丘の上まで
ショートショートな落ち着く小説だと思います。
バスの中、電車の中、生活の中のちょっとした隙間に読んでいただければ幸いです。
良くも悪くも、批評して頂けるとありがたいです。
また空いた時間に物語を書いていきます。
よろしくお願いします。
硬いアスファルトだった。夏の太陽の熱を含んで、踏み込む度に足からエネルギーを奪っているようだ。まして殺生にも、道は空を突き破らんばかりの上り坂だった。
マサキは早くも彼女との約束を後悔した。
「ナナん家って学校裏の丘の上でしょ。あそこなら二十分くらいで行けるよ。チャリなら十分くらいかな」
「はぁーっ?!マジで言ってんの。チャリなんて無理に決まってんじゃん。しかも歩いて五十分はかかるよ、マサキん家からでも」
ナナは下唇を噛んだ。図書館にいるにも関わらず、切れのある声でマサキを小馬鹿にする。
確かに怒りの収まる空気ではない。音をあげて冷気を絞り出すクーラーは埃にまみれた年代物で、マサキたち同様、受験勉強に努める高校三年生が這ってでも集まる駅前の市営図書館は鮨詰め状態だった。熱気と臭気で空間が歪んでいるようでもある。だからか、ナナが大声をあげたにも関わらず、目立つことはなかった。
「それはナナが女の子だからだろ。俺男だし、そんな時間かかるわけないじゃん」
「むかっ。言ったわね。二十分だから。いえ、チャリで十分だっけ。私確認するから。ちゃんと時間内にきてよ。一時に私んちね。それじゃ」
足早にナナはその場を去った。集めた参考書はマサキに押し付けて。
マサキも、そんな彼女に共感できないはずもない。同じ空間で、同じ受験に悩む境遇なのだから、だから、彼女の酔狂に騙された気持ちで乗ってやろうと、そんな気負いだったのだ。
自転車は悪いが丘の麓のコンビニの駐車場の隅に放置した。とてもではないがペダルを回せる傾斜ではなかったのだ。迷いはなかった。自転車のキーをポケットに押し込み丘の上の彼女の家を目指す。
白線の引かれていない自動車二台が通れるほどのアスファルトの道程だった。熱に負けたタイヤの轍がそこらに残っている。一戸建ての住宅や軽食屋、喫茶店などがこの丘の主な建物のようで、集合住宅はほんの疎らだった。熱にやられたマサキの脳が率直に思ったその印象は「おもちゃの家みたいだ」であった。というのも、言い得て妙とはいかないが、しかしこの丘の家屋やお店は生活感を感じさせないまでに綺麗で、そして整頓された、区画整理の行き進んだ土地だった。そこには人などいないかの如く。
幻想世界のような丘に圧倒されている暇はない。マサキは、急がなければならないのだ。
図書館から自宅に帰り、時刻は十一時半、キッチンでは母が昼食の冷やし中華の用意をしていた。マサキは自室には荷物を置いてくるだけで、真っ先にクーラーの効いたダイニングに向かい四人がけの席に落ち着いた。父は通常通りの出勤で、妹は世の小学生らしく市営プールに遊びにむかったようである。母と二人昼食を召し上がった。テレビの天気予報に紛れて、母はマサキとナナとの現状を探る。マサキはそれを鬱陶しくも慣れた手つきでかわす。箸を進めるスピードをあげ、お皿が空になったときには時刻は十二時十五分だった。
マサキはナナの言った台詞が気にかかった。女性とはいえ、ナナは剣道部の主将を勤めたほどのスポーツマンなのだ、そんな彼女が五十分はかかると言ったのだ。快適な空間で、落ち着いて考えてみると彼女の言葉にはなんの嘘も侮りなどなくて、だからマサキはゆっくりしていられなくなった。部屋に戻りバッグを背負ったところで携帯に着信があった。メールだった。
『出発するときにマサキん家のインターホン鳴らして。フライングはなしだからね』
彼女は厳格で、用意周到な人間であることを知っているのだから、マサキはそこに驚きなどしなかった。しかしだからといって、気落ちせずにはいられなかった。
これが勝負事なのか、それとも彼女の因縁なのか、どちらであろうとマサキが執着する理由なんてあるはずもない。ナナは約束の時間に遅れただけで怒るような器量の狭い女ではない。けれどもどこか負けていられないのだ。受験なんて大勝負を半年後に控えているからかもしれない。こんな小さな、しかも彼女との些事に、マサキは手を抜いていられなかった。自転車に跨がり腕時計に注視し、十分前に構えた。母には事前にインターホンを鳴らすことの了承をもらっている。秒針が天辺を指した。ナナに電話する。彼女は一寸の間も空けずにでた。インターホンを鳴らす。
「それじゃあ、丘の上まで十分で」
普段の彼女に似合わず、それはとても挑発的だった。
負けるわけにはいかないのである。
「はい十分経ちました。一時だよ。今どこなの?どうせまだ赤い屋根の家もまだなんでしょ」
