精神病院への憧れ
「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」にはとても及びません。アントナン・アルトーにも。
ただ、私の中に立ち上がってくる『精神病院を舞台装置』にした《民間芸能》です。
私の中にある精神病院への憧れとは何か? それは絶望を機能的に粉飾させる巨大な極めて巨大なペルソナである。無論、これは精神病院の実際を知らない少し調べればその長期隔離入院がポジティブとはおよそ言い難いことを慮っていないと言われてしまうかもしれないし、真っ当な病院では極めて遺憾と怒られるかもしれないが、しかしそれでも私は精神病院という存在に憧れを持ってしまうのである。
では先述の私の言葉を分解する。まず絶望とは何か。それは他者という世界の不変性とそれに対して変身して欲しいという希望を捨て切れない結局のところの弱さであり愚かしさでもある。これを大業に例えるならば、為政者や大企業界隈や世間が人間一人の命の人生を蔑ろにすることに似ていると思う。だから、力を持たない弱者の最後の中動態である。
機能的に・巨大な極めて巨大な、とは類似項があるので重ねる。それは、社会的に広く流通しひた隠しにされている巨大なオートマチックシステムである。
そしておそらく精神病院は、ある意味で絶望をまとう精神障がい者という弱者を主として構成されながらも社会に対しある一つの機構、機能を示している。それは粉飾である。つまりは、彼ら障がい者一人一人の絶望は、その一人一人の質度を持っているわけだが、それを精神病院というシステムの中に組み込み、そこに一つとしての機構、機能を与えているのだ。それはまさに精神障がい者を着飾らせている。
こう書くと精神病院とは人を蔑ろにし、人をシステムの中に押し込み、没個性的に人間を粉飾させるあまり好しがらざるもののように私が思わせんと説くように見えるかもしれない。しかし。最後の分析、ペルソナである。それは入れ子構造である。読者諸氏はなんとも共感してくれないかと期待するが、このこのましからざるものとは、精神病院に限らず、実は健常者の社会システムもその在り様なのではないか、さながら社会は巨大な精神病院とでもいったところか。健常者の社会システムという精神病院の中に、さらに精神障がい者という絶望の弱者が主となって構成されたシステム精神病院がある。そしてここからさらに入れ子構造がある。ある一人の精神障がい者の肉体の中にも精神病院が、精神障がい者自身を蔑ろにし、精神障がい者自身を精神病というシステムの中に押し込み、没個性的に精神障がい者を粉飾させる、機構と機能が宿っている。そして彼らの肉体の過去生にもまたまた、もう一つの精神病院があって……。といった具合である。しかしこんな入れ子構造やらフラクタルやらと言われたところで、そんなものはどこの社会でも見つけられるだろうし、それこそ原っぱの植物を観察したら普通にあるだろうと私を嘲るだろう。しかしあえて強言すれば、精神障がい者の入れ子構造、フラクタル、ペルソナは、おそらく皆様の思うものとは異なる。それは、もう一人の自身として取って代わるほどの質度を精神障がい者の精神病が持っているということだ。それによって破綻や阻害される自身の肉体と、精神病というもう一人の自身のこのペルソナの関係こそが、ある一つの先鋭的な哲学の様をする。自身の肉体の破綻や阻害を止め健やかな肉体で生きるでも、その破綻や阻害と精神病のバランスをとって上手に生きるでもなく、精神病というもう一人の自身、ペルソナそのものになる・変身化身するという、実験的先鋭哲学、その異化された空間、それが精神病院である。しかし皆は言うだろう、それは健全ではない、生産性が皆無の破滅的で愚かであると。しかしそこに精神病院が、絶望がありオートマチックシステムがあり粉飾があるならば、ペルソナは常に我々の斜め後方にぬっくと立っている亡霊のようでもあるのだし、入れ子構造とフラクタルの精神障がい者のある一つのリアリティの質度でしかないのだ。




