第4話 四県分立のワケ
緊急招集の名目で全員が司令部のダイニングに集められた。
「なにごとだよ?」と、涼は面倒臭そうに欠伸をする。
「なにかあったの?」と、愛美も不思議そうに自分の席に着く。
亜紀はいつの間にか着席してニコニコしている。
葵は皆が揃ったのを確認してお誕生日席を指差す。
「あなたはここですわ」
葵は有無を言わさず自分をそこに座らせた。そして戸惑う他の三人の顔を一通り眺めて宣言する。
「緊急動議として、この方の拘束を提案致しますわ!」
涼がきょとんとして葵の顔を見上げる。
「へ? なんだよ急に?」
葵は涼を一瞥して冷たく言う。
「スパイ容疑ですわ。この方、愛美さんのお部屋に不法侵入していましたの」
葵の言葉に愛美が焦る。
「ちょっと! な、なんか誤解されてる?」
涼の顔つきが険しくなる。
「それはいかんぜよ……」
葵が冷たい視線を愛美に向ける。
「勿論、愛媛県にも違反行為があったということになりますわね」
それを聞いて愛美が首を振る。
「待ってよ! なんでそうなっちゃうわけ?」
気まずい空気が流れた。自分のしたことでこんな大事になってしまうとは!
徳島と高知に責められる愛媛。そこに影の薄かった香川が口を出す。
「うちにも来てくれたヨ」
「は?」と、涼と葵が驚く。愛美も亜紀を二度見する。
「おうどんは食べそこなったけどネ」
亜紀は屈託のない笑顔で絶妙のフォローを入れてくれた。
これ幸いとばかりに言い訳をする。
「そ、そうなんだ。実は四国のことを勉強する為に訪問させてもらったんだ」
それを聞いて涼がふて腐れる。
「なんだよ。高知はスルーかよ!」
「いや。勿論、高知にもお邪魔するつもりだから! 順番にお願いするから!」
「高知を差し置いて愛媛と香川かよ」
「徳島もですわよ。四国と言えば徳島県でしょうに。優先順位が間違ってますわ」
「は? 普通、四国っていえば高知だろ?」
「なに勝手に四国代表になってんの? 愛媛の方が全国区だって!」
「香川はダメかなぁ?」
「高知はだだっ広いだけでしょうに! なんといっても四国の玄関は徳島ですわ」
「徳島が玄関? 愛媛だって広島と繋がってるよ」
「香川も瀬戸大橋で……」
「高知が広いだけだと? ろくな平野が無い徳島の僻みか?」
「失礼ですわ! 高知だって山ばかりでしょうに!」
「田舎具合じゃ徳島には負けるぜよ。坪尻駅だったか? 秘境駅? 誰も乗り降りしない駅が名所とか? プッ」
「秘境でしたら高知の四万十川の方ではなくって?」
「へん。日本最後の清流が羨ましいか? 徳島なんてウチら吉野川のおこぼれで満足してろよ」
「な? なんたる暴言! 皆の吉野川がいつから高知のものになったんですの?」
「愛媛も東予地方はちょっと恩恵あるけど……」
「香川もね」
「これだから野蛮人は嫌になりますわ。やはり高知県人は特殊ですわね」
「高知をなめんな! 阿波踊りしか無いマイナーな県のくせに!」
「よさこい祭りよりマシですわ。よそ者に流行らせてもらうなんてお気の毒!」
「ふざけんな! あれはこっちが頼んだんじゃねえ!」
いつの間にか葵と涼がヒートアップして目茶目茶になっている。時折、亜紀が口を挟むが影が薄いので誰にも相手にされていない。少し冷静になった愛美がドンとテーブルを叩く。
「ストップ!」
それでいったんバトルが止まった。
「涼ちゃんも葵ちゃんも熱くなりすぎ。てか、用が無いならもう解散しよ?」
葵がはっとして手を口にあてる。
「そうでしたわ。わたくしとしたことが……これは緊急動議の場でしたのに」
涼がこちらを見ながら尋ねる。
「で、結局、あんたは四国めぐりがしたかっただけってことか?」
「うん。そう。実はそうなんだ」
「じゃあ、次は高知に来るか?」
「ぜ、是非おねがいしまふ」
「わたくしはお断りしますわ。幾ら県のPRの為とはいえ、若い殿方を部屋にあげるなんて、はしたない。わたくしの目の黒いうちは入室なんて許可いたしませんことよ」
そう言って葵が改めてこちらに厳しい視線を注ぐ。その迫力のある目にたじろいだ。
「ま、まぁ無理にはお願いしないけど……」
