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トロピカルストーム

作者:あると
この夏、俺は早い休暇をとった。
南西の楽園への旅。
出発前に天候が悪くなるようなことをニュースでやっていたが、そんなことは嘘のように晴れ渡っていた。南国は俺を歓迎してくれたようだ。
肌に湿気を感じたが、降り注ぐ太陽の光がたちどころに蒸発させた。
俺は身体にまとわりついていた仕事や会社という服を脱ぎ捨て、バカンスという新しいシャツに袖を通した。
「うまい!」
いつものビールより軽い飲み心地が心を浮き立たせる。煮込んだ肉のように身も心もほろほろとほぐれていった。
彼女が手を振っていた。
早くも酔い始めていた俺は、笑顔で手を振り返した。

青いサンゴ礁、さざ波の白い泡立ち、ふんわりと香るフルーツ。
どれもが日常とかけ離れた時間を刻む。耳を澄ますと、島国特有の弦楽器の音が聞こえてきた。
「わあ、綺麗」
「そうだね」
オーシャンビューのホテルに荷物を置いて、俺たちはさっそく砂浜に駆け出した。
最初はひやっとした水温も、ものの数秒で心地好さに変わった。バカンス気分だけでなく、彼女の水着姿が俺を火照らせた。
「まだ来ないね」
彼女が水平線の彼方に手をかざした。
「何が?」
俺のしまりのない顏を指さして彼女は笑う。
「台風よ、台風!」
「ああ、そう言えばそんなこと言ってたな」
フライト直前に見た天気予報で、島に台風が最接近すると報じられていた。帰る日は通り過ぎる見通しだったから、あまり気に留めていなかった。
「直撃するんだよ。風が強くなってきた感じだね」
彼女は機嫌がよかった。嵐が待ち遠しいなんて、子供みたいだ。
「おわっ」
胸まで迫った波によろめいた。台風がこの潮を呼んでいるのだとしたら、ずいぶんと強い暴風雨になるだろう。
足の間を何かが通った。俺は驚いて足を滑らせた。塩水を吹き出して後ろを振り返る。波が躍っていた。ビーチではカップルたちがくつろいでいた。
「ん?」
砂地に刺さったパラソルが歪んだ。ほんの一瞬。まばたきをして、見間違いだと気づいた。
「何やってんのー」
沖からの笑い声。彼女は驚くほど泳ぎが達者で、すでにリーフの際にたどり着いていた。陽光が海面に反射して輝く。銀色のきらめき。人魚のように美しい。
「あそこの岩場まで行くよー」
「待って」
彼女の声に引っ張られて、俺も水を蹴る。
あの歪みは何だったのだろう。
慣れていないコンタクトのせいだと、その時は思った。

夜。
案の定というか予定通りに、島は暴風圏に入った。
エントランスの自動ドアは閉鎖され、外出を控えるように案内された。近隣の飲食店やショップも早々に閉店した。
夕食はホテルのレストランで郷土料理に舌鼓を打った。同じようなメニューは前にも食べたことがあったが、さすがに地元だけあって新鮮な食材や独特の味付けが味覚を刺激する。彼女はどこか上の空だったが、俺が美味しさを熱弁すると笑顔になった。
「風、強いな」
カーテンの外には、部屋の灯りに照らされたネットが波打っていた。風で飛ばされてきた飛来物を防ぐ防護用の網だ。葉っぱや小枝が絡んでいたが、小さな飛来物は隙間から入り込んでいる。砂の粒と一緒に、窓にべったりと貼り付いていた。
「まだまだ、これからよ」
彼女はさして緊張していなかった。度胸があるのか、ホテルを安全だと信じているのだろう。俺もそれにあやかりたかったが、ゴゴォという風の音を聞いていると、平静ではいられなかった。
「そろそろ、寝ようか」
「もう?」
彼女は携帯電話の時計を見た。九時過ぎ。子供でもまだ眠気を催すかどうかという時刻だ。
「まあまあ」
俺が腰に手を回すと、意図を察した彼女はエッチと言って腕を絡めた。携帯をテーブルに置いて、汗で少し湿った身体を預けてきた。

