「ゼビウス」に鬱屈
友達宅に遊びに行くと、だいたい「ゼビウス」があった。何かと伝説のゲームみたいな扱いであったが、私の周りではみんなが持ってるけど、そんなに盛り上がるでもなく、遊ばれるでもなく、ただただ持ってる、みたいな位置づけだった。私からみれば「ゲーセンで遊びきれなかったゼビウスがうちで、しかも好きなだけ!」なのではあるが、そこはそれ、ゲーセン至上主義者の妙なプライドとぶつかって、どうにもこうにも鬱屈した思いだった。
「ギャラクシアン」はゲームセンターそのままだった。「パックマン」も。
が、しかし、「ゼビウス」はどうだ。ソルバルウは灰色でいかにも金属! っていう重量感があったのに、ファミコン版では真っ白になってしまった。トーロイドはそのまんまなのに何故だ。逆にアンドアジェネシスは金属っぽくなってしまった。動かないし。そしてなにより字が違う! あのなんだかかっこいい字じゃない。
結局、私はカセットを買うことなく過ごしていった。先に述べたように遊びに行く友人宅にはほぼあるのだが、このゲームは大勢で遊ぶような種類ではなかったためか、友人宅で遊んだ記憶、それを見ていた記憶もない。たぶん、みんな子供心にゼビウスは1人で向き合って遊ぶゲームなんだと「わかった」のだろう。
それは、つまり、ゼビウスの移植はグラフィックはとどかないものの、面白さ、繰り返し遊べる魅力は移植できていたのだ。
ゼビウスは繰り返し遊べば、すこしづつうまくなれる。ゲームオーバー後になにが間違いだったのか、正確に気付ける。次はこうしよう、ああしようと改善案も思いつける。ソルの場所、スペシャルフラッグ、1万点グロブダ、さっきはかわせなかった攻撃、破壊できなかったレーダー。遊び続ければわかってくる。ファミコン版はちゃんとゼビウスだったのだ。そして、なにより、無敵コマンドなんてサイコーじゃないか!
こうして、私はゼビウスと和解したのだった。
そして時は流れて。自宅で満足できるゼビウスを遊べたのはナムコミュージアムが発売されてからとなる。