葵は切れ長の目を光らせて言う。
「正直申し上げて、わたくしはいまだにアナタのことを信用しておりませんの。そもそもアナタは何者ですの? なぜここに来たんですの? 本当の目的を白状なさい!」
「いや、だから自分の意思で来たんじゃないんだって!」
事実なんだから釈明のしようが無い。
だが、葵の追及は止まない。
「実は、おかしいと思って衛星通信で問い合わせをしましたのよ。わが県のトップに。その結果が先ほど来ましたわ。そんな男は知らないと。それどころか人を派遣することすら把握していないとのことでしたわ」
愛美が感心したように言う。
「へぇ、わざわざ調べたんだ。直接、トップに尋ねたわけね?」
「当然のことですわ。わたくしは納得していませんもの」
涼が考え事をするようなポーズで呟く。
「そういや確かに変だよな? 人違いって思ってたけど……人を派遣すること自体を徳島のトップが知らないなんてな」
葵が腕組みしながら言う。
「みなさんも後でそれぞれ県のトップに確認してごらんなさいな」
何だか雲行きが怪しくなってきた。せっかくスパイ疑惑が晴れたと思ったのに葵はまだ自分の話を信用していなかったらしい。
そこで亜紀が首をひねる。
「でも、おっかしいなア。電気屋さんを行かせるって確かに聞いたんだけど」
「聞き間違いではなくって? それは香川のトップに直接聞いたんですの?」
葵に突っ込まれて亜紀がたじろぐ。
「い、いや、あのネ。じつはトップの人から聞いたんじゃないの。ゴメン……」
それを聞いて葵は大きく頷くと一呼吸おいて意地悪そうな表情をみせた。
「いずれ分かることですわ。この方がどの県のスパイなのか」
その言葉に他のメンツが固まる。そして互いの表情を探るような空気が充満した。
「ちょっとそれって?」と、沈黙を破ったのは愛美だった。
愛美は心外だとでも言わんばかりに主張する。
「ひょっとしてアタシを疑ってる? たまたまだよ! 一六タルトが食べたいっていうから部屋に入れただけだよ」
「あら。わたくしは何も愛媛だけが怪しいとは言ってませんことよ」
葵の視線を感じて亜紀は首を竦める。
「それじゃ、私のことも疑ってるンだ……たしかに私ンとこにも招待したヨ。うどんをご馳走したから」
そのやりとりを黙って見ていた涼が葵に文句を言う。
「葵。何でも決めつけるのはイカンぜよ!」
「そんなことありませんわ。冷静に考えれば簡単に分かることですわよ。もしも各県のトップがこの方の存在を知らないということになれば、四国以外の県、あるいは政府の意を受けたスパイということになりますわね。逆に、どこかの県の差し金だとしたら……まず、本当のことは言わないと考えられますわ」
葵の説明に涼が呻く。
「つまり、バランスが崩れると?」
「そうですわ。『各県の代表は一人』の協定違反ということになりますわね」
そこで恐る恐る疑問を口にしてみた。
「あのさ。代表は一人って、何でそんな決まりがあるわけ? みんなで力を合わせてここを守ってるんじゃないのかい?」
その問いに対して葵はやれやれといった風にかぶりを振った。
「全然お分かりではないのね。呆れましたわ。前にも説明したつもりでしたのに……」
確かに葵はここの四人は別に仲が良いわけではないと言っていた。が、てっきり本気ではないと思っていた。
「……遊びじゃなくってよ」と、葵は冷たい目をして吐き捨てる。そしてゆっくりと椅子に腰かけながら「よろしいですわ。簡単に説明して差し上げましょう」と、説明し始めた。
そんな彼女の説明は実に的を射た分かり易いものだった。まるでクイズ番組で入試問題の理科を映像で解説するみたいに。それでようやくこの奇妙なシチュエーションの意味が理解できた。
要約するとこんな感じだ。
この岩が発見されたのは今から三年前のことだ。徳島の運輸会社が所有する船の船長が航行中にこの岩を偶然発見した。この岩がなぜこんなところに出現したのかは未だに解明されていない。だが、それはある日突然に現れたのだ。まるで空気が読めないオカルト現象のように、それはひょっこり現れてしまった。