朝。
窓の外の轟音は続いていた。いや、より凄まじくなっている。
昨夜は風の音の後に一定の小休止があったが、今では連続した音の流れだ。あちこちから風が吹いているのではなく、大雨の後の川のように一方向に押し流している。この風に乗ったらどこか遠い国まで行けそうだ。
「すごい、すごい」
俺の驚きをよそに、彼女ははしゃいでいた。
「ねえ、ロビーに行ってみよう。あそこのほうがよく見えるよ、きっと」
サンダルを履いた彼女を追いかけて、俺は慌てて部屋の鍵をつかんだ。
エントランスの正面は一面ガラス張りだ。そこからビーチが一望できる。白波が海を覆っていた。穏やかな南の海、珊瑚の色はどこにも見えず、波の白と暗黒の海原が色彩のすべてだった。
ヤシの木はしなり、枝が真横に吹き流されている。ちぎれた葉っぱが窓に張り付いて、また飛んでいった。
「おい、戻ろうぜ」
他のお客さんは沈んだ顔をしていた。それなのに、彼女だけが笑顔だった。船や飛行機が運航中止となったせいで、帰れなかった人もいるだろう。嫌な気分にさせたら申し訳ない。
「写真撮ってから」
携帯を取り出した彼女の壁になり、俺はじっとりとした汗をかいた。廊下を子供が声を上げて走っていた。彼女のはしゃぎっぷりは、あの子たちと一緒だ。
ホテルはと言えば慣れたもので、外出できない客たちのために、ライブを開催するとのアナウンスがあった。
「ライブだってよ」
やることもない……わけではなかったが、せっかくだからと俺たちはライブを観ることにした。部屋に籠もりきりのほうが体力の消費は激しい。昨夜の彼女は、持久力が十分にあることを証明した。
ギターと三線サンシンのコラボレーションは小気味よかった。伸びのある歌声が嵐の音をかき消す。目を閉じると、昨日まで感じていた南国の陽気さと暑い空気がよみがえってくる。
歌と音に聞き惚れた俺は、拍手を惜しまなかった。他のお客さんも同じようで、表情も幾分明るくなっていた。
「あれ」
海に面した窓ガラスの外にも、飛来物を防ぐネットがあった。端のほうはしっかりとロープで結ばれている。そのネットと壁の間に隙間があった。歪んで見える。
ビーチのパラソルに重なって見えたあれだ。俺は眼鏡を持ち上げた。今日、コンタクトはしていない。
陽炎のような靄はすぐに消えた。隙間も小さくなった。
「おかしいな」
「ね、飲むでしょ」
目をこする俺に、彼女がビールのジョッキを差し出してきた。受け取ってすぐに乾杯と言われた。
「ああ、乾杯」
彼女は泡の髭を作りながら携帯をいじった。
「メール?」
「うん、仕事の連絡」
微笑む彼女の髭を拭き取ってやると、ありがとうと投げキスされた。
「なんだろ」
ホテルマンが慌ただしく動いていることに気づいた。よく聞き取れなかったが「入口」とか「ふさぐ」とかの単語が発せられていた。ドアが壊れでもして、風雨が吹き込んできたのだろうか。
「さあ」
彼女は携帯をしまい、耳をそばだてた。俺も心に響く音色に目を閉じた。

演奏会は終わり、俺たちは部屋に引き上げた。ホテルの入口、別館への通路に従業員が二名ずつ配置されていたのは、ずいぶんしっかりとした体制だなと感心した。
「停電」
部屋に入った途端、照明が消えた。つけっぱなしだったテレビもエアコンもすべてが止まった。冷蔵庫の唸る音も途絶える。
嵐の猛威が際立った。
悲鳴のような甲高い声。
「子供が怖がっているみたいね」
窓越しの海の写真を撮った彼女は、指を忙しく動かした。また、メールだろう。
「怖いだろうさ」
大人の俺ですらぞっとする。ホテルの中だからまだいいが、外に出なければならないとしたら震え上がる。ホテルの従業員は今頃、ドアの応急修理をしているはずだ。仕事とは言え、頭が下がる。
「あれれ、怖いでちゅかー」
彼女は幼児言葉で俺の頭を撫でた。
「まさか」
俺は、彼女の手にキスしてごまかした。そのままベッドに押し倒す。その途端、停電が復旧して照明とテレビがついた。「消して」という彼女の言葉に、俺はすぐさま従った。

夜半過ぎ、嵐は幾分穏やかになった。俺は彼女を起こさないようにベッドを降りた。ビールの水分が外に出たいと言っていた。
「なんだあ?」
トイレに行く途中で水たまりを踏んだ。まとわりつくような感触が海水のようだ。窓から離れていたから、雨が吹き込んだわけではない。床の掃除は後回しにして、俺は用を足しながら足を拭った。
「わっ」
「あたしも」
トイレから出ると、携帯を持った彼女がドアの前に立っていた。情けないことに、心臓が止まるかと思った。彼女は俺の顔を見て吹き出した。
「今の顔、撮りたかったなあ」
「やめろよ」
「はーい」
「そこ濡れてなかったか?」
「ううん」
彼女はトイレのドアを閉めた。
首を傾げつつ、照明をつけた。
「おかしいな」
どこも濡れていなかった。だが、足のべたつきは残っている。窓際まで探っても、どこにも濡れた形跡がないのはおかしい。ただ、室内に磯の香りが残っていた。
「どうしたの」
這いつくばっているところを彼女に見下ろされて、俺の危険信号が明滅した。
「待て、撮るな!」
彼女が携帯を構えるよりも早く飛び起きた。彼女は唇を尖らせた。

