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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恋哀怪篇

雨のあとに、誰もいない

作者: 黒野果実

 寒い。とても寒い、雨の午後だった。


 職場の傘立てに、見覚えのある傘が差してあった。


 黒地に白いラインが三本入った、量販店でよく見かけるような、ありふれたビニール傘。――だけど、わたしは一目でわかった。あれは、“あの子”とおそろいで買った傘だ。


 そっと開いた瞬間、ふわりと、あの子がいつも纏っていた甘い香水の香りが立ちのぼった。

 髪をかき上げたときにかすかに漂っていた、あの匂い――忘れられるはずがない。


 ……もう、何年も前のことだ。


 その傘は、最後に別れた日の駅で、彼女が置いていったはずのものだった。わたしはそれを持ち帰り、玄関の奥に仕舞い込んだ。二度と使わないように、と。


 ――それが、なぜ、ここにあるの?


 誰かが似たものを持ってきただけかもしれない。そんな傘、いくらでもあるだろう。けれど、自宅の奥に仕舞った“それ”が、なぜか目の前にあるという違和感は、どうしても拭えなかった。


 あの子が差していた傘は、まるで彼女の分身のようだった。


 それを手に取ったあの日、わたしはまるで、その傘が“わたし自身”になったかのような錯覚を覚えた。――いや、あの瞬間から、もう何かが始まっていたのかもしれない。


 ぞわりと、虫が這うような感覚が背中を撫でた。胸の奥がドクンと跳ねる。


 あの時の、ぬるく湿った駅のホーム。振り返らなかった彼女の冷たい背中。ポツンと置かれた、見捨てられた傘。窓を叩くように降りしきる冷たい雨の音。


 ……あの子は、今もどこかでこの傘を使っているの?


 それからというもの、雨が降るたびに、わたしの傘は“あの子の傘”にすり替わるようになった。まるで何かの嫌がらせのように。


 あの子とは、あれから一度も連絡を取っていない。それなのに、その傘は、まるで誰かが置いたかのように、たびたび職場の傘立てに現れた。


 そして、雨とともに傘がすり替わるたび、わたしには“異変”が起きるようになった。


 ――わたしの“大事なもの”が、一つずつ消えていくのだ。


 最初に消えたのは、家の鍵だった。キーホルダーには、あの子がくれた小さなぬいぐるみがついていたはずなのに、それは忽然と消えていた。


 次は手帳。何気なく開いたページからは、ふたりで観た映画の記録も、赤ペンのハートマークも、何もかもが消えていた。


 気がつけば、彼女との思い出そのものが、写真からも、記憶からも、すっかりこそげ落ちていた。


 意味がわからなかった。


 それでも、異変は止まらない。


 今度は、自分の中にあった“幸せな記憶”が、ごっそりと消えていた。


 何もかも、思い出せない。


 あの人との“一生ものの記憶”すら。


「――ん?」


「一生ものの記憶って……なに? それに、“あの人”って……誰?」


 洗面所の鏡を覗いたとき、自分の顔の輪郭がどこかおかしいことに気づいた。


 そこに映っていたのは、笑っている“わたし”でありながら、明らかに“わたしではない誰か”のようだった。


 極めつけは、自分の傘の柄が、いつの間にか“あの子”のものにすり替わっていたことだった。


 昼休みに戻ったときには、もう柄が変わっていた。朝見たときとは明らかに違う。見覚えのない傷。貼った覚えのないステッカーの剥がし跡――それでも、それはわたしの傘の“形”をしていた。


 わたしに、何が起きているのかわからなかった。


 けれど、いつしか、この黒地のビニール傘が、“自分自身”のように思えてしまった。


 少しずつ、確実に、大切なものは失われていったのだから。


 ならば、最後に残るものは――


 うん? この傘って、誰のだったかしら?


 わたしは……いったい、誰の傘を差していたの?


 傘……?


 そもそも、傘って……なんだっけ?


「…………?」


 わたしは誰? 傘? 命?


 何もわからない。ただ、一つだけ確かなことがある。


 傘は、壊れていたのだ。もう、取り返しがつかないほどに。


 わたしの頭上に、雨が止むことはない。そんな気がした。


 なぜなら――わたしは、大切にしていた傘を壊したから。その罪は、傘の言葉を借りるなら、万死に値するらしい。


 だから、わたしは最後に残った傘を、二度と使えないように、めちゃくちゃに、ぐちゃぐちゃに、跡形もなく叩き壊した。


 それが、わたしの犯した罪。


 傘を壊した罪。


 雨は、“傘であるわたし”を許さない。


 土砂降りの雨は、わたしを赦さない。


 決して。いつまでも、ずっと。


 ――それでも、わたしは。


 雨は、ずっと降り続ける。


 それだけが、わたしの知っている唯一のことだった。


 さようなら。はろー、はろー、こんにちは。


 ――だが、言うまでもなく、雨と傘は、決して交わることはない。


 ――なのに、次の雨の日。


 “壊したはずの傘”が、なぜかまた、職場の傘立てに差してあった。


 わたしは、叫んだ。


「なんで!?」


 だけど傘は、何事もなかったかのように、元通りの姿でそこにあった。


 ……いや、待って。違う。おかしい。もしかして、同じ傘じゃない?


 柄の色が、少しだけ濃くなっている気がした。いや、そんなはずはない。気のせいだよね?


 ――でも、白いラインは、いつの間にか“四本”になっていた。


 “黒地のビニール傘”なんて、最初から存在していなかったのでは?


 わたしは、誰の傘だった? 誰を守ってきたの?


 あの子の肩に差し出されたのは、本当に、わたしだった?


 それなのに、なぜ――壊されなければならなかったの?


 誰も、答えてはくれなかった。


 壊れた傘は、“わたしが存在しなかったかのように”、ただ静かに、そこに佇んでいた。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


ご覧いただき、心より感謝申し上げます。

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