そこで愛媛県在住の船長は乗組員の香川県人にこの岩の調査を命じた。そしてその乗組員はボートでこの岩に接近すると最初に岩に乗った人間となった。
その後、船長はこの発見をどこに報告するか迷った。おそらく彼はその時、彼なりに思考を巡らせたのだろう。どこに報告することが最も自分の利益になるのかを色々と考えたはずだ。その結果、彼は愛媛県選出の参議院議員に相談をした。
そこから話はややこしくなる。通常、誰かが新しい島を発見した場合、その発見者が占有を国際的に宣言することでその島は発見者のものとなる。この場合、この岩が島と認められた時点で、日本国の新しい領土になるはずだった。しかし、相談を受けた愛媛県人の国会議員はそうはしなかった。彼はこの島を高く買ってくれる国に売ることにしたのだ。彼の考えでは、このまま島の所有権を国に譲渡しても『よくやった』と褒められるだけで何の利益も得られない。だったら、ただで国にくれてやるよりは価値を釣り上げておいて自らの地元に対する利益誘導を意図したのだ。
勿論、彼の提案を水面下で受けた政府は慌てた。もしも島が外国の手に渡ったらエライことになるからだ。そこで補助金でも一時金でも出していれば良かったものの、モタモタしているうちに香川県と徳島県の議員が横やりを入れてきた。彼らは自分達の県にも権利があるとそれぞれ主張してきたのだ。香川の主張は『最初に島に上陸したのは香川県人』だということ、徳島のそれは『船の所有者は徳島県の企業』であるということだった。そこに高知県が『場所的には高知県沖』と加わってきたから尚更、利害関係が対立した。
結論が出せない政府。互いに権利を主張する四国四県。そんな中途半端な状況が長々と続き、止む無く四国四県の話し合いでこの島の実効支配を四県がそれぞれ継続することになり、現在に至るというわけだ。
そこまで説明して葵は一息をついた。そして改めて腕組みする。
「まあ常識的に考えて、この場合、本来は徳島県に所有権があるわけですけど」
「ちょっと待つぜよ! ここは高知の沖合だぜ」
「でも最初に上陸したのは香川県人だヨ」
「愛媛だって! 最初に発見した人に権利があるの!」
四人の間に火花が散る。
葵がやれやれといった風に首を振る。
「お分かりになって? あなたの存在はここのバランスを不安定にしてしまう可能性があるのですわ。有り体に申し上げますと、邪魔なんですの」
「ちょ、ちょっと待った! 理屈は分かった。けど、自分はどこの県にも肩入れしないし、みんなの邪魔にはならないようにする! だから……」
サメの餌は勘弁という言葉を繋ぐ前に葵がピシャリと言った。
「多数決を取ります! この方を監禁するのに賛成の方は挙手を!」
しかし、葵の他は誰も手を挙げなかった。亜紀は申し訳なさそうな表情で自らの足元を見つめ、愛美は天を仰ぐ姿勢で背もたれに体重を乗せる。涼は目を閉じて何か考え事をしている。葵は一通り彼女達の様子を眺めてから首を振った。
「仕方がありませんわね。そういうことでしたらもうしばらく様子を見ることにしましょう。しかし、安心なさるのはまだ早いですわ。少しでもおかしな行動をなさった場合は覚悟して頂きますわよ」
彼女の勢いに負けて何度も首を縦に振った。
「しない。不審な行動は慎むから!」
ふいに涼が口を開いた。
「中途半端だからいけないんだよな。賢人会が何を考えてるか知らねえけどさ。さっさと決めちまえば、こんなことしなくって済むのによ」
涼の意見に愛美が同意する。
「だよね。だいたい、六ヶ月契約の自動更新ってことは、当分はこの状態が続くってことでしょ? やる気あんのかなって思う。報酬が貰えるのは助かるけど」
亜紀が上目づかいで会話に加わる。
「でもネ。誰かがここに居ないといけないンだよね?」
「それは分ってるけど……」と、愛美はふて腐れたような仕草を見せる。
会話についていけずにキョロキョロしていると葵がじっとこっちを見て質問してきた。
「なぜ、わたくし達が選ばれたかお分かりかしら? この大事な役目に」
「さ、さあ? 若いから?」
