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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【ホラー 怪異】

かりかり

作者: 小雨川蛙

【注意】

カニバリズム描写があります。

 

布団の上に寝そべっているはずなのに地に身を横たえるかのような硬さを感じた。

次郎が用意した掛布に温もりはなく、むしろ巨大な氷が乗せられているかのような重みと冷たさばかりが私の体を支配していた。

もう四十の坂を越えたというのに幼い少女のように私は泣き出してしまいそうな程心細く、脳裏に浮かぶ光景に震え泣き叫んで誰かを呼びたい気持ちに襲われていた。

思い出したくもないあの時間。

私も含め村人全員が骨と皮ばかりになり、一所に集まってうずくまりながら、互いが互いを監視するように皆が集団の中で最も弱った相手と思う者を見つめている。

次に死ぬのは誰かと待ち続けて。

『母さん』

そんな中、擦れた声の我が子が私を呼ぶ。

『お腹が空いた』

未だ四つになったばかりの大切な娘。

あぁ、もう顔さえ思い出せないほど擦れてしまった記憶の果てに居る長女。

その名を私が呼ぼうとしたその時。

「母さん。聞こえるか?」

不安そうな太郎の声がした。

まざまざと蘇っていた記憶は夢から覚めたように消え失せて、今の私に見えるのは瞼の裏に広がる星がない夜を思わせる暗い空間だけだ。

「聞こえるか? 母さん」

繰り返される声。

あの痛ましい時間の後に生まれた次男の鼻声。

二十の歳を越え、嫁もいるくせに聞こえた声は泣き出した幼子のように震えている。

いや、事実泣いているのだろう。

母を。

私を。

今、失おうとしているのだから。

「次郎さん。もう……」

次郎の嫁の声がした。

数年前に次郎が自慢げに連れて来た日を今でも思い出せる。

器量は良くないが、畑仕事にも積極的に出る良く出来た嫁だ。

『娘と思ってください』

だからこそ、その言葉に身を震わせた。

そして、自分勝手にも思ったのだ。

あの子が帰って来たのだと。

失われた我が子が。

死んでしまったあの子が。

私のもとに。

そんな想いを抱いてしまったあの日の記憶を振り払い心の中で自嘲する。

今更罪から目を背けるつもりなの?