翌朝、台風は木の枝やゴミの置き土産を残していた。風はまだあったが、外出に支障があるほどではない。
海辺には暑い空気と雲のない青い空、美しさを取り戻そうとするコーラルリーフが広がっている。
チェックアウトの際、ホテルマンの目の下にクマがあるのに気づいた。焼けた肌でもわかるくらいだから相当の濃さだ。俺たちがぐっすり寝ている間も、台風の対応で忙しかったのだろう。
「またのお越しをお待ちしております」
ホテルマンの丁寧な挨拶に会釈して、俺たちはシャトルバスに乗り込んだ。
「今日は大人しいじゃないか」
チェックアウトの間、彼女は珍しく静かだった。携帯もいじっていない。
「ひと仕事終えてほっとしたの」
「メールの件?」
にこやかに笑った彼女はロビーから出て行く若い女性たちに手を振った。俺は彼女の視線の先を追い、ずり落ちた眼鏡をかけ直した。
手を振り返した女性の顔が揺らめいた。
海で見たパラソルの歪み、窓ガラスに見た陽炎が脳裏をよぎる。グループの中の若い女の子が満面の笑みを浮かべて、唇を動かした。
ありがとう。
バスが動き出した。
「おい、今の!」
彼女は俺の胸に手を置いた。瞳が交わされた。吸い込まれそうになった。ブラウンの円の中で真夏の熱を感じた。
揺らめき。
そして、めまい。
俺は頭を振った。
携帯が目に入った。今時のスマートフォンではなく、一昔前の携帯電話。液晶画面が歪んでいた。波紋が幾重も広がり、波打っている。
熱気。
彼女の指がせわしなくボタンを押した。画面は見ずに、俺を見ている。
「彼女たちはバカンスに来たの」
「あの人たちは」
誰だ。
それに、君は?
強い陽射しが窓から差し込んで、俺の目を焼いた。
思い出した。俺は一人で旅行に来たはずだ。それなのに、何故、女と一緒にいる。独身で、付き合っている女もいない。現地調達なんて都合のいい言葉とも、今まで縁がなかった。
「次はどのホテルがいいかな」
喉が渇いた。手に痺れを感じる。熱中症かもしれない。
「四日後に上陸する台風はあそこの島に直撃ね。大きな島だから予約しないと難しいかも。いくらかはキャンセルが出ると思うけど」
「俺は……帰るぞ……」
頭が痛む。
「駄目よ。まだ台風のシーズンは始まったばかりなんだから」
彼女の向こうに広がる青い空。真夏の太陽がぎらぎらしている。夏休みの子供を連れた家族が歩いていた。
おかしい。
俺は早めの夏休みを取ったはずだ。小学校も中学校も、休みには入っていない時期なのに、家族連れが多すぎる。今日は何月何日だ。
「きっとあのホテルが人気よね」
彼女は携帯でホテルの空室状況を調べていた。
「南の海の住人たちも夏休みを楽しめるし、あたしも高級ホテルで遊べるし、あなたも仕事のことを忘れられて満足でしょう?」
記憶がぼやけてきた。夏の歪みのように。暑さのせい……なのか。
「次の宿に着いたら海に行こうね。パラソルで目印をつけなきゃ。その後なら、自由時間を満喫できるよ」
彼女の手が胸から離れ、手の甲に重なった。さらりとした感触の生地が肘に当たる。不意にやりかけの仕事がフラッシュバックして脳を叩いた。この生地はトロピカルクロスだ。俺が販売を担当していた商品。彼女が身につけていて嬉しくなる。
頭の中がグルグル回り始めた。
「バスが着いたら起こすから、寝ていていいよ」
甘い吐息に磯の香りが混じっていた。
「シーズンが終わったら、あたしも休みを取ろうっと。北の海にも行ってみたいな」
彼女の呟きを聞きながら強い眠気が忍び寄ってきた。眠りに落ちる寸前、彼女があっと声を上げた。
「やだ、剥がれちゃった」
重い目蓋を開くと、彼女は何かをつまんでいた。
虹色の貝殻。銀色のきらめき。爪ほどの……鱗?
台風の返し風が、彼女から光る欠片を奪い去った。
あれがなんだったのか、俺が知ることはなかった。

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