第5話 痛恨の大失態
いつものようにインカムを装着して指示された部屋へ急ぐ。そして手早く迎撃の準備を整えて待機する。最近では狙撃銃のセッティングも半習慣的にこなせるようになった。ただ、ある意味、自分らの仕事はここまでだ。
(おそらく今回も出番は無いな)
万が一に備えるのは当然のことだが毎回空振りだとどうしてもダレる。
(にしてもタイミング最悪だな。せっかく涼といいことができそうだったのに。なぜ今なんだよ……どうせ今回も大した事ないのに)
ところが今回は少し様子が違った。
『ダメよ! 目標、進路を変えないわ!』
インカム越しに聞いた愛美の声はいつもより上ずっているように感じられた。
『葵! 通信は?』
『まったく応答なしですわ』
『クソッ! 通信機も積んでねえのかよ!』
『涼さん! 特定はまだですの?』
『だめだ。たぶん民間の船じゃないか? 愛美、映像を切り替えてくれ』
『5番から7番に出すわ。7番でズーム!』
『おい! 漁船じゃないか! しかも木造かよ』
『北の船のように見えますわね』
隣で待機する亜紀に聞いてみる。
「またいつもの常連かな?」
「サア? いつもの人達じゃないみたいだヨ」
(てことは戦闘の可能性もあるってことか……)
緊張して思わず亜紀の顔を見る。すると彼女も不安そうにこちらを見返した。
改めて司令室のやりとりに集中する。
『誰か手を振ってるわ! え? 子供?』と、愛美が大きな声を出す。
『なんだって? こ、子供だと?』
『うん。間違いないわ』
『嘘だろ? なんで子供が乗ってるんだよ?』
『家族? 亡命?』
『妙ですわね。亡命が目的ならこんな場所に来るはずがありませんわ』
『だな。普通は九州だろ』
『そうね。流されたにしては遠すぎよね?』
司令室のやりとりを聞いて亜紀に声を掛ける。
「漁船に子供だってさ」
「みたいだネ」
「今までこういうことはあったの?」
「ううん。ないヨ」と、亜紀は目をクリクリさせる。
「なあ。相手が遭難してた場合、どういう対処をするんだい?」
「それはマニュアルに従うことになると思うヨ」
「ふうん、そうなんだ」
確かに救助するかどうかは難しい問題だ。この場所の性格からすれば他者を容易に受け入れることは好ましくない。だが、一応マニュアルはあるらしい。
『亜紀さん、聞こえていますこと? どうぞ』
「あ、聞こえてるヨ。どうぞ」
『ゴンドラの準備をお願いしますわ。これからわたくしと涼さんが救助物資を持ってそちらに参りますから』
「リョーカイ!」
そういって亜紀が立ち上がる。
「手伝うよ」と、自分も腰を浮かした。
しかし即座に葵がそれを止める。
『駄目ですわ。あなたは引き続き警戒をお願いしますわ』
「……分かった」
亜紀が部屋を出ていくのを見送って再び船の方向を見た。問題の船は肉眼で確認できる位置まで接近していた。試しにスコープで観察してみる。
(汚ねえ船だなぁ……)
それはまるで歴史の教科書に出てくる舟のようにみえた。公園のボートよりは二回りぐらい大きい。だが、操舵室と思われる屋根付きの部分が木造丸出しで、朽木のように全体がまんべんなく汚れている。
(ああ……確かにガキが船首で手を振ってやがる)
薄汚い恰好の少年だ。十歳前後だろうか。浅黒い顔つきからは、どこの国の出なのかは分からない。黄ばんだランニングシャツはボロボロで、膝まである半ズボンもボロ布と変わらない。
(このまま待機か)
船までの距離を測りながら今の自分なら狙撃できるかもしれないと思った。練習の成果は出せるはず。しかし問題は、いざという時に引き金を引けるかどうかだ。風船を撃つのとは訳が違う。