そう自分に言い聞かせ、鉛が乗っているかのように重い瞼をどうにか持ち上げて、目を開く。

「太郎」

目が映す光景を認識できない。

朧気に浮かんだ黒い二つの人影に私は一瞬怯む。

しかし。

「出て行け」

どうにか声を絞り出す。

虫が這う音よりも小さい気がしてしまう自らの声。

それでも、二人に伝えるのには十分だった。

二人の内一人が凍り付いたように動きを止める中、もう一方が軽く首を振って立ち上がる。

そこまで見た時、私は形容し難い疲労に耐えきれず瞼を閉じていた。

風の音とも、雨の音とも分からないものが耳の奥底に煩わしく残る。

それが二人の声なのだと気づいた時にはもう自分の呼吸しか聞こえなかった。

あぁ。

音が煩わしい。

意外なほど私に苦しみはない。

そして、奇妙なほどに意識が澄んでいた。

それが嬉しかった。

何故なら、これから起こるのは、云わば罪の清算なのだから。

「綺麗になれると思っているの?」

声がした。

太郎のものでも、その嫁のものでもない。

二十を過ぎた二人よりもずっと幼い声。

「その薄汚れた体が綺麗になると思っているの?」

もう顔も思い出せない気がするほどに遠い記憶の中に居る娘の姿。

「でも忘れなかった」

何かが這いながら私に近づいているのが分かる。

そして、私はそれが何であるか知っていた。

私はそれの名を呼んだ。

すると、それは一瞬怯んだように動きを止めて数瞬の間を置いて言った。

「母さん」

その言葉を聞きたかったのか。

あるいは聞きたくなかったのか、私には分からなかった。

「あの夏を覚えている?」

まるで扉を開いたかのように瞼の裏に色がつく。

草が枯れて茶色となり大地に伏した。

私を始めとする村の者はその葉と茎を我先にと奪い合った。

大地が割れ、木の根が剥き出しになり、男達は鎌を、女達は包丁を持って血眼になりながら根を傷つけて僅かな水を求めた。

川はずっと前に干上がり、そこに稚魚の一匹も居ない。

水は飲み尽くし、魚は食いつくしたからだ。

まだ、初夏だと言うのに雨は一滴も降らなかった。

「皆が死んだ」

あぁ、忘れるはずもない。

それなのに、ずっと忘れたふりをしていた。

村の者全員が骨と皮ばかりになって、日陰に集まってうずくまり、そのくせ目だけを上げて誰かが死ぬのを待ち続けた。

大丈夫? と擦れた声を掛けて、相手の反応を待つ。

「本当は返事なんて待っていないくせに」

私は頷く。

返事をしたならば生きている証拠。

あの場に居た人間達は皆、死体を求めていただけなのだ。

いや、真実はもっと単純だ。

皆、食べ物を求めていた。

「覚えている? 母さん」

勿論、覚えている。

ここに居ては食べられてしまう。

そう強く確信した。

今はまだ相手が死ぬまで待つ理性がある。

だけど、もっと切羽詰まれば相手が生きていたって抵抗できなかったならばそれで構わなくなる。

元々の人相さえ思い出せない程に痩せ細った村人達に群がられ、圧し掛かられて身動きが取れず、悲鳴さえあげることも出来ないままにきっと弱い者から順繰りに。

かりかり。

かりかり、と貪り喰われてしまう。

「覚えている? 母さんが何を言ったか」

勿論、覚えている。

忘れようとしていたのに忘れられなかったこと。

「私の手を引いて言ったよね。ここから逃げようって」

浮かぶ、あの日の光景。

このままでは直に娘が皆に喰われてしまう。

震えながら手を引いてふらふらと歩き出した私の背を見つめる村人達。

皆が私を止めなかった。

私が何をするか理解していたのに。

「雨は降った」

声を出せているかも分からないまま私は返事をした。

「母さんが私を殺した翌日に」

そう。

雨は降ったのだ。

私が娘を殺した翌日に。

その一日の間に何人か死んだ。

そして、雨が降ってから土地が潤うまでにまた何人も死んだ。

何人もの人間が死んだ。

人のまま死んだのだ。

「母さん」

声はもう私の耳に当たる程に近くなっている。

「私は美味しかった?」

直後、右手の小指の先に痛みが走る。

歯と歯の間に挟まった邪魔なものを噛み切ろうと、憎悪さえ込めてギリギリと歯ぎしりをするように強く力を込め続ける。

それの痛みの正体を私は知っていた。

かつて、私が娘にしたものと同じだ。

「雨は降った」

声と共に指先から肉が引き離されるのを感じた。

「何人も死んだ。人のまま死んだ」

束の間の静寂の後、再び痛みが身に走る。

かりかり、かりかりと貪る音が響き続ける。

「皆は人を喰った。だけど喰ったのは死人だけだ」

あぁ、その通りだ。

私が予期していた惨劇は起こらなかったのだ。

干ばつで作物が涸れて、水が干上がり、人々が無残にも死んでいく。

「皆、生きるのに必死だった。だけど、最後の一線は踏み越えなかった」

誰もが他者の死を待ち望んだ。

死体は最早人ではない。

そう自らに言い聞かせて喰らうために。

「けど、母さんは」

かりかり、かりかりと音が響き続ける。

「人を殺して喰ったんだ」

脳裏に浮かぶ驚愕と苦しみの表情を浮かべながら喘ぐ我が子。

その子の首には痩せ細った両手の指が食い込み、その子の瞳の中には人を捨てた醜い餓鬼が映る。

その姿を私は生涯忘れることはなかった。

自らが生きるために我が子を殺め、その遺体を貪ったあの時間。

かりかり、かりかりと耳の奥にこびりつく音。

それは私が泣きながら娘の血に吸いつき、肉を噛み、骨に残った肉を噛む音。

「母さん」

痛みは最早激痛に変わっていた。

しかし、死の間際にある私には叫ぶことはおろか呻くことさえ出来ない。

「私は美味かった?」

かりかり、かりかりと響く音の中で私はどうにか口にした。

「ごめんなさい」

あの日と同じ言葉を。

死んでいく娘に告げたあの言葉を。

しかし、返事はない。

自分でも驚くほどにあっさりとそれを受け入れられた。

許されるはずないと分かりきっていたから。

かりかり。

かりかりと音が響く。

虫が這うようにして耳に纏わりつくあの日の罪の音を聞きながら、私は痛みと共に地獄へと下った。





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