そこには微塵の否定のしようもなく、マサキはまだ坂を上っていた。
丘の麓までは一分もかからなかったんだ――せめてもの言い分として、マサキはそんな台詞を用意していたのだがでもそれは彼女の思うまま――この坂に負けたということなのだ。乱れる吐息もすべて嘆息のようだった。
この丘に建てられた家々は色を奪われたように皆パステルカラーの外装だった。子供っぽくもありハイカラでもある。それが余計にこの丘の幻想性に輪をかけているのかもしれない。彼女の言う赤い屋根の家というのは、目印としては絶好だった。それ以外に、暖色をここまで主張した屋根はないのだから。そしてその家を境に丘を走る坂道はつづら折りとなっていた。建物の密度は薄くなり緑もあらわれる。蝉時雨も顕著になってきた。切れたと思った携帯から、またナナが声を発する。
「あと十分延長ね。十分だから。それまでに来ないとケツバットね」
ぞして電話は無機質と化した。後になってみると、彼女の声がこの坂を上るためのエネルギー源になっていたのだが、今更電話を掛けなおすなんてできるはずもなかった。
彼女は毎日のようにこの坂を上っているのかと思うと不憫にも感じるがあの気丈な精神はこの坂の恩恵もあるのかと納得もできる。何せ通行人がいない、いるのは庭の水撒きや洗濯物を干す人ばかりで、車の往来が多いように、この坂を歩いて上ることは邪道なのだ。
つづら折りとなると道の先が曲がり角となって、マサキの精神的な負担は大いに増えた。履いていた白のスニーカーは家を出た時よりも黒ずんでいるように見える。気のせいだと思いたかった。ただ木々が増えたおかげか、景色の見通しがよくなった。決して高くはない。華を飾るような建造物もない。それはただ丘の、しかもその中腹の景色なのだが、なぜか不思議と心が和む。
マサキは、ただの丘を上っているだけだ。
でもだ。この丘には優しく幻想的な色使いの建物が建ち並び体力をえぐるまでに傾斜が高く今年の夏の異常な猛暑と、そして丘の上では彼女が待っている、そんな状況が揃ったせいか、マサキは子供の頃に経験したような高揚感を感じた。なんだか自分が雲のベッドにでも寝そべっているような。坂を滑り木の葉を鳴らす風の音が子守唄のようだった。
備えていた500mlのペットボトルの水が底をついた頃に、ようやくマサキは最後の曲がり角を曲がった。丘の上が見通せた。悪夢を見る気負いで腕時計に目を落とすとやはりかな、出発してから四十分も経っていた。十分の延長までしてもらった予定の二十分なんて、申し訳がないまでに過ぎている。高笑いで悦に入った彼女の姿が目に浮かぶ――とそんな想像をした矢先だった。丘の上に彼女がいる。着替えたのか、Tシャツとデニムのショートパンツから真っ白な、背景で漂う雲に混じってしまいそうな涼やかなワンピースを着用し、つば広の麦わら帽子を被っている。高笑いこそしていないものの彼女は誇らしげに腰に手を当てていた。なにか、彼女のために貢ぎ物でもしなければとマサキは嘆息する。
この丘に特別な思いを抱いたわけではなかった。マサキにとってこの丘は、ただ彼女の家を有しているだけの、少し傾斜の高いだけの丘なのだ。けれどもこの数十分は彼にとって非現実的で不思議な時間だった。どこに起因しているのか定かではない。でもこの丘を上ることは彼にとって比類なき経験だった。まるでこの丘は、人間の住んでいないおとぎ話の国のような、そんな丘なのだ。
そしてその経験の最後を締めくくるような、大変ミラクルな出来事も起きるものだから、マサキはすこし、この丘に敬意でも表さなければならない。
「大遅刻だよ。ジュース一本と、今度のデートのときのランチ代ね」
ナナがそう言った瞬間の出来事だった。一陣の風がマサキの後ろ――坂に添って、さながらかけ上がるようにして走ってくる。その風は、マサキを通りすぎ、そして丘の上にまで及ぶ。
「きゃっ!」
ラストスパートに全力を懸けるように一陣の風は勢いを増しナナをよろめさせた。麦わら帽子が吹き飛んでしまいそうなまでに。すかさずナナ両手で帽子を押さえた。
マサキにとっては格段に、彼を一新しかねないような、そんな経験だった。それは、幻想的な世界や息を荒らげるまでに苦しい登り坂のことである。そしてそれに付け加えるように、最後に、彼の前に風で煽られるナナのワンピース、その下の眺望絶佳な光景を、彼に与えた。彼の疲れが吹き飛んだ瞬間だった。
この丘はなんでもない丘である。
車に乗れば三分で峠を越えられる。パステルカラーの建物は、ただ住人の集団心理が働いて、みな色を合わせているだけなのだ。幻想性なんて、朦朧とした意識の中彼が浮かべた夢想なのだろう。それだけ、普通の丘なのだ。
でも、そんな丘が、ひとりの男の子をすこし大人に近づけた。
完