しばらくして葵が部屋に入ってきた。
彼女は自分の隣に立って海を見下ろした。その横顔はいつにも増して厳しい。
「なあ、こういう場合どこまで接近を許すんだ?」
「……難しい判断ですわ。マニュアル通りですと意思疎通のできない外国船が相手の場合は無視することになっているんですけど」
「じゃあスルーするんだ」
「それでも接近するようでしたら警告せざるを得ませんわ。立ち去るよう促すことになりますわね」
「つまり、追い払うってこと?」
「……ええ」
しかし、明らかに葵は迷っていた。人命救助か国土防衛かの選択。それは恐らくケースバイケースだ。
そこでインカムに亜紀の明るい声が入った。
『ゴンドラの準備できたヨ』
「了解ですわ。では、お願いいたします」
葵の合図でビルの窓ふきで使うようなゴンドラがスルスルと下がってきた。屋上の亜紀がクレーンを操作しているのだ。ちょうどそこに涼がやってきた。彼女は救援物資を詰めたリュックとペットボトルを持っている。
「お?」
一瞬、涼と目が合った。すると彼女はすっと目を逸らして頬を赤らめた。
(さっきのが効いてる効いてる)
二人だけの秘め事を思い出して嬉しくなった。ちょっとした優越感。だが、それはほんの一瞬だけだった。涼はあっさりお仕事モードで言う。
「葵、ウチが下りるよ」
「お願いしますわ、涼さん。十分お分かりだとは思いますけど長居は無用ですわ」
「分かってるって。物資を渡したらすぐ戻るぜよ」
そういって涼は物資の入ったリュックを背にゴンドラに乗り込んだ。
葵がそれを見届けてから「動きはありませんこと?」と司令室の愛美に確認した。
『うん。ゆっくりと近づいて来てるだけよ』
問題の船はもう100メートルぐらい手前まで接近している。
「亜紀さん。ゴンドラを下げてくださいな」
『リョーカイ!』
涼を乗せたゴンドラがスムーズに下りていく。そして海面に達したところでストップ。その状態で相手の接近を待つ。
「何をボンヤリなさってるの? いつでも撃てる準備はしておいてくださいな!」
葵に強い口調で言われたので改めて銃を構える。とはいえ船首の少年を標的にして良いものか迷う。
船はゆっくりとゴンドラに接近してくる。真上からその様子を見守っているとインカムに『う!』という涼の呻き声が入った。
「涼さん! どうかしましたの?」
涼は船の来る方向を背にして岩場の方に向いている。上から見ると小さな姿だが何か様子が変だ。しかも両手を上げている。
『や、やられた……』
「涼さん! 状況を説明してくださいな! 下で何が起こっていますの?」
『駄目だ。銃を向けられている……ひとり隠れていやがった』
ゴンドラ内で棒立ちの涼をよそに問題の船はするするとゴンドラに近付く。そして岩場とゴンドラの間に割り込むような形で停止した。
(まずい! 乗り込まれるぞ!)
嫌な予感は的中した。船を操舵していた男が銃のようなものを手にしながらゴンドラに乗り移ってきたのだ。
と、そこで船がゆっくりと建屋の下に潜り込む形で移動した。
(子供が動かしてるのか?)
岩場への出口は閉じているので、そっちからは入れないはずだ。
「このままでは涼さんが……」と、葵はしきりに下を気にしている。
ゴンドラにはホールドアップする涼と銃を持った太った男。そこに岩場の方から船再び姿を見せた。と、同時に船の先端に別な人影が現れた。
(な? あ、あの男はどこから現れたんだ?)
一瞬、何が起こったのか理解できない。
「ど、どういうことですの……」と、葵が隣で混乱する。
船には少年しか残っていないはずだ。しかし、現に船上には操舵する少年の他に大人の男が乗っている!
