草原の少女
風の強い、春の日の午後。
ここは、ロワという国の片田舎。
森に囲まれ、緩やかな傾斜のついた野原が広がっている。
その野原の隅、森の近くに石造りの大きな邸が一軒建っている。その邸から見渡す限り、野原に他の家は無い。
牡丹雪のようにふんわりとした白い花を咲かせる木が邸を囲うように植えられ、入り口はアーチ型に整えられている。
2階建ての建物も、控え目ながら窓枠や玄関などに施された装飾などから一手間加えられた建物であることがわかる。
そんな邸から、楽しげな少女の声が聞こえてきた。
「それじゃあイオ、行って来るわね!」
「お待ちくださいお嬢様、お帽子を忘れていらっしゃいますよ」
最初の声の主、お嬢様と呼ばれた少女は帽子を持って追いかけて来たメイドに返事をし立ち止まる。
年は16、7歳。黒い髪を肩で切り揃え、裾にフリルのついた、アーモンドグリーンのワンピースを来ている。
イオ、と呼ばれたメイドが少女の頭に帽子を乗せる。少女のワンピースと同じ色のリボンがついた、少し鍔が狭くて丸い帽子である。
「チセお嬢様はお色が白くて日光に弱いのですから、きちんと帽子をかぶらなくてはなりませんよ。外に出られるのはとても良いことですけれど」
イオが少し困ったように微笑む。
「ありがとう、イオ」
チセは礼を言うと髪と同じく黒い瞳を輝かせながら、花のアーチをくぐって野原へとかけていった。
チセ・イヤハートは下級貴族イヤハート家のの1人娘。この辺りは見渡す限り、イヤハート家の敷地である。彼女の父ヤノ・イヤハートは下級貴族ながらも優秀で、今は外交の補助の為妻を連れ外国へ赴いている。チセはメイド長のイオと数人の使用人と共にこの田舎に建つ邸に留まって父母の帰りを待っている。
「あと一時間ほどでカイ様がいらっしゃいます!それまでにお戻り下さいませ!」
思い出したようにイオが呼び掛けると、チセは軽く手を振り、あっという間に見えなくなった。
緩やかな丘が連なる原っぱには、邸に続く一本道以外何もない。チセは道から大きく外れ、少し低くなった場所へ降りた。
虫が動き出し、花が咲き乱れるこの季節。
チセはこの時期になると花に心を奪われて落ち着かない。晴れた日にはこうして外へ出ては草花を眺め、風を感じる。
チセは草の中に腰を下ろした。
見ると、星屑のような細かい青い花が、地面を這うように一面に咲いている。その青い花に被さるように、赤い花が点々と丸い花をつけている。
チセは、野や山の花が好きだ。
邸の庭で競うように咲く鮮やかで華やかな花々も好きだが、さりげなく、控え目に、でも誇らしげに咲く野草の方が好きだ。
緑の木々の中ひっそりと一本だけ花をつけている桜や、こぼれるように咲く山吹を見るために森へ入ることもしばしばある。
その度にイオや両親は彼女が怪我でもしないかハラハラさるのだが、特に危険な森ではないのと止めても彼女が皆の目をかいくぐって森へ行ってしまうので、行く前にきちんと報告するならと暗黙の内に許可している。
土と草のにおいのする風がふきわたる。ここは一年中風がふく。季節毎に風の匂いが変わる。春の風は芽を出し花を咲かせた植物たちのみずみずしさとやわらかな日差しの匂いをたたえている。
ああ、この風のなんて優しく、美しいことか!
この風は、言い知れぬ懐かしさと切なさを胸に抱かせるのだ。
チセはその匂いを鼻いっぱいに吸い込むと、ふうっと体を横たえた。
「カイが来るまであと一時間もあるから…少し…」
また風がふいたときには彼女は静かな寝息を立てていた。
カイというのは、彼女の幼馴染みである。薄茶いろの髪に、明るい笑顔。一緒にいると、こちらまで明るく楽しい気分になれる。
かといって決して軽々しい性格ではなく、真剣に物事に取り組む面も持ち、思いやりもある。
チセはそんな彼に対して、最近はただの幼馴染みとは違う感情を抱きつつあった。
もっとも、カイの方はもうずっとチセを好いていたのだが。
そんな二人の今の関係は、恋人の一歩手前、といった感じである。
――――
ふと、チセは目を覚ました。辺りには相変わらず風が吹いている。
「わあああ!すごく寝ちゃった…!」
日の加減を見る限り、一時間はゆうに経っているだろう。
「急いで戻らなきゃ。カイもきっともう来てるわ」
そう呟いて邸に戻ろうと立ち上がったそのとき、チセは森の薄暗い闇の中に、何か蠢くものを見た。
また風が吹いた。
チセが立ち上がった時に散った花びらが舞い上がった。