第1話
ガクト氏の本棚の「冷たい方程式」に捧ぐ
「私、アオイちゃんのことが好き」
放課後。二人きりの教室。突然、投げかけられた言葉。
「私」=主語(S)、「アオイちゃん」=目的語(O)、「好き」=述語動詞(V)。
なるほどSOVである日本語としては典型的な語順である。
もし英語であればSVOの並びになる。
だが、例えば同じSVO型のフランス語において目的語が代名詞となる場合には
ジュテーム(je t'aime)=Ju(私=S)+tu(あなた=O)+aimer(愛している=V)と語順が変化する場合もある。
いや、そうじゃない。そういう話ではない。混乱しているぞ私。
私はいったんペンを置き、深呼吸をする。
こいつはねぇ文法ではなく文章理解の問題ですね。解法のポイントは動詞の「好き」。
スキの二文字。その意味するところは単純にして複雑怪奇。千差万別、意味深長。思春期女子としてあらためて対峙することとなった私にとって無貌の神ナイアルラトホテップもかくやという存在だった。
「月が綺麗ですね」と書いてアイ・ラヴ・ユーと読むのが我が国ニッポンだ。「好き」と聞いて愛の告白と受け取るのは勇み足というものだ。ひどく単純化するならば Like or Love?
それはこれからの二人の関係性の問題でもあった。
ここでようやく私は短文の主語であるところの少女のほうへ振り返った。
今日までほとんど口を聞いたこともない、ただのクラスメイト鬼宿星来の言葉に私は、ひどく混乱させられていた。
自分でいうのもなんだけど、私はいわゆる良きクラスメイトではなかった。はみ出し者の半端者。クラスの中心から遠く離れた外部太陽系の戦士。その中でもとうとう惑星からも仲間外れにあったプルートゥといったところだ。
私の方にも原因があって級友の名前もいちいち覚えるのが面倒で、赤っぽいの、青っぽいの、黄色っぽいの。丸いの、細いの、ゴツゴツしたの。そんなイメージでしか彼ら彼女らを認識していなかった。
人間失格のそしりも甘んじて受ける度量はあるけれど、自己弁護を許されるならば国立大学医学部に現役合格することが蜘蛛の糸を信じる私にとって苦渋の決断の上のリソース配分なのだと理解していただきたい。そんな私だから、誰かに好意を向けられる心当たりが全くといってない。動機の不在。ホワイダニット。
低解像度のポリゴン仕立てだった学園生活の中、唐突にその輪郭が浮かび上がった一人の少女。放課後の教室でただ独り勉学に励んでいた私の下へと忍び寄り、私の都合などお構いなしに未知への扉を開け放った彼女こそ物語の主人公にふさわしいように思える。鬼宿星来。背はクラスで2番目に低く、おとなしくて化粧っ気もない、地味で目立たない。もっとも茶目っ気のあるしぐさと少しずれた感性は、おおむね好意的に受け入れられ、そのおかげでクラスメイトの大半から嫌われることなく、平穏な学園生活を送っている。ただし特別に仲のいい友人などはなく、他のグループの添え物のように佇んでいるか、でなければ余り者同士つるんでいるという印象。余り者というには余りある私が言うのもなんなのだけれど。
「好きって、どういう意味の好きなのかしら」
私の返事は糾すように少し冷たく、鋭かった。
今日だけは私は世界で一番せっかちな人種だった。秒針が鳴れば次の一拍までにすべて結論が出揃っていなければ我慢できなかった。
なのに恥ずかしそうに黙ってうつむいてしまった少女。私は彼女の回答を渇望した。
なんだ、今この世界に何が起ころうとしていているんだ。早く私に教えておくれよ。
LikeなのかLoveなのか。それが肝心だ。
……それが肝心だ、と私は考えもなしに思い込んでしまっていた。
カチリと一つ秒針が進む。
でも、そうじゃないなと私は思った。
生まれてから今日この日まで一度だって誰かに好きと言われたことのなかった私。
そして、一度だって誰かを愛したことの無い私にとって、その違いがどれほど重要なことなのだろうか。
「好きは好きだよ」
というセイラの回答に、私はすっかり納得した。100点満点の大正解。すぅっと体が軽くなる。
そうだよね、と私は頷きたかった。
「ふーん。それで?」
ここに来てそれでも素直じゃないのが私のチャームポイント。
でもね、ただの捻くれ者というわけじゃないのよ。ずっと浮足立っていた。まだ他人の好意というものが海の物とも山の物とも、毒なのか薬なのかも判別つかないでいたのだ。おっと、私は病気なんかじゃないのだからクスリだったら、そんなものは要らないよ。
「で、私に何して欲しいの」
私の辞書にもう少しだけ優しい言葉があればよかったのに。
気まずい。もう見てられない。青い空でも眺めていよう。白い雲に見蕩れていよう。
現実逃避のついでだ。ここで皆様に私の自己紹介をさせていただこう。
私の名前は曲輪葵17歳。地味で冴えなくて、もちろん全然モテたりしないのだけれど、元気いっぱいの高校2年生。クラスじゃ11番目くらいにかわいい女の子。でもそれは、ボサボサの髪の毛と黒縁メガネのハンディキャップがあってこそ。メガネを取ってオシャレをすればA〇B48にだって即加入できるはず。確かクラスで5番目でいいんだよね?
既に話したように国立大学医学部に現役合格が人生の目標であり、その為にありとあらゆるものを捨てて生きている。その最たるものが人間関係だった。
まーそんなだから、「好き」の続きを私は知らない。
「何もないのだったら話はここで終わりじゃないのかしら。それでいいの?」
開きっぱなしだった問題集を閉じて仕舞ってすっかり忘れちゃう素敵な何かが始まるんじゃないの。私はそれを期待していたんだ。私が貴方を見つめているのは、眼鏡の奥の綺麗な眼を見せつけるためじゃないんだよ。
だけど、そこにあるのは沈黙。おかしい。納得できない、道理に合わない。
「鬼宿星来、すべては貴方の始めたことでしょう」
叱るでなく、諭すでなく、私も私で精一杯言葉を絞り出す。
私だって、こんな時、どんな顔をすればいいか分らないのよ?
他人の表情なんて気にしたことはないのだけれど、普段のセイラは表情に乏しい方ではないかしら。じっと何かを我慢しているようで、それでいてすべてが他人ごとのようでもあって。
それが今日ばかりは爆発寸前の時限爆弾のように言葉にならない感情を抱え込んで押しつぶされそうになっていた。
ああもう、まったく。
これってすごく馬鹿馬鹿しい光景じゃないかしら。人でなしの私は皮肉な笑顔を浮かべてここですべて終わりにだってできる。
だけど、もう一度、アタマをからっぽにして思い出す。
放課後。二人きりの教室。突然、投げかけられた一言。
その瞬間、たしかに私の心はきゅんとした。
「明日のお昼、一緒にご飯を食べましょう。それとね、こういうときは笑えばいいのよ。きっと、たぶん」
セイラはうなずくと逃げ出すように教室を出ていた。その横顔は笑って見えた。
そして私は間接話法の演習へと戻る。