(な、なにがなんだか……)
驚くなんてものじゃなかった。まるでクリックした瞬間にホラー画像に出くわした時みたいな衝撃を受けた。鳥肌が皮膚の表面を強張らせる。
突如岩場側から現れた男は船の先端を経由してゴンドラに乗り込んできた。
隣で葵が青ざめる。
「い、いつの間に……」
『まさかとは思うケド……警報が鳴る前から隠れてたのかも』と、亜紀が珍しく低い声で呟く。その言葉に葵がはっとする。
「愛美さん! 監視カメラを確認してくださる?」
『了解! けど、あんな不審者なんて……もし隠れてたとしたら支柱の部分かな?』
状況を整理すると、不審な船には少年と操舵していた男が乗っていた。それを迎えようとゴンドラで下りた涼を潜んでいたもう一人の男が背後から急襲した。その間に船が悠々とゴンドラに接近して、操舵していた男が乗り移ってきた。続いて岩場に隠れていた男も船に回収されてゴンドラに乗り込んできたのだ。つまり不審船は囮で、敵は最初から挟み撃ちにすることを狙っていたのだ。
葵が小指を噛みながら悔しがる。
「うかつでしたわ……おそらく、わたくし達があの船を発見するよりずっと前にあの隠れていた人間は単独でここまで辿り着いていたんですわ」
「マジかよ? レーダーに映らないように泳いできたとか?」
「潜ってきたのかもしれませんわね。あるいは浮き輪とか板切れとかレーダーに映りにくい物を使ったのかも」
そこで涼の緊張した声がインカムに入った。
『ゴンドラを上げろっていってるみたいだ……でも言うことをきいちゃダメだ』
「なにをおっしゃいますの! そんなことをしたら涼さんが……」
『葵……こいつらを中に入れちゃダメだ。ここを守る為には冷徹になれ!』
涼は自らが犠牲になってもここを死守しろといっているのだ。
それを聞いて葵が取り乱したように首を振る。
「駄目ですわ駄目ですわ! そんなこと駄目ですわ! わたくしにはできませんわ!」
そこに愛美の声が入る。
『葵ちゃん落ち着いて! ねえ亜紀ちゃん、ゴンドラを上げて!』
「ま、愛美さん!」
『このまま涼ちゃんを見捨てるわけにはいかないでしょ?』
愛美の言葉を聞いて少し冷静さを取り戻した葵が頷く。
「……涼さんの命には代えられませんわ」
『OK。ゆっくり上げるからネ』
「亜紀さん。お願いしますわ。ゆっくりと、ですことよ」
『ウン。じゃあ行くヨ。よっこら……しょっと』
亜紀の掛け声と同時にゴンドラを支えるワイヤーが引き上げられる。
葵はそれを確認しながら険しい顔をすっと寄せてきた。
「わたくし達で敵を取り押さえるしかありませんわ」
その目の迫力に気圧されてたじろいだ。
「で、できるかな?」
「やるしかありませんわ」
そう言って葵は部屋の隅にあった箒を持ってきた。
『葵! 無理すんな! ウチなら大丈夫だから!』
「涼さん……わたくし達で一人は何とかしますわ。ですからもう一人は……」
『わかった……得意の格闘技でなんとかするぜよ』
『待ってて! あたしも加勢する!』という愛美の声は移動しながらのものだ。荒い息遣いと足音で分かる。
ゴンドラが徐々に近づいてくる。葵の指示で亜紀がわざとゆっくり引き上げているのだ。下を覗き込むとゴンドラの中が良く見える。涼の背後から銃を突きつける太った男。周囲を警戒しながら銃を構えて臨戦態勢の痩せ男。そして小汚い少年がきょろきょろしている。
葵が箒を薙刀のように持ち、構えをみせる。
「もうすぐですわよ……」
ゴンドラが上がってくる位置から数歩下がったところで葵と自分が二手に分かれる。
張り詰める空気に肌がピリピリした。一秒一秒が長く感じられる。
(頭が見えた!)
そしてゴンドラの動きが止まり、痩せ男が銃で威嚇しながら室内に足を踏み入れた。
「きぇぇっ!」と、いう掛け声と共に葵が突っ込んだ。
彼女は姿勢を低くして箒の柄で突きを繰り出した。それが男の手にヒットする!
(銃を落とした!)