「それもありますわ。しかしながら最大の理由はこのバランスを維持する為ですの。もしもこの状態で各県の代表が殿方だったらどうなると思います?」
「ああ……多分、喧嘩になる」
「その通りですわ。このような閉鎖的な空間で殿方が四人だけで生活するとなると、必ず主導権争いが発生するはずですわ。そして下手をすると喧嘩では済まなくなるかもしれません。そうなってしまうと、四国四県でここを守るという目的を果たすことは困難になりますわね。平等に実行支配することも」
なるほど、そういうことか。それはおばさん四人に置き換えても同じことが起こりうるように思えた。女が二人居れば派閥ができるというが、四県がそれぞれ独立してここを支配するのは難しいと予想される。よって、四国四県が絶妙のパワーバランスでここに留まり続ける為には、同じ年頃の若い女の子、それも自らの故郷に強い愛着を持つ娘が適任なのだろう。
* * *
ここにきて一週間が経過した。相変わらず暇な時間を持て余し気味だが、考えてみると規則正しい生活ではある。ネットが使えないという状況にも意外と順応している。ただ、あの一件以来、お部屋訪問という作戦が封じられてしまった。かといってハーレムを諦めるつもりもない。
(くそ! あの時、葵に見つかっていなければなぁ……回数を重ねてもっと仲良くなれてたかもしれないのに)
そんな具合で娯楽室で悶々としていると突然、人の気配がしてはっとした。
「い?」
いつの間にか亜紀が横に座っていた。エッチな妄想をしているところに本人がいきなり目の前に現れたので心底びっくりした。
「な、な、なにか?」
「そろそろ行くヨ」
「ああ、そんな時間か」
そろそろ射撃の練習の時間だ。
「へいへい。いつものやつね」
「違うヨ。今日は練習お休み」
「え? じゃあ何を?」
「収穫だヨ。収穫を手伝って欲しいの」
「収穫? 何の?」
「野菜だヨ。トマトとかキャベツとか大根とかネギとか」
「へ? どこでそんな物が採れるんだ?」
「屋上に畑があるんだヨ。まだ行ったことないでしょ」
そう言って亜紀はにっこり笑った。
「へえ。そういえば屋上には行ってなかったな」
「先に行っててネ」
「了解……」
屋上にはヘリポートしかないと思っていた。が、どうやら野菜庭園が設けられているらしい。
(今日もいい天気だし、たまには日光を浴びるのも悪くないか)
そう思って、ゆっくり重い腰を上げる。
ひとりで階段をのんびり上がっていると葵が追いついてきた。
「なにをモタモタなさっていますの?」
「あ、ご、ごめん」
葵に何か言われると脊髄反射で謝ってしまう。
「早く行きますわよ。屋上でお仕事ですわ」
葵と合流して階段を上りきり、屋上に出た。
(まぶしい……)
ずっと室内で過ごしていたので太陽光への耐性が落ちている気がした。
「いい天気ですこと!」
葵は気持ちよさそうに日光を浴びている。その隣に立って屋上を見回す。
「思ったより広いな」
屋上はここが陸地から350kmも離れた海上であることを一瞬、忘れさせた。一言でいうと屋上庭園だ。土の匂い、植物の青臭い香りが鼻をくすぐる。このプラントみたいな施設のことだから、てっきり殺風景なものを想像していた。映画で見るような海洋プラントには大抵、真ん中にヘリポートがあって、その他に水槽タンクやら電力設備やらが備え付けられているものだ。しかし、ここは緑豊かな公園のような造りになっていた。
「凄いなぁ。屋上全体がこんな風になってるなんて」
芝生には適度な勾配が設けられていて、まるで丘のようだ。ところどころに配置された花壇はアクセントになっている。その中を緩やかなカーブの散歩道が奥の方まで延びている。右手には野菜を栽培していると思われる一角があって涼と愛美がカゴを抱えてトマトやナスを採っているところだった。その奥にはビニールハウスのようなものまである。その一方で、左手の濃い緑色が集まった個所からレーダーのようなものが顔をしている。
「あれは……レーダー?」
「ええ。イージス艦と同じ性能ですわ」と、隣で葵がすまし顔で答える。
イージス艦と同レベルということは、さぞかし高価なものだろう。
(おお、なんかシュールだなぁ!)
