赤髪の少女
1
(まだ死ねない…死にたくない!)
薄暗い森の中を額に汗をかきながら走る赤髪の少女。左頬に流れる涙と乾いていない血が生々しい。
その姿は白のブラウスに紺色のジャンパースカートを着ていて、皮のサンダルを履いている。左肩には服ごと引き裂かれた傷がある。流れ出した血が髪よりも色濃く左腕を染めあげ、力なく下げられた腕が揺れるたび少女は苦痛に顔を歪める。
「だっ!誰か!誰か助け―――」
突如鋭い痛みが左足を襲い、走っていた勢いそのまま地面に倒れる。幸いにも湿った草と腐葉土がクッションとなり痛みはさほどなかった。
しかし手をついて上半身を起こそうとすると、雷に打たれたかのような激しい痛みが走り、思わず唇を噛み締める。
「っ!?あ、あぁ…」
振り返れば2mを軽く越える真っ黒な生物がいた。魔物の一種で魔狼と呼ばれる四足の獣シャドウウルフだ。
(足が!一息に殺さず遊ぶつもり!?)
少女の周りをゆっくりと回りながら涎を垂らす真っ赤な目をした魔狼。少女の心には死の恐怖よりも悔しさが広がっていた。
数日前、とある事情でお金が必要となった少女は、幼き日に森で見つけた薬草の自生地を思い出し、それを採取して売ろうと考えた。
森の危険性を十分理解しているつもりだったが、目の前に広がる手付かずの薬草に夢中になり、魔物の接近に気付けなかった。
だが無理もない。シャドウウルフは影の中を移動する能力を持ち、魔物退治に馴れた冒険者でも命を落とす相手なのだ。
「グゥルルルッ」
魔狼は笑うかのように唸る。
狡猾で残忍な狩人は自身より劣る勝算の高い相手を選び、時間をかけてなぶり殺すのを好む。出血と痛みで意識が朦朧とする中、少女は風を切るような音を耳にする。
「ガッ!?ギャウン!」
直後魔狼の脇腹からは鮮血が吹き出し、その巨体をくの字に曲げて後ずさる。
少女は何が起きたのかわからず痛みを忘れて頭を上げる。周囲は霜が降りたかのように白くなっており、魔狼の動きは鈍っていく。そこへ輝く風が吹き抜けていき、閃く光の筋が魔狼の頭をいとも容易く断ち切る。遅れて倒れ伏す魔狼の先には眩しいくらいに白く輝く存在がいた。
(精霊…なの?)
徐々に弱まる光の中からスラリとした長身の女性が現れる。腰まで届く白雪のような髪を払いのけ、振り返ったその横顔は、少女が見たことがないほど美しい。切れ長の目は銀色の瞳と相まって怖さすら感じる程だ。
(綺麗…)
純白の外套の下には騎士風の白銀鎧を着ていて、表面には雪の結晶模様が浮かんでは消えていく。輝く剣を鞘に納める動作も優雅だ。
全てが美しく輝く女性は少女に近づくと片膝を地につけ顔を覗き込んだ。
「わ、私…」
動揺を隠せない少女はしどろもどろに呟き、無表情のままの女性は、少女の目をじっと見つめたまま徐に手をかざす。
すると春のような暖かな温もりが身体中に広がり、寒さや痛みが瞬く間に引いていった。
(あたたかい…これは魔法?傷が治っていくわ!)
身体中に負っていた大小様々な傷が、時間を巻き戻したかのように跡も残さず癒えていく。高位の回復魔法でもなければ傷跡が残るものだが、一切見当たらなかった。
「あ、ありがっ!」
少女は身を起こそうとしたが、支える腕の力が急に抜けてしまい前へ倒れそうになる。すると純白の外套で包まれ抱き寄せられた。
(え!ど、どうしよう…)
長い沈黙の後、戸惑う少女の頬に滴が落ちる。
不思議に思い見上げてみれば、先程まで気丈な振る舞いをしていた女性が大粒の涙を湛えていた。
「うっ、うぅ…うわぁ~ん!」
(え!?なになに!?どうなってるの!?)
突然子供のように泣き出した女性に戸惑いオロオロするが、抱きしめられているので思うように動けない。
しかしじっとしていても泣き止む様子はなく、何とか女性の背中に腕を回しあやすようにさすると、次第に落ち着きを取り戻していった。
「うっ…」
「…だ、大丈夫ですか?」
しばらく俯いたまま反応がなかったが、顔を上げた女性はすでに無表情で、先程の事が嘘のようだった。
「…すまない、取り乱した」
「あ…はい…」
急な変化についていけない少女をおいて女性は続ける。
「お前の持ち物か?」
何処からか取り出した物は、肩掛けの部分が裂けた鞄だった。少女が魔狼に襲われた際、左肩から下げていた物で、この鞄のお陰で魔狼の牙が深く食い込み振り回されずに済んだのだ。
「あぁ!わ、私のです!」
女性から奪うように鞄を受け取るとすぐさま中を確認する。少女にとってとても大事な物が入っているのだ。14歳の身を守るすべもない小柄な娘が森へ入る決意を後押しした物が。
「あった…無事だった…」
取り出したのは一冊の古ぼけた本。
表紙には剣を掲げる男。その背後に二人の女性が左右を向いて描かれている。左がティアラにドレス姿のお姫様。右が剣を構える白銀の女性騎士だ。
題名は異世界勇者物語とある。不慮の事故で死んだ主人公が異世界で目覚め、逆境から成り上がる物語だ。
冒頭ではまさに森の中で運命的な出会いを果たしている。
「ありがとうございます!ありがとうございますっ!」
命を救われた時以上に感謝をする少女。
「大事な物のようだな…」
女性は抑揚のない声でそう言うと、ただただ少女の顔をじっと見ている。食い入るように見つめられ、いたたまれなくなった少女が視線をそらす。
「っ!…あ、あのっ私はリースと言います、お名前をお聞きしてもいいですか?」
日の位置が変わり陽の差し込む森の中、真っ白な女性騎士は困った風もなく答える。
「わからない」