次の瞬間、涼がくるりと身体を翻して太った男の背面に回り込み男の首を抱えて投げをうつ。男が半回転してゴンドラの床に背中を打ち付ける。ゴンドラが大きく揺れて『ガッコン!』と大きな金属音が響く。
一方の葵は箒で痩せ男を滅多打ちにしている。
(加勢しなくては!)と、思って前に出ようとした。
だが……体がまったく動かない。
(お、おい……マズイって)
焦りと恐怖で足が前に行こうとしない。上体がフワフワして意識と乖離する。腕は虚しく宙をさまよう。
(な、なんで……)
目の前で起きていることが別世界の出来事に見えてしまう。そのうち形勢が逆転した。葵に連打されていた男が箒を掴み、葵を突き飛ばしたのだ。
葵が「いやっ!」と、びっくりするぐらい大きくふき飛ばされて壁に背中を打ち付ける。
「痛いっ!」
葵が悲鳴をあげて転倒する。
(まずい!)葵は膝を着いて戦意を喪失している。
「クソ! 離しやがれ!」
声のした方向を見る。ゴンドラの方では涼が腕をねじ上げられて顔を歪めている。
(あっちもダメか!)
そこに愛美が到着した。が、なぜか彼女は室内に駆け込むと同時に足を止めた。棒立ちになる彼女が両手を上げる。良く見ると少年が銃口を愛美に向けている。
勝敗は決した。完敗だ。
(何もできなかった……)
涼を関節技で屈服させた太った男は悠々とゴンドラからこっちの部屋に乗り込んできた。まるで立てこもり犯が人質を取った時のように涼の背後にピッタリ張り付いて銃口を涼のこめかみに押し付けたままで。一方、葵を突き飛ばした釣り目の痩せ男は葵の腹を何度か蹴り上げた挙句、彼女の黒髪を掴んで引っ張り上げた。
目を背けたくなるような光景。怖気づいてしまった自分の不甲斐なさ。ただただ泣きたくなってしまった。
やがて敵は勝利を確信したらしく笑い声を交えて何やら会話をはじめた。何語かは分からない。そして、太った男が銃口をこちらに向けて、いやらしそうな笑みを浮かべる。まるで「お前なんかに何もできないだろう」と言われているような気がした。
(畜生……)
屈辱的な気分になった。
そこで涼が「ひゃっ」と、小さな悲鳴をあげた。
見ると太った男が涼の尻を片手で鷲掴みにしている。さらに男は、その手で涼の身体を撫でまわしながら葵と愛美を舐めまわすような目で見た。
(汚い手で触るな……クソ野郎!)
ぶっ飛ばしたい気持ちはマックスに達している。だが、相変わらず身体は動かない。それどころか膝の震えが止まらない。
太った男は痩せ男と二言三言交わして今度は涼を引きずるように部屋の外に向かおうとした。それを見送りながら痩せ男が声を掛けるが、その雰囲気からして嫌な予感しかなかった。
(……まさか!)
絶望的な状況だ。奴は涼をレイプする気だ! 太った男は涼の後頭部を銃口でグイグイ押しながら部屋を出て行く。
葵が髪を引っ張られながら「涼さん……」と呻く。
愛美は真っ青な顔で涼が連れ去られる姿を見つめている。愛美に銃口を向けていたクソガキがこちらを見てニヤニヤする。明らかにバカにしている。
(こんな時に何もできないなんて……クズだ)
自分のヘタレぶりに心底、嫌気がさした。
どれぐらい時間が経っただろうか。いたたまれない空気の中で流れる時間に息が詰まりそうになる。と、その時、『パン!』という発砲音が響いた。驚いて音のした方を向くといつの間にか亜紀が拳銃のようなものを構えていた。
(え? いつの間に!)
