アスラの『餌』
「俺は――ファントム。」
そう言った男の目は相変わらず冷淡だったが、どこか寂しく、悲しそうに見えた。
名前を言われるか、もしくは名乗るのを断られるかと思っていたのに、『ファントム』という予想外の答えに少しうろたえながらも、チセは礼を言った。
「そ、そうです、か。…ファントム。助けてくださって、どうもありがとうございました。」
ファントム――幻影。この世界では亡霊という意味合いが強い。名前だろうか?いや、個人の名前というよりは何かを表す名称のような感じがする。
礼を言ったところで、チセはハッとして邸の方を見た。
あれだけの轟音や叫び声。自分を心配して誰か来そうな筈だが、未だに誰も来ない。それに、化け物が逃げた時、自分はうつむいていてどの方向へ向かったか分からなかったが、もしかしたら邸の方へ向かったのではないだろうか??
そう考え、チセの顔がさっと青くなった。
「大変…!」
チセは邸の方向へ走り出した。ファントムは黙ってチセの後をついてきた。
邸に着くと、入り口の花々は皆萎れ、枯れているものもあった。
「イオ!みんな!!」
アーチをくぐりドアを開けると、そこにはイオとカイと数人の使用人たちがが倒れていた。
「いやあああああ カイ!!イオ!!みんな…!」
チセは皆に駆け寄った。皆息はしている。しかしぐったりとして顔は青ざめている。そのとき、カイが微かに呻き声を上げた。
「チ、セ…」
「カイ!しっかりして!!何があったの??」
「草原から物凄い音がしたから急いで皆でチセの所へ向かおうとしたら、黒い化け物が…来て…そしたら…皆…倒れていって……チセ…無事で…よかっ…」
この人が助けてくれたの、脇にいるファントムのことを言おうとしたが、カイはファントムのいる方を見ているにも関わらずその存在に気がついていないようだ。まるでその姿が見えていないかのように。
「チセ…逃げろ…」
そこまで言うと、カイは意識を失った。
カイにすがって必死に呼び掛けていたチセは、不意に体が重くなり、ひどく気分が悪いことに気がついた。
それを見たファントムは突然チセを抱えた。
「きゃっ…!」
一瞬びくっとしたチセだったが、彼が邸から離れようとしていることに気がつき、じたばたともがいた。
「皆を!助けなきゃ!手当てを…!」
「アスラの邪気に当てられたんだ。アスラが死ぬまでは目覚めない。」
チセの言葉をファントムが遮った。
「アスラ…?」
「今は寝かせておいても大丈夫だ。それより、このままこの場所にいれば、君も邪気に当てられるぞ」
チセは完全に混乱した。
「アスラって何?あなたは何?皆は助かるの?」
邸からしばらく歩いた所で、ファントムはチセを降ろした。
「さっきの化け物はアスラといって、人を喰う。しかし基本的に目をつけた人間を食べるかその人間が死なない限り他の人間は食べない。あの家の人間達は、アスラが目印のために放った邪気に当てられたんだ。命に別状はない。しかしアスラは目をつけた『餌』を狙ってまた必ず来る。だから一旦ここを離れる」
何だかよくわからないが、とりあえず皆は大丈夫らしい…そう聞いてほっとしたのも束の間、その前の言葉が引っ掛かった。
「目をつけた人間…?食べる…?『餌』…?それってもしかして…」
「君だ」