野菜の収穫に精を出す乙女達と最新鋭のレーダー設備。そのアンバランスさになぜかワクワクしてしまった。
一歩踏み出すと足元から土の感触が伝わってきた。
「お? 本物の土を敷いてるのか。本格的だな」
葵は大きく深呼吸してから伸びをする。
「ああ、いい気持ちですわ。やはり時々は自然な緑に触れていないと」
「うん。分かる気がする。緑があるのはいいよね」
「しかし、ここの緑は観賞用だけではありませんことよ」
「どういうこと?」
「この真下に雨をろ過する仕組みがありますの。この辺りは定期的に雨が降りますから有効利用しているのですわ」
なるほど、陸地から隔離されたこの場所では確かに水の確保が重要だ。そもそも川や井戸といった水源が期待できないのだから雨を貯め込む工夫が必要なのだろう。
「へえ、雨水をろ過する装置か」
「この土の下には特殊なシートが層になっていて水をきれいにするのですわ」
「特殊なシート?」
「四国のエジソンさんの発明ですわ」
「……観音寺さんダヨ」
「ああ、なるほど。何でも作るんだな。四国のエジソンは」
「……観音寺さん、ダヨ」
「ですわね。大変、助かっていますわ」
「で、ろ過した雨水は飲めるのかい?」
「そのままでは無理ですわね。お洗濯やお風呂のお水としては使えますけど、飲み水は浄水機を通しますの。それもエジゾンさんの発明ですわね」
「……だから観音寺さんダヨ」
「よく出来てるんだなあ。大したもんだな。エジソンは」
「だから! 観音寺さんダヨ!」
いきなり亜紀が大きな声を出したので驚いた。振り返るといつの間にか亜紀がすぐ後ろに立っていた。
(い、いつの間に?)
亜紀の存在にまったく気づいていなかった。いつからそこに居たのか、まるで思い出せない。てっきり葵と二人だけで話しているつもりだった。
亜紀が申し訳なさそうに頭を下げる。
「ゴメンネ。着替えてたら遅くなっちゃった」
亜紀はおばさん臭い割烹着を着ている。だが、それはそれで悪くない。元が可愛いければ変なものを着てもアンバランスの一言ですまされる。
葵が冷静さを装うように背筋を伸ばす。
「わ、わたくしたちも今きたとこですわ」
彼女も亜紀が突然現れたので驚いたのだろう。前に亜紀が自分で言っていたが確かに幽霊みたいに存在感が薄いときがある。
「……」
「……」
「……ン?」
なんとなく気まずい雰囲気。
そこに遠くから「こら! そこ! さぼるなー」という声が届いた。声の方向を見ると愛美が収穫の手を止めてこちらを見ている。
「なんだよ葵まで。早くこっち来て手伝えよ!」と、涼も大声を出す。
慌てて三人で菜園に向かう。そして、いわれるままに収穫を手伝った。
「こっち引っ張るの手伝えよ」と、涼に頼まれて大根を一緒に引っ張る。
「トマトはやさしく包み込んで捻る感じで採るのよ」と、愛美の指導を受ける。
「ネギは、おうどんの友達だからネ」と、亜紀から大量のネギを押し付けられる。
「カゴがいっぱいですわ。もっと機敏に動きなさいな!」と、葵からは厳しいダメ出し。
いつの間にか汗をかいていた。野菜なんて、皿の上にあれば適当に食うけれども自分で収穫するという発想は無かった。しかし新鮮な野菜は貴重な栄養源でもある。そう考えると屋上の仕組み一つとっても良く考えて造られているなと感心する。それに普段と違う共同作業というのが良い。つい嬉しくなって頑張ってしまった。こんなに無邪気に土と戯れたのは幼稚園の頃に『芋堀り』という名の強制労働に駆り出されて以来かもしれない。
* * *
水は貴重なもの。そう考えるとシャワーの使用が三日に一回と制限されているのは仕方のないことだ。しかし男の自分ですら好きな時に汗を流せないのは気持ちが悪いのに、年頃の女の子が毎日風呂に入れないのは結構なストレスになるんじゃないかと思えた。
(贅沢は言えないよな……)
こうして自分がシャワーを使わせてもらうということは余計な水を消費してしまうことに他ならない。せめて無駄遣いはしないようにと考えながら脱衣所で服を脱いだ。
Tシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぐ。一枚しかないパンツは洗濯中なので止む無くノーパンだった。なのでズボンをとると無防備にポロンと股間はフリーになる。
(ん?)