ドアは開けっぱなしだった。が、亜紀がいつ部屋に入ってきたのか記憶にない。そして悲鳴が上がった。そちらを見ると痩せ男が両手で顔面を押さえて悶え苦しんでいる。
少年が亜紀の存在に気付く。それを見て愛美が叫ぶ。
「亜紀ちゃん!」
少年は雄たけびを上げながら亜紀に向かって発砲した。が、亜紀は転がりながらそれを回避。と同時に愛美が少年の腕を蹴り上げる。少年は抵抗の素振りを見せるが愛美が重心を下げながら一回転する。
「うりゃぁっ!」
そして愛美の回し蹴りが少年の顔面に炸裂する! それと並行して息を吹き返した葵が亜紀と一緒に痩せ男に飛びかかる。
あっという間の出来事だった。アニメとか映画とかのアクションシーンとは違う。何が起こっているのかゴチャゴチャしていて見分けがつかない。ぶつかり合い、といった方が正しい。だが、彼女達の反撃で敵を制圧することには成功したようだ。
我に返った時、目の前には土下座した少年。その背中には片膝を立てた愛美の姿があった。壁際では痩せ男が葵と亜紀にボコられてうつ伏せになって大声で泣いていた。もはや起き上がろうとする気力はなさそうだ。おそらく、亜紀が放ったのはハバネロ弾だったのだろう。その証拠に痩せ男をぼこっていた葵と亜紀もボロボロ涙を流している。
葵は着物の袖で顔を拭いながら微笑んだ。
「相変わらず強烈ですわね。涙が止まりませんわ」
それを見て亜紀が表情を緩める。
「ごめんネ。援護が遅くなって」
「助かりましたわ。さすが亜紀さんの射撃は一流ですこと」
「ヘヘ。でも、葵ちゃん傷だらけだけになっちゃったネ。可哀想……」
そこで愛美が大きな声を上げる。
「亜紀ちゃん! 縛るものを持ってきて!」
愛美に組み敷かれた少年が何か叫ぶが愛美がゲンコツで黙らせる。
その後、亜紀がガムテープとロープを持ってきたので痩せ男を後ろ手に縛り、両足もテープでグルグル巻きに固定してやった。少年も同じように両手両足の自由を奪った。情けないことに今頃になって身体が動く。皆でその作業を行ったのだが、無言で手を動かす彼女達の表情は一様に硬く、自分のことを軽蔑しているように感じられた。
(……泣きてぇ……マジで最悪だ)
おそらく彼女達は見てるだけで震えていた自分に失望しただろう。
重苦しい沈黙の中で突然、葵が立ち上がった。
「そうですわ! 涼さんが!」
「あ……涼ちゃんはどこに?」と、愛美も血相を変える。
真っ先に部屋を飛び出す葵。それを追う愛美と亜紀。自分もそれに続こうとして躊躇した。自分はここでこいつらの見張りをしていた方がいいんじゃないかと思った。だが、この期に及んで、そんなことを考えてしまう自分が嫌になった。
(なんで逃げてばっかりなんだよ……)
その時、廊下の方から凄まじい悲鳴が聞こえてきた。今のは男の声だ。
(てことは誰かが敵をやったのか?)
急いで廊下に出る。左手に回ると、ある部屋の前で葵たちが警戒している姿が目に入った。葵は箒を、亜紀は改造銃を、そして愛美は空手か何かの構えをとってドアを見守っている。
「涼さん! 今のは何ですの!」
葵の呼びかけから数秒後、ガチャリと金属音がしてドアが開いた。
さらに身構える面々。
が、顔を出したのは顔を上気させた涼だった。
「涼ちゃん!」
「大丈夫ですの?」
「あ、ああ……何とか」と、涼は疲れ切ったような顔で呟く。
ビリビリに破られたシャツは原型を留めていない。その下には下着、ではなくサラシが巻かれているようだ。が、だいぶんほどけている。片腕で隠しているものの胸の一部が見えそうだ。
愛美が微妙な顔つきで尋ねる。
「変なことされなかった?」
その隣で亜紀は首を傾げる。
「変なことって……ナニ?」
亜紀の空気を読まない質問に葵がいまいましそうに答える。
「手籠め、ですわ」
聞き慣れない表現なのか亜紀はイマイチ理解できない様子だ。涼はドアにつかまりながらフラフラと廊下に出てきた。下はホットパンツが引き裂かれて腰から布をぶら下げたような状態だ。パンツは……おそらく履いていない。
葵が箒の先をドアに向けて尋ねる。
「涼さん! 敵は?」
「中に居る……」
葵がきりっと扉の向こう側を睨みつけて箒を握り直す。
「みなさん! いきますわよ! いざ!」
