め付ける悲しみ。
生徒たちは立ち上がった。ユナは嗚咽しながら膝をつき、仲間を抱きしめる。レオンは膝をついたまま、手を伸ばすことができない。世界を一巡し、教師として、魔導師としてのすべての力を注いだのに、彼はこの瞬間、自分が止められなかった命の重さを噛み締める。
「レン……」
レオンの声は風のように弱く、しかし確かにそこにあった。彼は世界魔力網の一部として、レンの残滓を感じる。レンは消えたが、その行為は周囲を救った。子供たちの生命は守られ、教室は再び平安を取り戻し始めた。
理事長室。集められた教師たちと生徒の親たち。ニュースは瞬く間に街中へと伝わった。だがレオンにとって重要なのは一つだけだ。レンの選択を、どう次に繋げるかだ。
彼は砂のように崩れゆく光の粒子に向けて、静かに誓った。
「お前の犠牲は、無駄にはしない。約束する――必ず、あの未来を変えてやる。お前の意志を、世界に刻む」
教室の窓の向こう、空に小さな金色の一粒が永遠に光った。レンの残滓。
それはやがて、誰かの胸の中の灯火となり、物語を進める種となるだろう――。