ふと背後で気配がした。唸り声……それも低い位置で。
「え?」と、振り返って土佐犬のポニョと目が合う。
相変わらず神出鬼没なやつだ。それにしても今日はやけに機嫌が悪そうだ。というより敵意丸出し。こっちは股間丸出しだけど。
「あのなぁ。俺、風呂入るんだけど? どいてくれない?」
そういって手で追い払う仕草をした。
その瞬間、バッとポニョが飛びかかってきた。というよりも目の前を通過した。一陣の風。そして確かに『ガチッ!』という音を聞いた。
何が起こったのか分からない。ぽかんとしているとポコチンの先っちょに痛みを感じた。
「い、痛っ!」
見ると先端に血が滲んでいる。まさかと思ってポニョを見る。するとこの獰猛な土佐犬は歯をむき出して再び飛びかかろうとしている。慌てて両手で股間を隠す。
「ちょっ! マジか! てか、何すんだよ?」
ポニョとの睨み合いが暫く続いた。その間も鋭い痛みが続く。
ようやくポニョが落ち着きを取り戻し、プイとそっぽ向いてシャワー・ルームから出て行った。まるでお前なんかに興味は無いといった風に。
それを見送って、ほっと一息ついた。そして自らの分身を確認する。だが皮が少しめくれて血が出ている。
(危なかった……あと2センチでかかったら食い千切られてかも)
そこに突然、涼が入ってきた。
「ちょ! なんだよ?」と、反射的に再び股間を押さえる。
「あ、悪ぃ」と、涼は顔を背ける。そして頭をポリポリ掻きながらいう。
「いや。大きな声がしたからさ。で、ポニョがいたから、もしかしてと思ってさ……だったらちょっとマズイかな……なんて、心配になってさ」
涼の言葉が、やけに歯切れが悪い。
むっとして文句を言う。
「あの犬、突然、襲ってきたんだけど?」
「そっか。やっぱり……ごめん! 申し訳ない!」
涼が必死に頭を下げるのでますます分からなくなってしまった。
「いや。だから何でそういうことになっちゃうわけ?」
「てか、大丈夫? ちゃんと付いてる?」
「ついてるって何が?」
「だから……その、オチン……」
「え? なんだって?」と、少し意地悪く聞き直してやった。
「あの、だから男の人の大事な部分。ポニョがまたやっちゃったんじゃないかと……」
それを聞いて青ざめた。
「またって……前科があんのかよ!」
「うん。今までに三回」
「ちょっと待て。そんな犬を放し飼いしてんのかよ! 危ねえだろ!」
「ごめん。本当に申し訳ない。でも、ポニョはウチのことを守ってくれてるんだ」
涼のしょんぼりしたところを見て徐々に怒りが静まってきた。むしろ、なぜ過去にそんなことがあったのかが知りたくなってきた。
「どういう状況だよ。犬が股間に噛みつくとか」
「それは……ウチが襲われているところを助けようとして……」
そういって涼が身震いするような仕草をみせたので戸惑った。それをみて想像する。
(襲われたってことは……)
咄嗟に、あまり追及してはならないと思った。話題を変えなくてはならない。
「そっか。でも勘弁して欲しいよ。これじゃ、トイレと風呂に入る時に気をつけないといけないな」
「ごめん……せめて傷の手当をさせて欲しい」
涼は神妙にそう申し出た。
「い、いや。でも場所が場所だけに」
思わぬ提案にドギマギした。
「いいから! 見せてみなって!」
涼が急に手を引っ張るものだからアレがポロリとお辞儀してしまった。
「うっ!」と、涼が顔を赤らめる。
「あっ……」
涼は明らかに自分のアレを意識している。
「こ、困ったな。救急箱が無いと手当できんぜよ。仕方ねえ。ウ、ウチの部屋に来る?」
そこで悪魔的な考えが生まれる。
(おいおいおい! これはひょっとしてチャンスかも? 彼女は本気で申し訳ないと思ってるみたいだ。 だったら鬼畜といわれようと、そこにつけ込むことはできないか? 治療と称して触らせる。じっくり丁寧に。それでもってお詫びのしるしに、あんなコトやこんなコトを……)
走馬灯のようにエロシーンが脳裏をよぎった。
「しょ、しょうがないな。じゃあお言葉に甘えて」
既に大きくなってしまったものを巧妙に隠しながらズボンを履こうとした。
(やっぱ痛ぇな。けどこのまま上手くいけば……)
涼は頬を赤らめて大人しく待っている。
と、その時だった。無情にも鳴り響く警報。
涼の表情が一変した。
「きたか!」
彼女はそういうやいなや素早く部屋を飛び出していった。
(そんなぁ……マジかよ)
甘い希望はスクランブルに打ち砕かれてしまった。急速に熱が失われていくのを自覚した。そのせいなのか股間がやけに寒い……。