亜紀が銃をリロードする。愛美も怒り心頭といった様子で手首足首をグリグリ回す。
涼はそんな三人を押しとどめるように言う。
「いや、大丈夫。中で気絶してるよ。アレはもう駄目だと思う」
涼がそう断言するので亜紀が首を捻る。
「エ? なんで? 涼ちゃんがやっつけたワケ?」
涼がやれやれといった風に首を振る。
「いや。ポニョがやった。完全に噛み千切ったみたいだ」
それを聞いて股間がギュッと締め付けられた。何を噛み千切ったかは明白だ。ポニョは敵の性器を奪うことで涼を助けたのだ。
涼が愛美に頼みごとをする。
「愛美、ナプキンを頼む。血が酷いことになってる。ホントは紙おむつでもあればいいんだけどな」
その後はグロすぎて大変なことになった。下半身まる出しの太った男は股間を押さえながら意識を失っていた。出血量が半端ではなかったので止む無くその手をどかして生理用ナプキンを四つほど血の出所にあてがった。そんなもので血が止まるかどうかは分らない。ただ、同情する気はまったく起きなかった。
結局、股間をナプキンごとガムテープでグルグル巻きにしたうえで太った男も拘束して、不審船の三人は掃除道具置き場にぶち込んだ。
これで何とかここを占拠されるという危機は去った。しかし、その代償は大きかった。いや、大きすぎた……。
* * *
結局、一睡もできずに娯楽室で朝を迎えた。
一度失った信頼を取り戻すことは難しい。それは分っている。分かりきっているからこそ辛い。言葉にこそ出さないが昨夜の彼女達の態度は明らかに変わっていた。自分は軽蔑の対象に成り下がってしまったのだ。
(とんでもない失態だ……)
女の子だけ戦わせて自分は何もできなかった。ヘタレどころではない。
(クズだ。最低のクズだ。最悪だ!)
己の不甲斐なさに身もだえする。情けなくて悔しくて涙が止めどなく流れる。昨日の出来事が何度もフラッシュバックした。
なぜあの時、飛び出さなかったのか? なぜ、最初の一歩が踏み出せなかったのか?
繰り返す自問。だが、返ってくるのは凍てついた現実だけだ。
(このまま消えてぇ……)
容赦ない朝日に照りつけられながら呆けていた。
(会わせる顔がねえや)
いっそのこと窓を全開にしてここから飛び降りたい。と同時にそんな勇気すら無い自分に呆れ果てる。
誰かが部屋をノックした。随分と乾いた音のように聞こえる。脱力感が大きすぎて返事をする気にもなれない。しばらくして誰かが入ってくる気配がした。
「起きてらっしゃるの?」
それは葵の声だった。一瞬、彼女の顔を見上げるが反射的に目を逸らしてしまった。
何も言えずにうつむいていると葵がぴしゃりと言い切った。
「情けない顔ですこと!」
「……ごめん」
「ついていらっしゃいな」
「え?」
「その腑抜けた気性を叩き直して差し上げますわ!」
有無を言わせぬ葵の言葉に気圧されて渋々、彼女についていく。まるで犬小屋に強制送還される犬のように。
徳島県、もとい葵の部屋には初めて入った。
どのあたりが徳島なのかは分からなかったが、入口には阿波踊りと思われるパネルが飾られていた。部屋の造りは他の県とさほど変わりはなかったが木をメインにあしらった内装が何となく上品な雰囲気を醸し出している。
「あまりジロジロ見ないで頂きたいのですけど!」
「あ、ごめん。でも、凄い片付いているよね。なんだか高級旅館みたいだ」
それはお世辞ではなかった。他の子達の部屋と造りは同じはずなのに、ここだけは日本家屋の内部のようだ。
「こちらですわ」と、応接室をスルーして奥の小さな部屋に通された。
「ここは?」
「見ての通り茶室ですわ」
「茶室……こんなところに」
四畳半の和室。こじんまりとしているが本格的なものだ。靴を脱ぎ、葵の顔色を伺いながら座布団の上に正座する。ちょうど向かい合うような形で葵は無言で湯を沸かして茶を用意する。その間も互いに無言で時間が長く感じられる。
粗茶ですが、の前振りもなく、すっと碗が膝元に差し出される。作法も何もあったもんじゃない。取りあえず碗を両手で包み込み、顔の高さまでゆっくりと引き上げる。そしてこころもち背筋を伸ばしてクイっと飲み干す。
「苦っ!」
思わず顔が歪む。涙目で葵を見るが彼女は知らん顔をして次の一杯を準備している。
(ま、まさか……おかわり?)
要らね、なんて言えるはずもなく祈るような思いで葵の動きを見守った。しかし、非情にも二杯目の茶が完成されてしまった。もはやそれは拷問に近い。再び無言で押し付けられる碗と葵の顔を恨めしく見比べる。彼女の目は早く飲めと催促している。
無理だ。逆らえない。ここは耐えるしかない。
「い、いただきまふっ!」
意を決して碗に口を押し付ける。そして一気に傾ける。粉っぽい液体がヌルリと口の中に侵入してきた。
(んっ! あれ?)
想像していたのと違う!
(お? 甘い?)
口の中でぱっと開いた甘みが、まるで花火が夜空に吸い込まれるようにすっと消えて、その代わりにほのかな苦みが心地よい余韻となって膨らんだ。
「うまい!」
思わず出た言葉に葵が笑みを浮かべる。
「わざとですわ」
「わ、わざと?」
「一杯目はわざと苦くしたのです」
「なんでそんなこと……」
「喝を入れて差し上げたまでですわ」
「はあ? なんか良く分からないけど……」
葵は碗を下げながら意味深な顔つきで言う。
「あの件以来、腑抜けてらっしゃったでしょう?」
彼女の言葉にはっとした。そしてこのお茶会の意味を理解した。
「そっか……」
昨日の失態で意気消沈している自分を叱咤激励しようということなのだろう。相変わらず素っ気ない態度ではあるが、これは葵なりの気遣いなのだ。葵は三杯目のお茶を用意しながらぽつりと呟く。
「あなただけではございませんことよ」
「え?」
「わたくしも昨夜は眠れませんでしたわ」
「寝れなかったってどういうこと?」
葵は自ら入れた茶を飲み、背筋を伸ばしたまま告白する。
「後悔しているのですわ。あの時、マニュアル通りに対処していれば良かったのに。わたくしの判断ミスのせいで、みなさんを危険な目に合わせてしまいました……」
彼女が言う判断ミスというのは敵に恩情をかけてしまった結果、不審船の連中に乗り込まれてしまったことを指すのだろう。
「いや。あの場合は仕方が無いんじゃないか?」
「いいえ。痛感しましたの。マニュアルですとか、賢人会の指示ですとか、そんなものに頼っているだけでは駄目なのですわ。わたくしたちは無力すぎます……」
「ち、違う!」と、口にしてみたものの後が続かない。励ますに相応しい言葉が何ひとつ浮かんでこなかった。
「わたくしたちのやっていることは本当に役に立っているのか……不安になってしまいますわね」
もしかしたらその葵の台詞は彼女達の本音なのかもしれない。あの事件で自分達の存在意義が揺らいでいるのだ。所詮、国土防衛といいながらも本物の暴力の前では彼女達はあまりにも無力なのだ。事実、あの気の強い葵がそんな弱音を吐くなんて今までなら考えられなかった。
彼女は目を伏せながら言う。
「もう自衛隊に任せてしまった方が良いのかもしれませんわね。幾らわたくし達が頑張ったところで限界がありますわ」
「確かに本職に任せるのが一番かもしれないな。ここが奪われてしまったら国の損失だからね」
「そうですわね。もう、わたくし達にはここにいる意味がありませんわね」
「いや、意味はあると思うよ。だって……」
そこでお腹が強烈に鳴った。あまりに大きな音だったので次の言葉が飛んでしまった。
(せっかく良いことを言おうとしてたのに!)
「なんですの? それは」と、葵が吹き出した。
今まで神妙な顔をしていた彼女が本気で笑う姿を見てこっちも嬉しくなってきた。
「いやあ、落ち込んでても腹は減るもんだな」
「仕方ありませんわね。金ちゃんヌードルでしたら用意できますけど」
「そりゃ、ありがたい。是非」
「お待ちくださいな」
そういって彼女は部屋の隅にあった小さな和家具からカップラーメン二つと割り箸を出してきた。そして手早くそれを開封してお湯を注いだ。すぐに良い匂いが立ち込める。
三分待って頂くことにする。
「本当はこの部屋で頂くなんて、はしたないのですのよ」
「その割にはしっかり常備してるじゃないか」
そう突っ込むと葵はいたずらっ子のように笑う。
「フフ。それは秘密ですことよ」
カップ麺を啜りながら葵が食べるところを盗み見した。着物姿で背筋を伸ばしてカップ麺を食する姿は実にシュールだ。
「このラーメンおいしいよね」
「ええ。わたくしも好きですわ」
皆から分けて貰った食料の中にあった中でもこのカップ麺が一番美味しかった。独特の匂いがくせになる。ただ、どう考えてもこれは葵のようなお嬢様の口に合うようなものではない。そこでこの際だから素朴な疑問をぶつけてみた。
「あのさ。前から不思議に思ってたんだけど。なんでこれが好きなの?」
「いけませんの?」
「いや。君んちは名家なんだろ。なら、もっと良いもの食えるんじゃないか? なのに、こんな安っぽいものが好きだなんて……」
その瞬間、空気が凍った。
「……」
葵の箸が止まっている。と同時に、葵の瞳から一筋の涙が零れる。
「え?」
「……」
顔をあげてこちらを見る葵。今までに見たことのない表情に息を飲んだ。
「ちょ、なんで泣いてるんだよ……」
「あ!」
葵は顔を隠すような仕草を見せる。。
「た、食べ終わったんでしたら早くお帰りになって!」
「ちょ、ご、ごめん。何か気に障ったのなら謝る!」
「いいから早く出て行ってくださいな!」
(な、なんなんだ?)
豹変した彼女の態度に戸惑いながら茶室を後にした。
* * *
葵の部屋から追い出されてから夕方までぐっすり眠ってしまったので喉が渇いてしまった。そこで冷たい飲み物が欲しくなって司令室の冷蔵庫まで氷を取りにきたのだが、明かりのついていない司令室は真っ暗かった。電気をつけるのも面倒だったのでそのまま室内を横切ってキッチンへ向かおうとした時だった。誰かの声が聞こえてきて立ち止まる。
(誰か居る?)
無人だと思っていたのでぎょっとした。
「そんな! どういうことですの?」
声は機器が並ぶ右奥の方から聞こえる。
(今のは……葵?)
盗み聞きするつもりはないのだが、部屋の真ん中まで進んでしまった以上、戻るに戻れない。
「説明して頂きたいですわ。申し訳ございませんが幾ら命令といわれましても……」
どうやら彼女は衛星通信で誰かと連絡をとっているらしい。その口調から相手は彼女達のクライアント、おそらくは賢人会のメンバーではないかと思った。
「ですから巻き込むわけにはいかないのですわ」
聞こえてくるのは葵の声だけだ。残念ながら相手の音声までは聞き取れない。
「え? 人違いではないですって?」
葵は『人違い』という言葉を口にした。
(それって俺の事?)
もしかしたら彼女は賢人会の人間に自分のことを相談しているのかもしれない。
「保険、ですって? そんな……そんなこと」
思わず声が出そうになった。
(なんだって? 今、『保険』って聞こえたけど……)
「それはあまりにも非人道的なのでは? え? それは本当ですの? 他の県の方もご存じ、なんでございますの……」
彼女の様子からロクでもない内容であることは容易に想像することができた。
(なるほどね……そういうことか)
四国とは何の関係もない自分がここに連れてこられた理由。ようやくそれが分かった。
(万が一の時の人身御供にする為なんだろうな)
悪い予感ほど良く当たる。というより悪い予感しか当たらない。
(そりゃ、県のお偉いさんからしたら彼女達に犠牲が出るのは困るもんな)
薄々感じていたこととはいえ、それが確定してしまったとなるとショックはでかい。
(そっか……そりゃそうだよな)
自分みたいな『どうでもいい存在』に唯一、見出された価値がスケープゴートだったとは泣けてくるぐらい光栄な話だ。
氷は諦めて忍び足で部屋を抜け出した。